「藤井二冠の第一印象は“大泣きした子”」谷川浩司九段が明かす天才の素顔

「藤井二冠の第一印象は“大泣きした子”」谷川浩司九段が明かす天才の素顔

藤井聡太二冠

 ――あの時大泣きした子が、フジイなんですよ。

 藤井聡太二冠が「天才少年」と棋界で注目され始めた頃。彼の師匠・杉本昌隆八段にそう聞かされた時、谷川浩司九段の脳裏には、数年前の“号泣少年”の記憶が鮮明に蘇ったという。

「今から10年程前になりますかね。名古屋で行われた『将棋の日』のイベントに出たことがありました。何人かの方にハンディを付けて指導対局をしていたのですが、飛角を落とした一人の小学生とは、終了予定時間が近づいても対局が終わりそうになかった。で、私が優勢だったので、引き分けにしようと提案したのですが」

 すると、少年は、将棋盤に覆いかぶさるように突っ伏し、大声で泣き出した。

「負けると泣く子はよくいるんです。でも静かに涙をこぼすといった程度。あそこまで悔しがる子は見たことがありませんでした。困って“どうしようかな”と思っていたら近くに杉本さんがいたのでお任せして。ですから、私の藤井二冠の第一印象は“強い子”ではなく、“大泣きをした子”なんです」

 結局、藤井少年は、母親に抱きかかえられてその場から引き離されたそうだ。

 谷川九段といえば、タイトル獲得数は27期と歴代5位を誇り、棋界最高位のひとつである名人位も5期獲得。永世名人(第十七世)の資格を持つ大棋士だ。他方の藤井二冠は当時、8歳の小学2年生。駒落ち戦とはいえ引き分けなら大満足のはずだが、それだけ負けず嫌いだったのか。

「それもあるでしょうが、今から振り返ると対局が終わってしまうのが嫌だったということもあったのかな、と。その後、デビューしてから今に至るまでの藤井さんを見ると、将棋が好きでたまらない、将棋を究めたいという熱に溢れている。あの頃と少しも変わっていないように感じます」

 今年1月末、高校を中退し、将棋一本に専念することになった藤井二冠。7月には史上最年少でタイトルを防衛し、やはり史上最年少で九段に昇進した。現在(記事執筆時点)、叡王位に挑戦中で三冠も射程に(22日の第4局に勝利すれば史上最年少三冠)。19歳にしてはや第一人者となりつつある。

 その藤井二冠を、同じく天才と呼ばれ、将棋界で一時代を築いた“先達”たちはどう見ているのか。二人の「永世名人」に聞いてみた。

 まずは、

「デビュー直後、いきなり29連勝の記録を打ち立てて大きな話題になりましたよね」

 と語るのは、5月に著書『藤井聡太論』を刊行した、冒頭の谷川九段である。

「その時点での実力もすごいですが、後の4年間の伸びもすごい。技術的に言えば、課題だった序盤が洗練され、トップレベルに達しました。詰将棋が得意で終盤はもともと強かったから、ますます隙がなくなりましたね。同年時の羽生(善治)さんと比べても完成度は上ではないかと思います」


■羽生さん以上


 何より、精神的な成長が目立つという。

「プロになりたての頃は、ミスをすると膝を叩くなど、心の状態が態度に表れることがあったんです。しかし、ここ1〜2年はそれがほとんどなくなりましたね。昨年、藤井さんが初タイトルを決めた『棋聖戦』の第4局には驚きました。持ち時間を使い切り、秒読みに入った時に、勝ち方がいくつかある中で彼は最短距離で勝てる手を選んだのです」

 翻って自身が初タイトルを獲った時を振り返ると、大きな違いがあるという。

「勝ち筋を見つけた瞬間、私の場合は、手が震え、息が苦しくなり……。当時の観戦記を担当された随筆家の江國滋さんは“嘔吐をこらえ、苦悶の表情を浮かべている”と書いたくらいです。しかし、同じ状況で藤井さんは1分将棋になっても気持ちが揺れない。しかもタイトルを獲るための“安全”な手より、最善手にこだわった。藤井さんはタイトルがどうこうよりも、純粋に将棋が好きで、この道を究めたいと思っていることが伝わってきました」

 谷川九段は、昨年と一昨年の2度、藤井二冠との対戦経験があるが、その時も同様のことを感じたそうだ。

「昨年の対局では、藤井さんは1時間半以上の長考を2回連続でしました。これだけの時間、プロでも集中し続けるというのは難しいですが、彼は気が緩まず、自分の手番だけでなく、私の手番の時も考え続けている。若さと体力がないと無理なのはもちろん、何より邪念なく将棋が好きだという思いが盤を通してひしひしと伝わってきました。ひたすら将棋を究めようとしているように思います。おそらく彼にとっては、タイトル戦でも、その予選でも、たとえ研究会の対局であっても、まったく同じ向き合い方をするのでしょうね」

 実際、藤井二冠は、強豪棋士と続ける研究会でも、場に着いて1分で指しはじめ、終電ギリギリまで駒を離さないとか。

 昨秋、産経新聞のインタビューに答えたところによると、休日の生活は〈9時起床→将棋の研究→昼食→研究、将棋中継を見る→夕食、ニュースを見る→11時就寝〉とまさに将棋漬けである。

 続けて、

「藤井さんの将棋は毎回、見ていますよ」

 と述べるのは中原誠・永世名人(第十六世)である。

 既に引退しているが、現役時代の中原十六世名人は歴代3位となる、タイトルを64期獲得。名人位には15期在位し、これは歴代2位の大棋士である。

「プロが見ていてもワクワクするような将棋を指しますよね。何か新しい手を常に試みようとしている感じで、将棋を楽しんでいる。技術的には、とにかく突出した終盤の強さがある。加えて序盤や中盤の力もどんどん上がってきました。これでさらに精度が上がってくれば、本当に向かうところ敵なしという感じになってきますよね」

 谷川九段同様、精神的な強さも指摘する。

「挑戦する時はともかく、防衛戦は“守り”の意識が出てしまい、手に伸びを欠いてしまって難しくなるのですが、そういったところはまったく見受けられませんでした。あの隙のなさは、羽生さん以上かもしれませんね」

 確かに年齢と比して、異常に大人びた立ち居振る舞いが目立つのである。


■二つの大記録


 デビュー以後、将棋界の記録を次々更新してきた藤井二冠。

 現在も愛知県瀬戸市の実家住まいで、時にスーツにスニーカーを履いて対局場に現れるほどファッションに無頓着。ちなみに苦手なものはキノコだとか。

 その彼をして破るのが困難とされる記録が二つ残っている。奇しくも谷川、中原両氏が持つ記録だ。

 まずは「最年少名人」。現在、藤井二冠は19歳1カ月。対して、この記録を持つのが谷川九段で21歳2カ月。現在の藤井二冠は名人戦の挑戦者決定リーグである(5階級の)「順位戦」で上から2番目のB級1組。記録を破るためには、今期、B級1組から最上位のA級に昇級し、来期、A級でトップの成績を収めて名人に挑戦、獲得する以外ない。つまり、一度の失敗も許されないわけである。

 谷川九段は、この可能性をどう見るか。

「いずれもストレートで昇級、挑戦権獲得、タイトル奪取という三つの壁がある。それらをすべてクリアするのはなかなか困難だと思います。率直に言えば、確率は10〜20%くらいでしょうか」

 なるほど難しい。

「でも、藤井さんはこれまでも我々が不可能だと予想したことを超える、それ以上の活躍を続けてきた。ひょっとすると……という思いはあります。それに、更新に近づけば、私の記録にもスポットライトが当たりますし」

 と笑う。

 他方、もうひとつの記録は「年度最高勝率」である。これまで藤井二冠はデビュー以来、毎年度勝率が8割を超え、いずれも全棋士中トップを記録してきたが、最高は18年度の8割4分9厘。対して歴代最高記録は、中原永世名人の8割5分5厘5毛。何と54年間も破られていない大記録だ。

「私が記録したのは、(順位戦が下から2番目の)C級1組の時でした」

 と中原元名人が言う。

「対して今の藤井さんはB級1組でしょう。上位相手だとやはり勝率は低くなってしまいますよね。それにタイトル戦は相手も強豪で、圧勝はしにくいですから、8割5分はなかなか難しい。低い組にいる時に更新したかったでしょうね。ただ、彼の力なら9割勝つことも不可能じゃないから、まだわかりませんが」

 とこれも可能性がありそうだという。それには何が必要か。

「長く棋力を維持するには、将棋だけではなく、ですね」

 と続ける中原元名人の言葉に耳を傾けよう。

「人間的な広がりが必要。将棋以外のところにも交流と見聞を広げる。それが大切なんです。私の場合は絵でした。画家の先生の下に通い、さまざまな名画を見て世界を広げましたよ」

 中原元名人は、クラシック通としても有名である。

 対して、藤井二冠の趣味といえば、鉄道とパソコン作りといったところが知られている。

「今は将棋一本でもいいが、それでは長続きしないかもしれません。その意味では、藤井さんの高校中退は残念でしたね。人生は長い。回り道に見えますが、将棋と離れる時間を持つことも更なる進化に繋がるはずです。藤井さんがどのような趣味を持つのかも見守っていきたいですね」

“号泣事件”からわずか10年余りで棋界トップの一人となった藤井二冠。棋士のピークは一般に25〜30歳といわれる。次の10年余りで頂点を極めるのか。はたまた周囲がそれを阻止するのか。19歳の“全身棋士”の戦いはまだまだ続く。

「週刊新潮」2021年8月12・19日号 掲載

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