河村たかし市長炎上に見る「何が何でも許さない」の怖さ(古市憲寿)

河村たかし市長炎上に見る「何が何でも許さない」の怖さ(古市憲寿)

イラスト・k.nakamura

 河村たかし名古屋市長の謝罪が「カノッサの屈辱」だと話題になった。発端は、市長がオリンピック選手の金メダルをかじったこと。選手の所属するトヨタ自動車からも抗議があり、本社へ向かったが幹部との面会は叶わなかった。

 実際のカノッサの屈辱は1077年のイタリアで起こった事件。「教皇と皇帝のどっちが偉いんだ」という聖職叙任権争いの末、教皇が皇帝に破門を宣告。皇帝がカノッサ城に赴き、雪降る城門の前で3日間も裸足で赦しを請うた。結果、破門は解かれる。

 この故事が元となり、英語やドイツ語には「カノッサへ行く」という慣用句が存在し、不本意で強制的な懺悔や服従を意味する。

 確かにトヨタを教皇、市長を皇帝に見立てれば「カノッサの屈辱」という比喩も理解できる。だがカノッサの屈辱には別の解釈もある。皇帝がキリスト教の教義を上手に利用したというのだ。聖書の教え通りに、改悛した者には赦しが与えられなくてはならない。教会の権威のために、皇帝を赦さざるを得ないのだ。

 実際、皇帝の作戦は成功し、破門が解かれた後で反対勢力を殲滅した。ダンテ研究者の原基晶さんが監修する漫画『チェーザレ』(7巻)の中で、皇帝は「破門したくば何度でもするがよい! その都度奴の前で跪いてやるわっ」と言う始末だ。その意味で河村市長の謝罪は、千年近く前のカノッサの屈辱には遠く及ばない。

 同時に思うのは、何か事件が起こった時、批判の仕方や、収束の方法はこの千年で成熟したのかということだ。

 カノッサの屈辱で、教皇は教義を守り、改悛を受け入れた。しかし現代のSNSでは、何か問題を起こした人に対して、「何が何でも許さない」という態度の人を見かける。ともすれば、非常に危険な考え方だと思う。なぜなら、それは「問題を起こした人には何をしても許される」という思い込みに繋がりかねないからだ。実際、オリンピック開会式を巡る小山田圭吾さんの騒動の時には、殺害予告を含めた汚い言葉がネット上に溢れかえっていた。しかも被害の当事者が何を思っているかという視点は希薄だった。

「何が何でも許さない」という正義感の行き着く先は、究極的には殺人である。歴史が教えるとおり、正義が暴走した末に人が殺された事件は、枚挙に遑(いとま)がない。今でも仇討ち殺人はあるし、SNS上の誹謗中傷に耐えられずに自殺してしまった著名人もいる。

 もちろん「何が何でも許さない」と思うこと自体は自由だ。だけど、正義感が行き過ぎると、今度は自分自身が攻撃の対象になりかねない。当たり前だが、どんなに高い理想の実現のためだとしても、法律違反になるような行為は許されない。著名かどうかは関係がない。然るべき手続きを踏めば、ネットでの匿名発言であっても個人は特定できる。

 人気ドラマのタイトルのように、次に「許さない」と糾弾されるのは「あなたの番」かもしれない。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

「週刊新潮」2021年9月2日号 掲載

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