邪馬台国はどこにあったのか? 九州? 畿内? 「海の道」をたどると見えてきた、その場所とは

 女王・卑弥呼のいた邪馬台国は、九州にあったのか、それとも畿内にあったのか? 長年論争が続くこの問題に、古事記研究で知られる三浦佑之氏(千葉大学名誉教授)は、その著書『「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく』(新潮選書)の中で、意外な角度から、ある可能性を指摘している――(新潮選書編集部)。


■邪馬台国=ヤマト国?


 邪馬台国は、どこにあったのか?

 長年続く、この論争の答えはまだ出ていない。「魏志倭人伝」(『三国志』魏書・東夷伝倭人条)に記されている道のりは、朝鮮半島から対馬、壱岐を経て、福岡平野あたりまではたどれる。だが、その後は不明な点が多く、文字通りに受け取れば、海の上に飛び出してしまう。そのため、現在までにさまざまな候補地があげられているが、大きくは、畿内説と九州説に分かれている。

 古事記研究の泰斗であり、また『出雲神話論』等の著書でも知られる三浦佑之氏は、

「邪馬台国の場所については、何か口を挟めるような知識を持ち合わせているわけではありませんが、近年の流れとしては圧倒的にヤマト説が有力だといえるでしょう。ヤマト国としかよめない邪馬台国は、ヤマト(倭)の地にあったとみなすべきです」

 と、邪馬台=「ヤマト」、畿内説をとる。

「魏志倭人伝」にあるルートを詳しく見ていくと、朝鮮半島の帯方郡(魏の植民地)から、対馬、壱岐と海路を進み、末盧(まつろ)国(佐賀県松浦付近)から上陸。東南に陸を500里行くと到着する伊都(いと)国(福岡県糸島市付近)は、女王の国に統属していたとある。東南の奴(な)国(福岡県福岡市博多付近)までは100里。奴国からさらに東に100里のところに不弥(ふみ)国がある。

 ここまでは「里」単位で記されているのだが、南の投馬(とま)国へは「水行二十日」とある。いきなり距離の単位が変わるのだ。そして「南至邪馬壹国」、南に行くと邪馬台国へ至り、そこは女王が都とする所で、「水行十日、陸行一月」とある。

 それぞれの起点がどこかという問題もあるが、いずれにしても北部九州から南に船で10日、陸を1カ月となると、それは九州をはるかに飛び越えてしまう。

 卑弥呼は、西暦238年には朝鮮半島の帯方郡を通して、魏の都・洛陽に使者を送り、奴隷や布を献上したことが「魏志倭人伝」に記されている。卑弥呼が亡くなると、その後を継いだ男王には皆が従わず、また争乱が起きた。千人余りが死に、卑弥呼の宗女である13歳の壹與(とよ・いよ)を王とし、ようやく国は定まった。

■新羅王子の来日ルート


 そして邪馬台国畿内説にも、そのルートにおいては、日本海側を通ったとする説と、瀬戸内海側とする説がある。しかし、日本海側ルートこそ、多くの伝承で使われた「表通り」であったと三浦氏は語る。そうした事例をいくつか紹介しよう。

「卑弥呼の時代から100〜150年ほど後、4世紀末頃と思われますが、15代応神天皇の時代に、新羅国の王子を名乗る人物が渡来して、但馬(たじま)の地に住み着いた話が、古事記に残されています」(三浦氏)

 アメノヒボコというこの人物、古事記によれば、逃げ出した妻を追いかけて来たという。妻はアメノヒボコから罵られるので、祖先の国、すなわち日本へ船で戻って、難波に住んだ。

 DV夫から逃げ出した国際離婚、といったところだろうか。アメノヒボコは追いかけて来て、難波に入ろうとしたら、「渡りの神」が波風を起こして入れさせなかったので、海の道を引き返して多遅摩(たじま)の国に入り、そこに住み着いたとある。

「渡りの神、とは海峡の神のこと。難波にもっとも近いのは明石海峡です。ここから瀬戸内海を引き返して、日本海側をぐるっと回って、但馬へ入ったのか。あるいは朝鮮半島から難波に入るため、もっとも手前に位置するのは、穴戸という名で知られていた関門海峡です。海流が速くて難所として知られ、当時はヤマトへ入る関所のような場所でした。アメノヒボコはここで、瀬戸内海へ入るのを拒まれ、日本海側から但馬入りしたとみるのがよいのではないでしょうか」(三浦氏)

 一方、日本書紀にはアメノヒボコが播磨(はりま)に着いたという記述がある。

「垂仁天皇の時代の出来事として、アメノヒボコは小舟で播磨国に着いたとされています。妻の話は日本書紀にはありません。天皇が使者を遣わして尋問した後、現在の兵庫県宍粟(しそう)市の辺りと、淡路島の『出浅邑(いでさのむら)』(不詳)なら自由に住んでいいと言われましたが、アメノヒボコは自分の好きなところに住みたいと言い、天皇にその許しを得ると、淀川を北に遡り、滋賀県の米原市あたりにしばらく住み、さらに若狭国を経て西に向かい、但馬国に到って住処としたとあります」(三浦氏)

■ヤマトタケルも通った九州から日本海へのルート


 古事記にはヤマトタケル(倭建命・12代景行天皇の皇子)がクマソタケル(熊曾建)を討った帰り道に、イズモタケル(出雲建)を討った話も残されている。

 ヤマトの地から、熊曾国(南九州)へ行き、クマソタケル兄弟を倒し、「穴戸の神」を言向けた後、出雲へ向かい、イズモタケルと友達になったヤマトタケルは、謀ってイズモタケルをだまし討ちにする。

「地理的にいえば、熊曾国のある南九州から、九州の西海岸を船で北上し、穴戸(関門海峡)から、瀬戸内海に入らずに東に向かって、出雲に入ったと考えるのがよいでしょう。古代の伝承を見ると、穴戸を抜ける(瀬戸内海に入る)のではなく、そのまま外海を通過するというのが推奨ルートとして存在していたのではないでしょうか。邪馬台国への魏の使者が使った海路もそのルートだったと考えるのが、日本海経由説です」(三浦氏)


■額から角が生えた王子の辿ったルート


 大陸や朝鮮半島との行き来=外交であった古代において、日本海側こそが表通りであり、渡来人の多くが日本海側へと到着した。

 日本書紀には、垂仁天皇の時代に、ツヌガアラシトという、額に角のある人物が、北陸の敦賀にやって来たことが記されている。彼もまた朝鮮半島にあった国の王子だったという。

「日本に聖帝がいると聞いて、仕えたいとやって来たツヌガアラシトは、まず穴門(関門海峡、現在の下関あたり)に着くと、その国の者が王だと名乗りますが、人となりを見て王ではないと悟って、さらに旅に出ます。道を知らないので、島や浦伝いに北の海に出て、出雲の国を経てここに着いた、それでこの地を角鹿(ツヌガ)という、とあります」(三浦氏)

 角鹿=敦賀。ここでもまた、穴門(穴戸、関門海峡)→出雲→敦賀という、対馬暖流に乗った移動だ。

 アメノヒボコやツヌガアラシトの実在性や、本当に王子だったのかといった問いはさておき、多くの渡来人が船に乗ってやってきたこと、そしてその多くは日本海側を通った行き来だったこと、但馬や敦賀といった日本海側は、渡来系の人々が訪れ、交易を行い、そこに住み着いた人々も多かったことを示しているといっていいだろう。

 日本海側にはそうした諸外国の使節を受け入れる迎賓館や、船の整備港などもあった。


■魏の使者は日本海側を通った?


 こうした幾つもの事例、伝承を踏まえた上で、三浦氏は、「魏志倭人伝」にある邪馬台国への道は、日本海ルートだったのではないかと指摘する。

「その場合、投馬(とま)国というのは出雲のことだと考えられます。対馬暖流に乗って東に向かえば、関門海峡に入り込むより、そのまま東に流れてゆくというのが安全で近い道だったはずです。トマというのはトマリ(泊)の意味をもつ地名で、広いラグーン(潟湖)を形成していた神門(かむど)の水海(みづうみ)のあたりのことではないか思います」(三浦氏)

 また、たとえ邪馬台国が九州にあったとしても、それは畿内、ヤマト(倭)の地へ行ってしまった集団で、そのヤマトによって、筑紫は制圧され、北九州はヤマト王権の重要な拠点の一つに位置づけられてしまったのではないかとも、『「海の民」の日本神話』(新潮選書)で指摘している。

「挑発的な言い方になりますが、ヤマト中央集権主義のなかで、領有された土地としてしか筑紫は存在しないというのでいいのでしょうか。それが3世紀のことか、4世紀になってからのことかはともかくとして、筑紫がヤマトに圧倒される以前には、それぞれの土地に独自の世界がいくつも存在したのでは。末盧国にも、伊都国にも、奴国にも、そしてむろん吉野ヶ里の地にもあったはずの、一つ一つのクニをこそ大事にすべきなのではないかと、よそ者には思えてしまいます。邪馬台国など欲しくはないと表明するところから、生き生きとした古代の筑紫、九州は立ち上がってくるはずです」(三浦氏)

 邪馬台国は畿内にあったのか。そしてそのルートは日本海側だったのか。

 古代の「海の道」に着目した三浦氏の指摘は、最新の考古学的研究や、人類学などの知見も踏まえており、はなはだ示唆に溢れている。年末年始、邪馬台国の謎に、あなたも挑戦してみてはいかがだろうか。

デイリー新潮編集部

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