城下町はグルメの宝庫? 現存する「12天守」とともに楽しめる郷土料理一覧

城下町はグルメの宝庫? 現存する「12天守」とともに楽しめる郷土料理一覧

姫路城

 日本の城の象徴「天守」。現存するのは全国に12のみで、風雪に耐えた木造のホンモノは、いずれも訪れる価値がある。そのうえ城下町はグルメの宝庫。そろそろ涼しさが増してマスクも苦にならない季節に。やっと緊急事態宣言が明けて、久々の旅先にどうだろう。

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 本格的な秋の行楽シーズンも到来し、旅が楽しめる日も近い。そこで今回は、城の代名詞といえる天守を特集。旅の満足度を高めてくれるご当地グルメとともに、その魅力を紹介したい。


■「現存12天守」とは


 全国には、江戸時代から残る天守が12棟ある。昭和に入っても約60棟、1940年代にも20棟が残っていたが、太平洋戦争の空襲などで焼失・倒壊してしまった。奇跡的に残ったこれらの天守を「現存12天守」と呼ぶ。


■実戦仕様の天守


 たった12棟といっても、実に多種多様だ。まず、戦いを想定した天守とそうでない天守がある。軍事的要素が強いのが、姫路城天守や彦根城天守。8棟の国宝から構成される姫路城天守群は、世界文化遺産として世界中の人々を魅了する壮麗さを誇るが、実は実戦仕様でもある。

 例えば、天守地階には流しや厠(トイレ)がある。天守は日常生活を送る場ではないから、これらの設備は非常時、つまり籠城時の備えだ。もっとも、実際に戦場にはならなかったため使用した形跡はない。天井付近には「高窓(煙出し)」という火縄銃の煙を排出する小窓もある。

 3階と4階にある「石打棚」は、射撃や物見のための足場だ。天守は外観の見栄えを重視するため、各階の天井の高さに違いが生じることが多い。姫路城天守の場合は手が届かないほどの高い位置に窓が配置され、窓を物見窓や射撃用の狭間(さま)に転用できない。そこで、石打棚を設置しているのだ。石打棚の下は収納庫として活用され、武具や弾薬、食料を保管していたと考えられる。

 彦根城天守も同様に、美観と実用を兼ね備えている。高さ20・5メートルと、天守としては小ぶりだが、破風(はふ)の数が多く、さまざまな種類の破風が壁面を飾る。

 壁面に狭間が見当たらないが、実は外側を漆喰で塗り固めた「隠し狭間」が採用され、いざというときは壁を叩き割って使う。美観を損なわずに実用性を高める工夫だろう。

 破風の内側を利用した射撃・監視の空間「破風の間」も、引き戸で隠された「隠し部屋」になっている。


■緊迫した情勢を反映


 軍事性の高い天守は、築造時の緊迫した情勢が影響している。彦根城は、幕府の命令で諸大名が築城工事を請け負う「天下普請」によって、徳川家康の重臣・井伊直政の子、直継が1604(慶長9)年から築いた。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに勝利した家康は、大坂城の豊臣秀頼との決戦を見据え、豊臣恩顧の大名が大坂城に結集しないよう、大坂へ通じる主要街道沿いの城を強化した。彦根城も、こうした戦略を元に築かれた徳川方の城といえる。

 彦根城は、主要街道が交差し、戦国時代から重要視された地にある。家康は西国の大名を牽制する拠点としてこの地を重視し、井伊家に任せたのだろう。実戦を想定しているため、設計の妙も光る。

 姫路城も、徳川方の城といえる。関ヶ原の戦いの翌年、1601(慶長6)年から家康の娘婿にあたる池田輝政が築城を開始。山陽道に近く、西国の大名が大坂へ結集することあらば壁となる役割を担っていたはずだ。新領主の威厳だけでなく、徳川家の権力を見せつける存在でもあったのだろう。


■戦闘力なき平和な天守


 一方で、太平の世に築かれた天守は軍事力に乏しい。例えば、宇和島城天守。迎撃の意図が感じられない開放的な玄関には、歓迎の雰囲気すら漂う。屋根には、社寺建築に由来する格式高い唐破風(からはふ)が乗る。

 また、破風は外壁を飾る装飾でしかない。内部に破風の間はなく、広々として居心地のよさが感じられる。階段の欄干も社寺建築のように美しく仕上げられ、もっとも平和な現存天守といえそうだ。

 1596(慶長元)年から宇和島城を築いたのは藤堂高虎だが、現存する天守は1666(寛文6)年頃に、宇和島伊達家2代の宗利が建てた。4代将軍・徳川家綱の治世で、天下泰平の世にあった。唐破風に用いられた木材には宇和島伊達家の3種類の家紋(九曜紋、竹に雀紋、竪三引両(たてみつびきりょう)紋)が刻まれている。

 同様に、1683(天和3)年頃に建てられた備中松山城天守も戦闘力が低い。

 この城は、戦国時代に拡張された巨大な山城の一部を、江戸時代に総石垣に改修したもの。だが、江戸時代には山麓の御根小屋が政庁として機能し、山上の城は使われていなかった。その山上にある天守2階には御社壇が設けられ、宝剣三口を守護神として安置。落城も経験した山城に佇む天守は、神格化された存在だったのかもしれない。

 高さ約11メートルと小ぶりだが、正面には唐破風付きの巨大な出窓が存在感を放ち、2階両端の縦連子もアクセントになっている。

 伊予の松山城天守は、幕末に建てられたもっとも新しい現存天守だ。1602(慶長7)年から築城した加藤嘉明が建てた五重の天守を、1635(寛永12)年に松山藩主となった松平定行が三重に改築。その天守も1784(天明4)年に落雷で焼失したため、1852(嘉永5)年に再建された。定行は家康の甥にあたり、現存天守で唯一、屋根瓦に徳川家ゆかりの葵御紋が付されている。


■二つの時代が共存


 松本城天守は、戦国時代と江戸時代、異なる時代の建物が共存する珍しい天守群だ。大天守を中心に5棟の国宝建造物で構成され、大天守の北側は乾小天守と渡櫓で繋がり、東側は辰巳附櫓と月見櫓が連結する。

 5棟は接合されているが、乾小天守・渡櫓・大天守は石川数正・康長親子による築城開始直後の1593(文禄2)年頃の建造で、辰巳附櫓と月見櫓は1634(寛永11)年の増築。戦乱の世に築かれた戦闘仕様の前者3棟と、太平の世に築かれた後者2棟は、構造も意匠も大きく異なる。内部の雰囲気も、緊迫感が漂う薄暗い大天守に対し、観月のための娯楽施設である月見櫓は、広々として明るく、優雅な雰囲気が漂う。


■最上階の特別空間


 高知城の天守は1749(寛延2)年に再建されたものだが、山内一豊が築城した初期天守の意匠を再現したようで、古式の姿を伝えている。天守1階の壁面には、敵を撃退する「忍返(鉄串)」が残り、軍事色の強さも感じさせる。

 土佐独自の本木投げ工法が用いられた、躍動感ある天守だ。四方の軒隅が勢いよく反り返り、土佐の荒波のような造形美がある。天守台がなく、本丸に天守が直接建つのも特徴だ。

 天守最上階には廻縁(まわりえん)(回廊)と高欄(こうらん)(手すり)がめぐり、360度の絶景を楽しめる。廻縁は天守に必ずついているようなイメージがあるが、実際にはそれほど存在しない。風雨にさらされるため木造建造物には向かず、松山城や彦根城のように高欄だけが装飾として取り付けられた天守も多い。実際に1周歩ける現存天守は、高知城と犬山城だけだ。

 犬山城天守の廻縁は、絶景が望める特別空間。天守は高さ約19メートル、天守台も含めると約24メートルとさほど高くはないが、木曾川南岸の標高80メートルの断崖上に立ち、廻縁からは木曾川を見下ろすパノラマが楽しめる。

 犬山城は美濃(岐阜県)と尾張(愛知県)の国境にあり、木曾川の対岸は美濃だ。眼下に広がる濃尾平野、遠くには岐阜城や名古屋市街まで一望でき、濃尾国境を制した気分になれる。


■「天守代用」の三重櫓


 全国の城に設置された案内板を読んでいると、「天守代用」という言葉をよく目にする。1615(元和元)年、江戸幕府が「武家諸法度」を公布すると、天守の新造が規制された。これを受け、天守に匹敵する三重櫓を築き天守の代用とする城が多くあったのだ。

 1810(文化7)年に再建された弘前城天守は、天守代用の櫓だ。初代天守は落雷により焼失したため、本丸辰巳櫓の改築という名目で幕府の許可を取得し、三重櫓が建てられ、天守代用とされた。城外側の壁面に破風や出窓などの装飾がつくのに対し、城内側には窓しかないのはそのためだ。天守は4面に装飾を施すが、櫓は基本的に城内側には装飾がつかない。

 1660(万治3)年に建造された丸亀城天守も、同じく天守代用の三重櫓だ。丸亀城は1615(元和元)年の一国一城令により廃城となるも、1641(寛永18)年に丸亀藩が立藩し復活。初代藩主となった山崎家治により現在の姿へ大改修された。3重3階の現存天守は、山崎家断絶後に京極高和が建造。天守の鬼瓦や丸瓦には、京極家の家紋・四つ目結紋が輝く。

 小さな天守が城下から少しでも大きく見えるよう工夫されたようで、正面には左隅に出窓のような張り出しを設け、素木の格子をつけてデザイン性を高めている。よく見ると、最上重の東西の棟側が極端に短い、不思議な構造だ。一重目が東西に長い場合は最上重の入母屋屋根の棟は東西に向けるのが一般的だが、丸亀城天守の棟は南北に向く。これも、北面に入母屋破風の妻面を向けて大きく見せようとしたためだろう。


■63年ぶりの国宝天守


 現存12天守のうち、国宝指定されている5棟を擁する城(姫路城・彦根城・松本城・犬山城・松江城)を「国宝5城」と呼ぶ。長らく「国宝4城」だったが、2015(平成27)年に松江城天守が五つめの国宝に指定された。国宝天守の誕生は実に63年ぶりだった。

 国宝化の決め手のひとつは、独自の建築技法の解明だ。最大の特色は、通し柱の使い方。姫路城天守が地階から6階の床まで貫通する2本の通し柱(心柱)で支えられているのに対し、松江城天守では地階と1階、1階と2階、というように2階分の通し柱を交互に配置して荷重を分散させている。長大な通し柱が調達できず、代替策として編み出された工法だろう。

 さすがは豊臣秀吉のもとで実戦経験を積み、城づくりの技術を磨いた堀尾吉晴の築造と唸らされる。天守から附櫓に向けた狭間や隠し石落としなど、天守に軍事的側面が強い設計も、乱世を生き抜いた武将ならではかもしれない。幕府に対する配慮も見え隠れし、秀吉政権の栄華と憂いを感じずにいられない。


■自然科学的調査を導入


 松江城天守の国宝指定に向けた調査・研究では、「放射性炭素年代測定法(ウィグルマッチング法)」による部材の年代測定など、自然科学的調査も導入された。

 北陸で唯一の現存天守を擁する丸岡城でも、2015〜18(平成27〜30)年度に国宝化を目指して本格的な学術調査を実施。天守の創建年代を解明する方法として、「放射性炭素年代測定法」や「年輪年代法」が導入されている。

 丸岡城は、1576(天正4)年頃から柴田勝豊が築城。天守の創建年代は、勝豊による築城時とする説、本多成重が城主となった1613(慶長18)年以降とする2説があった。

 調査の結果、成重が城主を務め、丸岡藩が立藩した1624(寛永元)年頃の創建である可能性が濃厚となった。築城時であれば現存最古の天守だったことから落胆の声も上がったが、創建年代の解明には大きな意義がある。前述のように、武家諸法度公布後は幕府が特例で認めた城を除けば天守の新築はほぼないと考えられているからだ。城の定説を再考する上でも、寛永期の天守造営は興味深い。

 実は日本の城は謎だらけで、国宝天守でも全て解明されているわけではない。今年は、同じく創建年がはっきりしない犬山城天守での、年輪年代法による年代測定調査成果が発表された。あくまで材木の伐採年を特定するだけで創建年の裏付けにはならないが、自然科学的調査事例が増えれば、歴史的事実の解明につながるはずだ。


■鑑賞ベストシーズン


 いずれの天守も、季節ごとの美しさがあり、天候や時間帯によっても雰囲気が異なる。ぜひ一度といわず、何度でも訪れてほしい。

 ちなみに雨の日に訪れたくなるのは、丸岡城。天守の屋根に青緑色の笏谷石(しゃくだにいし)を加工した瓦が葺かれ、雨に濡れると青みが冴えて天守が物憂げな表情に変化する。

 強いて秋におすすめの城を挙げるなら、松本城と備中松山城だ。

 独特の重厚感を放つ松本城の壁面は、今では全国で唯一の黒漆塗りだ。漆は驚異的な耐久性を誇るが紫外線に弱いため、松本城天守では毎年欠かさず塗り替えられている。漆を乾燥させるために必要な気温や湿度などの条件から、毎年9〜10月に施工。11月初旬には、化粧直しを終えた最も艶めく天守が見られる。

 雲海に浮かぶ備中松山城天守も、秋から冬にかけて現われる季節限定の姿だ。とくに10月下旬〜12月上旬の早朝には、濃い朝霧が期待でき、幻想的な絶景を求めて全国から写真愛好家も集う。備中松山城は、天守が現存する全国唯一の山城。竹田城や越前大野城など天空の城は他にもあるが、現存天守が雲海に浮かぶのは備中松山城だけだ。


■外せない城下町グルメ


 さて、せっかく城を訪れるならご当地グルメも堪能したい。郷土料理や伝統料理は、城や城下町と関わりが深い。

 松江城下の名物となっている出雲そばは、城主の国替えにより生まれた名物だ。1638(寛永15)年に松本城主から松江城主となった松平直政が、信濃からそば職人を連れてきたのが発祥とされる。風土の違いにより独自の蕎麦が生まれ、やがて、3段重ねの丸い器に盛る割子(わりご)そばが誕生した。蕎麦の発祥とされるのは、松本城下で必食の信州そば。国宝天守と蕎麦、どちらの城もセットで楽しみたい。

 丸岡城を訪れたら味わいたい越前そばは、越前辛味大根のおろしがのる。古くは戦国時代に、越前の朝倉孝景が飢饉や非常時の食としてそばの栽培を奨励したとされ、江戸時代にも福井藩が栽培を奨励した。

 備中松山城下の銘菓「柚餅子(ゆべし)」は、幕末に逼迫した藩の財政再建と藩政改革を成功させた山田方谷(ほうこく)ゆかりの銘菓だ。城下の家々に柚子の植樹を奨励し、採れた柚子を使った柚餅子を江戸や大坂に販売した。

 彦根城下で味わえる近江牛も、発祥は食肉禁止の江戸時代。彦根藩士が「反本丸(へんぽんがん)」なる牛肉の味噌漬けを考案し、養生薬として将軍に献上したのを機に各地で食べられるようになった。陣太鼓に使う牛皮の献上が彦根藩の慣例であり、幕府に牛の屠畜を許可されていたからこその発明だった。やがて乾燥牛肉も製造され、彦根城主から将軍や諸大名へ贈られた。

 日本一の生産量を誇る弘前のリンゴ栽培は、明治維新後に新たな産業として発展。失職した旧弘前藩士の困窮を防ぐため、剪定用の鋏は城下の鞘職人または鍛冶職人が開発したという。

 松山城と宇和島城では鯛めしの食べ比べを。松山城下の鯛めしは炊き込みご飯だが、宇和島の「宇和島鯛めし」は、新鮮な真鯛の刺身をタレと絡めてご飯にのせる。同じ伊予でも食文化が異なるのがおもしろい。

 高知城下の必食は、新鮮な鰹のたたき。丸亀城下では、1200年超の歴史がある讃岐うどんを豪快にすすりたい。

 城下の風情ある空間でのひと時も捨てがたい。姫路城の西御屋敷や武家屋敷跡に整備された「姫路城西御屋敷跡庭園 好古園」は、姫路城天守が借景。園内のレストラン活水軒では、庭を眺めながら播州名産の穴子などが味わえる。犬山城の東側にある「有楽苑」は、織田有楽斎が建てた国宝の茶室・如庵が移築されている日本庭園。重要文化財の旧正伝院書院では犬山焼の茶器で呈茶(ていちゃ)がいただける。

 名物料理にも、城や歴史を繙(ひもと)くヒントがある。美しい天守とともに、逸品を堪能するのも一興だ。

萩原さちこ(はぎわらさちこ)
城郭ライター。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演などを行う。著書に『江戸城の全貌』『城の科学』『地形と立地から読み解く「戦国の城」』など。他、連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事。https://46meg.com

「週刊新潮」2021年10月7日号 掲載

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