飛行機事故死・向田邦子さん「神はあまりにむごい」 卓越した筆の力で今なお多くの人を魅了

 この8月22日、作家・向田邦子さんが亡くなって40年になる。

 その日、午前9時54分、向田さんが搭乗した遠東航空103便(ボーイング737型機)は、台北を発(た)ち、高雄空港へと機首を向けていた。機体に異変が起きたのは、離陸から16分後の午前10時10分。台北からおよそ西南150キロの三義村・火焔山(標高601m)の山中に航空機は墜落した。乗員乗客110名全員が死亡するという、台湾の航空事故としては、犠牲者がもっとも多い(当時)大惨事となった。


■向田さんにとって初めての台湾旅行


「毎日新聞」は第一報で、こう報じている。

〈現場は、三義駅から徒歩で約1時間の火焔山の山林。地元警察のほか、台北からもヘリコプターで救助隊が現場に急行、救助活動をつづけているが生存者はない模様〉

〈台北市の遠東航空本社に入った目撃者の話などを総合すると、同機は爆発と同時に真っ二つとなり、空中に投げ出された乗客らで「空が一時、真っ黒になった」という〉(1981年8月23日)

 向田さんにとっては、初めての台湾旅行だった。知人3人との取材旅行で20日に現地入り、故宮博物館などを見学していた。高雄では「珍しい蝶の採集」のスケジュールが組まれていた。

 22日のその晩は、高雄のホテルに宿泊予定だった。向田さんは東京・青山にある事務所の留守番電話に、連絡先としてホテルの電話番号を吹き込んでいた。

 向田さんの妹・和子さんはその日、「台湾で航空機墜落」のニュース速報をテレビのテロップで目にした後、姉の電話番号をダイヤルしている。この時点で、向田さんの訃報はまだ届いていない。が、〈落ち着いて、落ち着いてと自分に言い聞かせながら〉、姉の声を聞いたという。

「私、ただいま旅行に出かけておりまして、帰りますのは25日夜遅くです。泊まり先を申し上げますので、お急ぎの方は……」

〈(留守番電話から)台湾高雄のホテルの電話番号が姉の声で流れる。メモをとり、直接ホテルに電話を入れたが、日本語は通じるのにこちらの意志が通じない。受話器を置いて、何度か電話を入れ直したが、結果は同じ。むこうも混乱していた。ザワザワして電話は切れた〉(『向田邦子の恋文』)

「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「あ・うん」などの人気テレビドラマで、向田さんは脚本家としてはすでに知られた存在だった。倉本聰氏、山田太一氏とともに、「シナリオライター御三家」と呼ぶ声もあった。

 その向田さんが、第83回直木賞に選ばれたのはこの悲劇の前年、1980年7月のこと。「小説新潮」連載中の連作短編3作で受賞するという、異例のカタチだった。「連作短編なのだから、完結を見てから」と意見する選考委員もいた中、水上勉、山口瞳、阿川弘之の3氏が強力に推していた。

■卓越した筆の力で今なお多くの人を魅了


 水上勉氏は、その時の興奮を次のように書き残している。

〈候補作3品のどれをとっても、向田さんの芸はすきまのない仕上りぶりで光っていた〉

〈わずか20枚前後の短編3作であったけれど、誰もが真似(まね)できぬ辛苦の世界へ入って彫(きざ)みこんでいる。向田さんの世界がみずみずしい花のように見えたからである〉(『思い出トランプ』解説)

 向田さんが文筆の世界に入るきっかけを作ったのは、俳優の森繁久彌氏だった。人気番組「森繁の重役読本」(TBSラジオ)の台本が好評で、その後、放送作家の道を歩んでいる。62年3月に始まった同番組は、およそ2,500回を数える長寿番組となった。森繁氏は、向田さんの事故に接し、次のように惜しんだ。

〈したたかな才能でした。まだまだ精神的にも若く、これからと期待していたのに。神はあまりにもむごいことをなさる〉(前出「毎日新聞」)

 同時代を生きた、4つ年上の脚本家・橋田寿賀子氏は、「仕事に手がつかない状態です」と心中を吐露し、言葉を寄せている。橋田氏はこの年、NHK大河ドラマ「おんな太閤記」(主演・佐久間良子)の脚本を担当していた。

〈他人の気持ちをよくわかってくれる人でしたね。仕事は、私のようなドロくささのない、鋭い感性で書いていました。何より、セリフがアカぬけていました〉(同年8月23日「朝日新聞」)

 向田さんの遺体が確認されたのは、4日後の26日午前のことだった。翌日夕方、台北市内の葬儀場で、荼毘に付されている。現地の風習に乗っ取って、銅鑼や太鼓が賑やかに打ち鳴らされる中、遺骨は白い大理石でできた壺の中に納められた。

 立ち会った肉親は、日本から駆け付けた弟一人だけだったという。同時刻に火葬された日本人会社員の遺族ら30人ほどが参列し、2人の故人を見送っている。

 向田さんはこのひと月前にも、南米を旅していた。頻繁に海外へ出かけるその理由を、生前、こう記者に語っていた。

〈ふつうの人間になって、生活して、元気をつけてくる。仕事のため、生きるための充電のつもりです〉(前出「朝日新聞」)

 先の水上氏はこの事故から2年後、前出『思い出トランプ』文庫版の解説で、こう書いていた。

〈私はこんど、(向田さんの作品を)よみかえしてみて、向田さんが、まだ、東京のどこかに生きてらっしゃるような錯覚をおぼえた。小説が生きるとはこういうことだろう〉

 没後40年――。直木賞を受賞した『思い出トランプ』は、累計152万部を数え、世代を超えいまなお読みつがれている。

デイリー新潮編集部

2021年8月12日 掲載

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