【袴田事件と世界一の姉】会見に突如現れた巖さん 弁護団が打った「必勝の王手」とは

【袴田事件と世界一の姉】会見に突如現れた巖さん 弁護団が打った「必勝の王手」とは

静岡県庁の会見でVサインをする袴田巖さん(中央)ひで子さん、小川秀世弁護士 11月22日(撮影・粟野仁雄)

 11月22日夕刻、静岡県庁10階の社会部記者室に現れた「袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会」(楳田民夫会長)の山崎俊樹・事務局長が落胆したような顔をした。

「次回は来年の3月14日ですよ。4カ月近く空いてしまった。三者協議は1月には終わってくれると思ったのに」。

 この日の朝、山崎さんは同じ静岡市在住の小川秀世弁護士とともにJR静岡駅から新幹線に乗り込み、先に浜松駅から乗っていた袴田巖さんの姉・ひで子さんと車内で合流し、東京高裁へ向かった。再審開始の可否を審理する4回目の三者協議(東京高裁・弁護団・検察)が開かれたのだ。袴田事件を追った連載の第5回。(粟野仁雄/ジャーナリスト)


■東京高裁から静岡県庁の会見場へ


 巖さんの補佐人でありながら、ひで子さんはこの日も非公開の協議には入れなかったが、終了後、東京地裁の2階にある司法記者クラブで恒例の記者会見に臨んだ。西嶋勝彦弁護団長が「裁判所に出すべきものはすべて10月中に出した。弁護団も裁判所も年内、少なくとも1月中に協議を終わらせたいとしたが、検察官が2月まで反論の意見書の提出を待って欲しいと求め、裁判所がこれを認めたので、次回が3月14日になりました」などと進行状況を説明した。

 小川弁護士は「最高裁の課題に端的に答え、5点の衣類が1年2カ月、味噌に漬かっていたとする確定判決に合理的疑いを挟むことができた。こちらが出した鑑定書などを検察が新証拠として認めれば、(裁判所は)直ちに再審開始ができるはず」などと詳しく説明した。

 記者から「進行がまた遅くなりましたが?」と問われたひで子さんは、「55年も戦ってきたんですから、遅いとか早いとか言ってる暇はないんです。とにかく勝って再審開始をしてもらわなくては。遅いなんて思っていません」といつものように力強く話した。

 最近の巖さんの様子については「(糖尿病の)血糖値も安定していたけど、腰が痛くて歩けなかった。でも、指圧で治りました。体はよくなったり悪くなったりですが、(拘禁反応の)後遺症で、言うこと、為すことは頓珍漢。精神的にはおかしい。これは5年や10年では治らないでしょう」などと話した。

 会見を終えると、ひで子さんはその足で再び2人と一緒に新幹線に乗り、今度は静岡県庁の会見場へ向かった。これを88歳の女性があっさりやってのけるのだから驚くしかない。尋常ではない体力の持ち主のタフガイ、否、タフウーマンである。


■巖さん登場 頓珍漢会話にも正義を希求


 この日夕方、静岡県庁の社会部記者クラブでは記者たちがバタバタし始めた。なんと、記者会見場に突然、巖さん本人が現れたのだ。浜松市から巖さんを連れてきたのは「見守り隊」の隊長を務める猪野待子さんだ。

「巖さんが国会に行くと言い出したんです。新幹線は嫌だったようで、『それなら車で行きましょう』と言って連れてきたんですよ」と打ち明けた。

 巖さんは、千代田区の国会記者会の記者会見場にいる気分で、県庁での記者会見に臨んだのだろう。これまでも巌さんは、急に「ローマに行きたい」などと言い出すことがあった。そうすると、ひで子さんや猪野さんが機転を利かせ「じゃあ、すぐローマに行こう」などと言って、「ローマ」という名の喫茶店に連れて行ったりすることもあった。巖さんは「なんだ、ローマと違うじゃないか」などとは言わない。拘禁症の影響から出るこうした巖さんの突飛な発言に対し、2人が咄嗟に機転を利かせたことによって、巖さんはこれまで極めて重要な人物に出会ったり、重要な場に駆け付けたりもしている。これは後述する。


■背広姿で会見に登場


 ひで子さんは「昨日の夕方、巖に『明日、東京に行くから、7時半に出るから。あんた寝てるから黙って出ていくよ』と言ったんです。ところが今朝5時に起きたら巖が一緒に起きてきて『東京に行く』って言うんですよ。着替えさせて黒いネクタイさせたら『黒(濃紺のスーツ)に黒じゃよくない』って言うから赤いのにして。『新幹線には乗らない、車じゃなきゃ行かない』と言うから、『じゃあ、後で車でおいで』って言ったんですよ」と話した。それで猪野さんが巖さんを車に乗せて静岡県庁まで連れてきてくれた次第だった。

 久しぶりに背広をシャキッと着込んだ巖さん。トレードマークの帽子もよく似合う。ひで子さんと小川弁護士に挟まれる形で、巖さんは記者室の椅子に座った。3人は取材陣にピースサインならぬ「勝利のVサイン」をして笑顔を見せた。


■「嘘の捜査」、「善で生きていく」


 まだ拘禁反応の影響は大きいが、会見での巖さんの言葉を紹介する。

「これで袴田巖は無罪なんだよ。事件がないんだから。事件で血が付いてたって、嘘だ、そんなもん。殺された人なんていないんだ」

「警察、検察、裁判所の嘘の捜査があるんだね。そういうことがあるんだね。血が付いてない。嘘なんだ。殺されてない。善だけで生きていくという時代だからね。悪じゃない。悪は死ぬ。善だけで生きる。そういうことで国会を開いてるんだね」

 記者に体調を聞かれると「元気ですよ。私は浜松で元気ですよ。世界を集めてやってるんですから。善だけでやっていく道を開いてるんだね」と答えた。

 小川弁護士が「腰が痛かったんじゃないの?」と向けると、「痛かあなくなっちゃった」、「3日の勝負があったんだね。杖なんか突きやしない。治っちゃったんだ」と嬉しそうに笑った。普段は腰痛のために杖を使っていたが、この日は杖も使わずスタコラと歩いていた。

「最近、楽しみにしているのは何ですか?」との質問には、「世界の問題だねえ。世界は善で動いてる。事件は起こさん。事件はない。世界の人間は。悪は起こさんということだねえ」、「俺が勝ってる」、「俺が勝ってる」と話した。

「最近、食べたおいしいものは?」と聞かれると、帽子をかぶり直して「生きてるんだからね。うな丼でも食べるんだろうね」。浜松在住らしい言葉にひで子さんも苦笑。巖さんは「女の時代だからね。女の代表者集めて、うな丼でも食わそうっていうんだ。一日に10万円、給料があるんだから」と笑わせた。ここでは紹介できない発言もあったが、概ねこのような感じである。

 ひで子さんは笑いながら、弟に好きなように話をさせていた。脈絡がなくとも「嘘の捜査」、「善で生きていく」などの巖さんの言葉に、何かを訴えたい心情が汲み取れる。自らの過酷な体験からも社会正義を希求しているのだろう。「女の時代」という言葉が出てくるところからは、拘置所生活ではあまりわからなかっただろうが、逮捕された1960年代に比べて日本の女性の社会進出が目覚ましいことも出所後に肌で感じている様子がわかる。この日は、釈放後の巖さんがよく使っていた「バイキン」や「儀式」という言葉はなかった。

 静岡県庁詰めの記者たちは「どうせ弁護団とひで子さんが同じ内容の会見を先に東京の司法記者会でやってるし」といった様子でのんびり構えていたが、突然、巖さん本人が登場したものだからびっくり。記者もカメラマンを呼び、テレビ局のカメラクルーも慌てて三脚を立てテレビカメラを据えていた。


■「血痕が赤いまま残る」はあり得ない


 会見で小川弁護士は「味噌漬けの血液のヘモグロビンが分解してすぐに赤みが失われ、さらに長期的なメイラード反応で赤みが完全に消えることが裏付けられた。5点の衣類が1年2カ月、味噌に漬かっていたという確定判決に合理的な疑いがはっきり生じた」などと語った。

 これより先、弁護団は11月1日に意見書と鑑定書を提出していた。弁護団は最高裁から「赤みが残らないことを専門家の知見を踏まえて証明せよ」と求められていた。再審請求審では、これまでも山崎さんが中心になって実施してきた「味噌漬け実験」の報告書を裁判所に提出していた。といっても「血の付いた服を1年、味噌に漬けたらどうなるか」などという奇妙な研究をしている科学者などいないので、弁護団は科学者に実験をしてもらい「赤いまま残ることはない」と裏付けてもらったのだ。小川弁護士は「我々の味噌漬け実験について最高裁は、事件当時の味噌より色が濃かったのではないかとの疑義を持っていたが、白味噌でも24時間以内、遅くとも4週間で黒褐色になった。これで裁判所からの宿題はすべてこなした」と胸を張った。

 11月1日に鑑定書や意見書を提出し、5日に東京と静岡での会見で小川弁護士と間光洋弁護士が詳細を説明していた。間弁護士は「そもそも血液が赤いのは赤血球のヘモグロビンによるが、ヘモグロビンはヘムという物質とグロビンというたんぱく質が結合している。このヘムという物質が赤い。ところがPH(酸、アルカリの度合い)が5程度、塩分濃度10%とされる一般的な味噌に漬かっていると、赤血球の膜が破れてヘモグロビンが流出し、そして黒褐色になってゆく」などと説明した。別に味噌などに漬かっていなくても、怪我して出血した後、かさぶたが鮮やかな赤色にならず、すぐに黒ずんだ色になるのと同じで、特殊な細工でもしない限り血痕は赤いままになどならないのが普通だろう。

 弁護団は「再審開始に直結する専門的な知見を得られた」としたが、検察は意見書で「弁護側は赤みが全く残らないということを立証すべきだ」と抵抗していた。間弁護士は会見で「最高裁の要請を曲解して不当にハードルを上げようとするもの」と検察の応酬を批判した。ほんのわずかでも赤みが残ることがあれば、それを根拠に再審開始を阻止したいのだろうか。5点の衣類に残っていた血痕は「わずか」などではない。ステテコ、シャツ、ズボンなどすべて赤みが十分残る血痕だらけだったのだ。長い戦いにおいて弁護団はまさに「必勝の王手」を打ったのである。


■「警察の捏造」の主張を避けた当初の弁護人


 事件の経緯を改めておさらいする。

 1966年6月30日未明に清水市(現静岡市清水区)で味噌製造会社「こがね味噌」の橋本藤雄専務の一家4人が惨殺、放火される事件が発生。この会社の従業員だった巖さんは8月18日に逮捕、拘束された。翌年の8月31日に工場の味噌タンクの底から5点の衣類が発見され、当時の警察の証拠写真ではこの衣類に付いた血痕は赤かった。8トン入る1号タンクは事件発生の3週間後の7月20日に新たに味噌を半分仕込んでおり、袴田さんが犯行着衣をタンクの底に隠したというならこれより前でなくてはならない。味噌は固くて流動性がなく、麻袋に入れて上から放り込んだ衣服が沈むことはない。

 赤い血痕が付着していたということは、5点の衣類は1年以上味噌樽に漬かっていたわけではないということである。それまでの間、巖さんは拘束されていたのだから、発見直前に何者かが投入したことになる。5点の衣類の発見時には既に静岡地裁で一審の裁判が進行していたが、検察は犯行時の衣服をパジャマとする冒頭陳述を急に変更し、5点の衣類としたのだ。警察は当初、「犯行時の衣服はパジャマ」とし、新聞は「血染めのシャツ」などと派手に報じた。しかし、実際は鑑定もできないほど微量で、血痕なのかシミなのかもわからないくらいだった。証拠価値が薄まり、検察・警察は静岡地裁での裁判で焦燥感を強めていた中で、結審しそうになっていた事件翌年の8月に突然、「5点の衣類が見つかった」としてこれを犯行時の衣類とし、検察官は冒頭陳述を変更したのだ。しかし新聞は、この不自然で重要な変更をほとんど報じなかった。

 DNA鑑定も試料不足などから再審請求審で明確な結論が出ず、現在、再審の可否は「1年以上味噌漬けにされた衣服の血痕が赤いままなのか」という原始的な争点に絞られている。

 当時の報道の無責任はともかく、なぜ5点の衣類について今頃、検証するというようなおかしなことになったのか。事件から1年以上経って突然、犯行時の服が変えられるなど、誰がどう考えても不自然だった。しかし、5点の衣類が袴田巖さんの所有物だったのかなどをめぐって弁護団が本格的に争ったのは、東京高裁での控訴審からだ。


■捏造といえない弁護士


 40年前の1981年4月の再審請求から弁護団に入った小川弁護士が振り返る。

「発見直前に放り込まれたとなれば、捜査機関の捏造に直結してしまう。本来、そこを突くべきですが、上田誠吉弁護士(故人)など当時の弁護人はそこを攻めなかった。弁護団に参加した私が『警察の捏造だと言わなかったんですか?』と訊くと、上田先生に『捏造だなんて品位を欠くことを言うべきではない』と言われてしまいましたよ」と打ち明ける。

 人ひとりが死刑になりかけているのに「品位がある、ない」も何もない。なぜ上田弁護士は警察の捏造の追及を避けたのか。現在よりはるかに司法試験も難しく超エリートだった当時の弁護士にとって、国家権力に正面から弓を弾くことはできなかったのかもしれない。

 実は冤罪というのは、最初の弁護士の戦略ミスが響いてしまっているケースは少なくない。筆者が取材していた「梅田事件」や「氷見事件」なども、最初の弁護士の対応がまずかった。そうした「戦略ミス」は仕方ない面もあるが、痴漢の冤罪など晴らしても弁護士にはさして名誉にもならない。「どうせ罰金だから認めたほうがいいよ」と言う無責任弁護士も存在し、仕事を失うなど人生を狂わされた男性諸氏もいる。

 袴田事件の三者協議で弁護団は、「事件直後に味噌樽を調べたが衣類はなかった」と証言している高齢の元清水署員について証人申請をしていた。しかし、今回の協議で「不要」と却下された。これについて「捜査側の捏造が明確になってしまうことを裁判所が避けたがっているのでは?」と会見で筆者が問うと、小川秀世弁護士は「一般的に裁判所は論点を増やしたくないのですが、(弁護団の)鑑定などの新証拠で十分と見て、必要なしとしたのだと理解しています」と答え、前向きに捉えていた。(続く)

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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