「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一 最後の事業「田園調布」は波乱万丈だった

「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一 最後の事業「田園調布」は波乱万丈だった

赤い屋根の田園調布駅舎は東横線の地下化によって不要になったが、駅前ロータリーに移築保存されている

 新型コロナウイルスの感染拡大をはじめ多くの問題が未解決のまま、東京五輪が7月23日に開会式を迎えた。テレビ各局が朝から晩まで熱戦を中継していることもあり、五輪大会は事前の予想を覆して盛り上がりを見せている。各局の五輪中継はいずれも視聴率が上々となっている。

 五輪中継の割りを食う形になったのが、初回視聴率が20パーセントに達したNHK大河ドラマの「青天を衝け」だ。「青天を衝け」も事前の予想を覆し、現在も評判は高い。しかし、五輪によって3週分の放送が休止になる。

 そもそも、コロナ禍により「青天を衝け」の放送スタートは例年よりも遅れた。五輪前の、最後の放送が第23回。すでにNHKからは、最終回が第41回と発表されている。逆算すれば、残りは18回となる。

 渋沢は1931年に91歳で没した。第23回の時点では、ドラマは明治を迎えていない。このままのテンポでストーリーを進めても、残りの放送回で渋沢の生涯を描くことは難しい。それどころか、後半生に軽く触れることが精一杯だろう。

 渋沢は富農の家に生まれ、一橋家の家臣となってフランス・パリへと渡った。明治になってから、渋沢は第一国立銀行を手始めに次々と企業を興した。そうした功績から、渋沢は資本主義の父と呼ばれる。

 しかし、渋沢本人は資本主義という言葉を忌避し、意図的に使用しなかったとされる。渋沢は資本主義ではなく合本主義を提唱した。これは単なる言葉の違いではなく、明らかに渋沢の思想が込められている。

 渋沢の研究は、多くの学者によってここ数年で目覚ましく進んだ。研究が進むにつれて、渋沢は公益の人と呼ばれるようになる。渋沢は単に利益を一直線に追求するだけの実業家ではなかったのだ。

 それは、渋沢が関与した企業・団体からも読み取れる。渋沢が興した営利企業は約500社と言われるが、福祉・医療・教育といった非営利事業の団体は約600社にものぼる。

 渋沢が設立・運営を支援した非営利事業は、東京養育院(現・東京都健康長寿医療センター)、東京高等商業学校(現・一橋大学)、理化学研究所など、現在でもその役割が引き継がれているものが多い。

 渋沢が非営利事業へと傾注するようになるのは50代以降になってから。つまり、渋沢の後半生こそが、公益の人と呼ばれる所以でもある。


■最後の事業は「田園都市」


 そんな渋沢が最後に手がけた事業が田園都市をつくることだった。田園都市と言われても、いまいちピンとこない人が大半だろう。田園都市とはイギリスの社会運動家であるエベネザー・ハワードによって提唱された理想の住宅地を指す。

 ハワードはロンドンが都市として発展していくにしたがって、住環境が悪化していることを認識。暮らしやすい郊外に田園都市を築き、理想の住宅地とした。

 渋沢はハワードの理想に共感し、日本でも田園都市をつくろうと決意する。それ以前にも渋沢は繁華街の代名詞にもなっている銀座、金融街の代名詞にもなっている兜町といった街づくりに参画してきたが、田園都市は人生の総決算ともいえる壮大な事業だった。

 1916年、渋沢はそれまで歴任してきた全企業の役職から退く。仮に田園都市に失敗しても、誰にも迷惑をかけることはない状況へと自分を追い込み、理想に描いていた田園都市づくりへと傾注していく。

 イギリスで生まれた田園都市という思想は、日本に輸入される過程で本場・イギリスとは異なる形態になったが、渋沢が築いた田園都市は後年に高級住宅街の代名詞でもある田園調布として結実した。

 日本版田園都市をつくるにあたり、渋沢は田園都市株式会社という企業を設立。それまで設立・経営に関わった全企業から身を引いた渋沢は、田園都市株式会社に資金の支援をしても経営陣として名を連ねることはなかった。

 田園都市株式会社の社長には、渋沢の後任として東京商業会議所(現・東京商工会議所)の第2代会頭を務めた中野武営が就任。ほか、服部時計店(現・セイコーホールディングス)創業者の服部金太郎、東京横浜電鉄(現・東急電鉄)の経営者だった緒明圭造と竹田政智などが取締役となっていた。そして、渋沢は田園都市づくりに余計な口出しをしなかった。

 田園都市の計画をスタートするにあたり、渋沢は息子の秀雄を海外視察へと派遣する。田園都市はイギリス発祥の思想だが、秀雄は欧米視察でアメリカ・サンフランシスコ郊外のセント・フランシス・ウッドの街並みを気に入る。そして、帰国後はセント・フランシス・ウッドを手本にして街を計画していく。

 街区の設計などは、矢部金太郎が担当。矢部は東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業後、内務省技師として明治神宮の造営に関わる。退官後、田園都市株式会社に入社して田園調布駅の駅舎をデザインした。

 矢部がデザインした駅舎は民家をモデルにした赤い屋根が特徴で、田園調布のシンボルになって住民からは長く親しまれる。

 1990年、東横線が地下線へと切り替えられるのに伴って駅舎が不要になり、赤い屋根の駅舎は解体される危機に直面した。しかし、住民たちが保存を要望したことにより、駅前ロータリーへと移築。現在も田園調布のシンボルとなっている。

 渋沢は田園調布の行く末を見ることなく没した。田園都市をつくるという夢は、息子の秀雄に引き継がれていったが、実質的に田園調布を育てあげたのは目黒蒲田電鉄(現・東急電鉄)の責任者・五島慶太だった。

 理想の住宅地をつくるという目標を達成したことで、田園都市株式会社は存在意義を失った。1928年、田園都市株式会社は社内の一部門だった目黒蒲田電鉄に吸収される形で消滅。こうして、渋沢最後の事業であり、念願だった田園都市の建設は幕をおろした。

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」は、折り返し地点を過ぎた。果たして、渋沢の悲願であり生涯最後の夢である田園都市をつくるところまで描くことはできるのか?

小川裕夫/フリーランスライター

デイリー新潮取材班編集

2021年8月15日 掲載

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