元公安警察官は見た 「この男はロシアのスパイ」と捜査員に知らせた暗号メールの中身

 日本の公安警察は、アメリカのCIAやFBIのように華々しくドラマや映画に登場することもなく、その諜報活動は一般にはほとんど知られていない。警視庁に入庁以後、公安畑を17年務め、数年前に退職。この9月『警視庁公安部外事課』(光文社)を出版した勝丸円覚氏に、自衛隊元陸将の情報漏洩事件について聞いた。

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 公安というと、どこか暗い影のあるイメージを持つ人は少なくない。その出自が戦前の特別高等警察部(特高)だからだろうか。戦時中は戦争反対者を次々に投獄した。しかし戦後になって、GHQにより特高は廃止され、再編されて公安と名を変えた。

 勝丸氏は、1990年代半ばに警視庁に入庁。2000年代初めに公安に配属されて以後、外事畑を歩んだ。外事警察は、外国人のテロリストやスパイを監視し、テロや国家機密などの漏洩を事前に防ぐのが重要な仕事である。外事第1課がロシア、2課が中国、3課が北朝鮮、4課がイスラム過激派などを担当する。


■スーツYタイ60白髪短髪


「5年以上前のことです。都内のホテルで開催されたある欧州国の大使館のナショナル・デーのパーティで、ロシアのスパイと親しげに話している60代の日本人男性が目にとまりました」

 と語るのは、勝丸氏。当時、同氏は外事1課の公館連絡担当班に配属していた。大使館や総領事館、政府代表部との連絡・調整にあたるのが主な任務である。そのため、大使館のパーティには積極的に参加していた。

「軍服姿のロシア人は、外事1課がマークした人物で、私も写真を閲覧していたのですぐにわかりました。セルゲイ・コワリョフという男です」

 表の肩書はロシア大使館の駐在武官だが、ロシア連邦軍の諜報機関、参謀本部情報総局(GRU)の諜報員だった。

「コワリョフと話している背広姿の日本人は初めて見る顔でした。姿勢が良く、なんとなく威厳がありました。付き人らしい40代の男性を従えていました。私は、彼らに気づかれないように接近しました。2人は名刺交換した後、熱心に話していましたが、初対面の会話には見えません。互いが何者かよく知っている者同士ではないかと思いました」

 勝丸氏は直感的に、60代の日本人を調べた方がいいと判断した。

「大使館のパーティには、各国のスパイが顔を出します。この日は中国やイランのスパイもいたし、GRUとはライバル関係にあるSVR(ロシア対外情報庁)の諜報員もいました。スパイがいるところには、身分を隠し、監視や情報収集に専念する公安の秘匿捜査員が目を光らせているのですが、彼らはパーティ会場に入れません。そこで私は事前に何かあったら連絡して欲しいと頼まれていました」

 勝丸氏はパーティ会場を出て、ホテルの廊下の目立たない場所に移動した。そしてすぐに秘匿捜査員にメールした。

「文面は、『爺スーツYタイ60白髪短髪B交換 連れ1男40』です。『爺』はGRUのG、つまりコワリョフのことで、事前に打ち合わせていた符丁(合言葉)です。あとは、コワリョフと話していた男性についての情報で、スーツ姿で黄色(Yellow)のネクタイ、60代で白髪短髪。B交換は、ビジネスカード(名刺)を交換。連れは40代の男1名という意味です。メールの内容が万が一望遠鏡で見られてもいいように、こんな暗号を使うのです」

 勝丸氏のメールを受けた秘匿捜査員たちは、「スーツYタイ60白髪短髪」の男性が会場を出た後、尾行を開始したという。

■陸上自衛隊のナンバー2


「尾行チームは4、5人で編成されます。尾行した結果、この日の夜に自宅を突き止めました」

 60代男性の素性を調べて愕然となったという。

「陸上自衛隊のナンバー2で、東部方面総監にまで上り詰めた元陸将でした。数年前に退官し、大手企業の顧問に天下っていました」

 外事1課は、冷戦時代から旧ソ連など共産圏のスパイを追い続け、数々のスパイ事件を暴き「スパイハンター」の異名を持つ。もっとも、外交官特権を持つスパイは逮捕できないので、スパイに籠絡された者を摘発するしかない。

 現在、日本で活動しているロシアのスパイは、SVRが約60人、GRUが約50人、第3の
諜報機関FSB(連邦保安局)が10人弱と言われている。

「外事1課の尾行チームは、約1年に渡って元陸将の動きを追い続けました。2人の接触はかなりの回数にのぼったそうです。四谷、高田馬場など新宿区内の飲食店が多かったといいます」

 元陸将は、コワリョフとの会合場所に向かう時、降りる必要がない駅で降りて、次の電車に乗ったり、ある時はいきなり立ち止まって後ろを振り返るなど、不審な行動を繰り返した。尾行されていないか常に確認していたようだ。

「ある日、会合を捜査員たちが監視していると、元陸将がコワリョフに包みのようなものを渡す場面を確認しました。捜査チームは2人の会話を記録していたそうです。手渡された品物を特定するための捜査が行われた結果、それが自衛隊の訓練に関する『教範』と呼ばれる内部文書だったことが判明したのです」

 この一件は2015年12月に事件化した。メディアでも度々報道された。外事1課は元陸将に任意出頭を求めて事情聴取。警視庁は在宅のまま自衛隊法(守秘義務)違反の教唆容疑で書類送検した。コワリョフはすでに出国しており、ロシア大使館は出頭要請を拒否した。

「元陸将は、コワリョフに複数の教範を渡していました。かつての部下だった現役自衛官や幹部自衛官を使って入手したため、彼らも処分を受けました。元陸将はコワリョフと現役時代から顔見知りで、退官後に再会してから協力し始めたそうです。部隊の運用法についてコワリョフに教えたところ、そのマニュアルのようなものはないかと問われ、教範を渡すことになったのです」

 外事1課は、事情聴取した段階で元陸将はロシアの本格的な協力者にはなっていなかったと見ている。事件化したことにより、さらなる深みにはまって重要機密の漏洩を未然に防いだというわけだ。

デイリー新潮取材班

2021年10月5日 掲載

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