「睡眠不足による経済損失は15兆円」奥深き睡眠の世界 「致死性家族性不眠症」から「あくびの謎」まで

 アメリカに本部をおく世界的なシンクタンク、ランド研究所の報告書「なぜ睡眠が重要か(Why Sleep Matters)」によると、睡眠不足によって引き起こされている経済損失が対GDP比でもっとも大きいのは、なんとわれらが日本だそう。その額年間15兆円にのぼるという。経済協力開発機構(OECD)の調査によると、日本人の平均睡眠時間は7時間22分で、これは加盟国33カ国中最下位、全体平均(8時間24分)に比べると1時間以上少ないのだ。日本人はもっと寝ていいし、寝るべきなのだ。

 医療・医学界への取材を重ねてきたノンフィクション・ライターのビル・ブライソンの著書『人体大全』を紐解くと、睡眠の重要性がよくわかる。「はやく起きなさい!」とうるさいお母さん(いつもありがとう)、「寝坊するな遅刻するな」という上司に教えてあげたい。

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 具体的にどのくらいの睡眠が必要かは個人の問題であるようだが、ほとんどの人が毎晩必要とする睡眠時間は7〜9時間のあいだに収まる。多くは、年齢、健康状態、最近何をしているかなどによって変わってくる。年を取るにつれて、睡眠時間は短くなる。新生児は1日19時間、幼児は最長14時間、小さい子どもは11〜12時間、ティーンエイジャーと若い成人は10時間ほど眠ったほうがいい――が、たいていの大人と同じく、子どもたちも夜ふかししすぎなうえに、早起きしすぎているので、じゅうぶんな睡眠をとっていない可能性がある。とりわけ、ティーンエイジャーにとっては深刻な問題だ。彼らの概日周期は年長者たちの周期と最大2時間ずれているので、相対的にかなりの夜ふかしになってしまう。ティーンエイジャーが朝なかなか起きられないのは怠惰だからではなく、生物学の問題なのだ。アメリカでは、「ニューヨーク・タイムズ」の社説が指摘するところの“危険な伝統――異常に早い高校の始業時間”によって、事態がさらに悪化している。その社説によると、アメリカの高校の86パーセントは朝8時半前に始まり、10パーセントは7時半前に始まる。もっと始業時間を遅くしたほうが、出席率もテスト結果もよく、自動車事故は少なくなり、うつ病や自傷まで減ることが示されているという。

■夜間勤務をする女性は「乳がん」になる危険性が高い


 わたしたちの睡眠時間があらゆる年齢層で昔より減っていることについて、専門家の意見はほぼ一致している。「ベイラー大学医療センター紀要」によると、出勤前夜の平均睡眠時間は、50年前の8時間半から現在では7時間未満に減少している。別の研究では、学童に同じ減少が見られた。この睡眠不足が常習的欠勤やパフォーマンスの低下を招くせいでアメリカ経済がこうむる損害は、600億ドル以上と推定される。

 さまざまな研究によると、世界の成人の10〜20パーセントは不眠に悩まされている。不眠は糖尿病、がん、高血圧、脳卒中、心臓病、そして(驚くまでもなく)うつ病と関連している。「ネイチャー」誌に掲載されたデンマークのある研究では、夜間勤務をする女性は昼間に働く対照群に比べて50パーセント乳がんになる危険性が高かった。

「しかも今では、睡眠不足の人は、正常な睡眠をとる人よりβアミロイド(アルツハイマー病に関連するタンパク質)の値が高いことを示す有力なデータがあります」と(オックスフォード大学の概日神経科学教授の)ラッセル・フォスターは言った。「睡眠障害がアルツハイマー病を引き起こすとは言いませんが、おそらく要因のひとつであり、衰弱を加速させると思われます」。

■最も恐ろしい不眠「致死性家族性不眠症」


 多くの人にとって、不眠のおもな原因はパートナーのいびきだ。とてもありふれた問題といえる。約半数の人は、少なくともたまにいびきをかく。いびきとは、無意識状態で弛緩しているとき、咽頭の組織が震えて立てる音のことだ。弛緩すればするほど、いびきも大きくなる。だから、酔った人は特に盛大にいびきをかく。いびきを減らす最善策は、体重を減らし、横向きに眠って、寝る前にアルコールを飲まないことだ。睡眠時無呼吸(sleep apnea “息がない”を意味するギリシャ語に由来)は、睡眠中に気道が塞がれて、いびきに加え、呼吸が止まってしまうか、止まった状態に近くなることをいう。一般に認識されているよりよく起こっている症状だ。いびきをかく人の約50パーセントは、いくぶんか睡眠時無呼吸がある。

 最も極端で恐ろしい不眠は、致死性家族性不眠症と呼ばれるごくまれな病気で、つい最近、1986年に初めて医学的に説明された。遺伝病で(だから家族性と呼ばれる)、世界で40家族足らずしか症例がないことがわかっている。患者は完全に眠る能力を失い、疲労と多臓器不全でゆっくりと死んでいく。この病気は、例外なく死をもたらす。破壊因子は、プリオン(タンパク性感染粒子)と呼ばれる、一種の壊れたタンパク質だ。プリオンはひどく厄介な変異タンパク質で、クロイツフェルト・ヤコブ病や狂牛病(牛海綿状脳症)、ほかにもいくつかの恐ろしい神経疾患の原因となる。たとえば、ゲルストマン・ストロイスラー・シャインカー病などだ。ありがたいことにきわめてまれなので、ほとんどの人は聞いたこともない病気だろう(だが、例外なく協調と認知に深刻な事態を引き起こす)。一部の専門家は、アルツハイマー病とパーキンソン病にもプリオンが関わっているのではないかと考えている。致死性家族性不眠症では、プリオンが視床を冒す。視床は、脳の深部にあるクルミ大の部位で、血圧、心拍、ホルモン分泌などの自律反応を制御している。プリオンによる破壊が具体的にどのくらい睡眠を妨げるのかは不明だが、悲惨な経過をたどるのは確かだ。


■世界で400万人「ナルコレプシー」


 睡眠を乱すもうひとつの障害が、ナルコレプシーだ。一般に、不適切な場面での強い眠気と結びつけられるが、この病気を抱える人は、目覚めたままでいることと同じくらい、眠り続けることにも苦労する。「ヒポクレチン」(オレキシン)と呼ばれる脳内の化学物質の欠乏が原因で起こる。ヒポクレチンはほんのわずかな量しか存在しないので、1998年になってようやく発見された。覚醒状態を維持する神経伝達物質だ。これがないと、患者は会話の最中や食事中に突然うとうとし始めたり、意識があるというより幻覚を見ているかのような、もうろう状態に陥ったりする。逆に、疲れ切っているのにまったく眠れないこともある。悲惨な状況になる場合もあり、治療法もないが、ありがたいことにごくまれで、欧米諸国では2500人にひとりしかかからず、世界全体の患者数は400万人ほどだ。

 もっとよくある睡眠障害で、ひとまとめに「睡眠時随伴症」と呼ばれているものとしては、夢遊病、錯乱性覚醒(患者は目覚めているように見えるが、すっかり混乱している)、悪夢、夜驚症が挙げられる。最後のふたつを区別するのはむずかしい。ただ、夜驚症のほうが症状が激しく、患者が大きく動揺する傾向があるが、なぜか翌朝になるとその出来事を思い出せないことが多い。ほとんどの睡眠時随伴症は大人より幼い子どもによく見られ、ほぼ思春期前後で消える。


■「11日間眠らない」に挑んだ高校生のその後


 人間が意図的に眠らずに過ごした最長記録は、1963年12月、サンディエゴの17歳の高校生ランディー・ガードナーが、学校の科学研究として挑んだときの264.4時間(11日と24分)だ。最初の2日ほどは比較的たやすかったが、徐々にいらいらして混乱し、ついにはぼんやりした幻覚にすっかりとらわれたかのようになった。挑戦を終えると、ガードナーはベッドに倒れ込んで14時間眠った。「目が覚めたとき、頭がぼうっとしていたけど、ふつうの人がぼうっとするのとたいして変わらなかったよ」。ガードナーは、2017年にナショナル・パブリック・ラジオの司会者に語った。睡眠パターンは正常に戻り、目立った悪影響は何もなかったという。しかし、のちにひどい不眠症を経験し、それを若気の至りの「因果応報」と考えている。


■人類共通の疲労の先触れ“あくび”


 最後に、謎めいてはいるが、人類共通の疲労の先触れであるあくびについて少し触れておこう。なぜわたしたちがあくびをするのか、誰にもわからない。赤ちゃんは子宮の中であくびをする(しゃっくりもする)。昏睡状態の人もあくびをする。人生にはつきものだが、具体的になんの役に立っているのかは不明だ。一節では、なんらかの形で余分な二酸化炭素の排出に関係しているらしいが、どんな方法なのかを説明できる人はいない。別の説では、頭に涼しい空気が送り込まれるので少し眠気を追い払えるというが、あくびをしたあとすっきりしてやる気が出た人には会ったことがない。もっと重要なのは、あくびと活力の関係が示された科学研究がないということだ。しかもあくびは、どれほど疲れているかと必ずしも相関しているわけではない。それどころか、いちばんあくびが出るのは、ひと晩ぐっすり眠り、じゅうぶんに休養して目覚めたあとの最初の2、3分であることが多い。

 おそらく、あくびのいちばん不可解な点は、尋常でないほど他者にうつりやすいことだろう。誰かがあくびをしているのを見るとたいていつられてしまうだけでなく、単にあくびについて聞いたり考えたりしただけで、あくびが出てくる。あなたは今、ほぼ間違いなくあくびがしたいだろう。もちろん、遠慮することはない。

デイリー新潮編集部

2021年10月22日 掲載

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