飯塚繁雄さん 金賢姫とも面会 北朝鮮に拉致された妹の帰国を待ち続けた43年間【2021年墓碑銘】

飯塚繁雄さん 金賢姫とも面会 北朝鮮に拉致された妹の帰国を待ち続けた43年間【2021年墓碑銘】

ここ数年体調を崩していたが、それでも家族会の活動に参加していた飯塚繁雄さん

■北朝鮮に加担したとの報道も


 田口八重子さんが子供2人を残して姿を消したのは、1978年、22歳のときだった。2007年、兄・飯塚繁雄さんは拉致被害者の「家族会」代表を横田滋さんから引き継ぎ、率先して街頭にも立っていたという。長い間、妹の帰国を待ち望んでいたが、結局、対面がかなうことはなかった。

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 ごく普通の日常を送っていた人たちが身内を北朝鮮に拉致されたことで人生が激変してしまう。「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(家族会)の前代表、飯塚繁雄さんもそのひとりだ。

 1978年、妹の田口八重子さんは、東京・池袋の飲食店に勤めながら2歳の長女と1歳の長男をひとりで育てていたが、保育施設に子供たちを残して突然消えた。当時22歳。

 行方は知れず、残された長女を飯塚さんの別の妹が引き取り、長男の耕一郎さんを飯塚さんが養子として迎えた。飯塚さん夫妻にはすでに3人の子がいたが、別け隔てなく育てたのである。

 飯塚さんは38年、東京生まれ。7人きょうだいの長男で自動車メーカーで働いていた。末っ子の田口さんは17歳年下で仲が良かった。

 事態は意外な進展を見せる。87年、大韓航空機爆破事件が発生。田口さんが実行犯のひとりである北朝鮮工作員、金賢姫の日本語教育係をさせられていたと91年に判明する。飯塚さんのもとに取材陣が殺到。妹は拉致された可能性がすでに濃厚だったのに、北朝鮮に加担したとの報道もなされた。


■「飯塚さんのおかげで一致団結することができた」


 90年代半ばに拉致への関心が広がり始める。97年に家族会が発足。拉致された横田めぐみさんの父、滋さんが代表に就く。家族会の支援団体「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)も活動を始めた。飯塚さんは当初、家族会に参加していない。報道から家族を守ることに必死だった。

 98年、21歳になった耕一郎さんは旅券を申請するため戸籍謄本を取得。そこには養子の文字があった。事情を問われた飯塚さんは、全て打ち明けた。

 救う会会長の西岡力さんは言う。

「本当の母は北朝鮮に拉致されたという衝撃の事実も耕一郎さんは受け止めた。養子と気づかぬよう育てて守ってくれたと言われ、飯塚さんは救われた」

 2002年、日朝首脳会談で北朝鮮は拉致を認めるが、田口さんを含む8人は死亡したと日本側に伝えた。飯塚さんはこの直後から家族会の活動に加わった。

 07年には横田滋さんから家族会代表を引き継ぐ。

「誠実な人柄で穏やかなところが滋さんと似ていました。街頭に率先して立った。マスコミにも丁寧に接していました」(西岡さん)

 滋さんの妻、早紀江さんも振り返る。

「飯塚さんのおかげで一致団結することができたのです。優しくて、強い自己主張はされませんが、家族会を引っ張って下さった」


■「給料の一部を積み立てていた」


 飯塚さんと耕一郎さんは09年、韓国で金賢姫と面会。

「耕一郎さんは、母の面影を知りません。田口さんが北朝鮮で子供たちのことを気にかけていたと聞き、幼な子を置き去りにしたわけではないという心情が理解できました」(西岡さん)

「北朝鮮に拉致された日本人を救出する埼玉の会」の代表、竹本博光さんも言う。

「飯塚さんは田口さんの帰国が実現した時のためにと、長年にわたり給料の一部を積み立てていました」

 救出活動は難航した。

「飯塚さんは工場で働いていたせいか、工程表、納期という言葉が口癖でした。国は拉致問題を重要視していると言うが、動きがない。期限を示し、具体的な救出計画を立て事態を進展させないと、ただ時間が経つばかりだと危惧していた」(西岡さん)

 拉致被害者の有本恵子さんの父、明弘さんは言う。

「ここ数年、体調が悪く、来日したトランプ大統領に拉致問題を伝えるため面会する前には、控室で横になっていました」

 12月18日、83歳で逝去。

 早紀江さんは言う。

「3年ぐらいならと夫の後に代表を引き受けてくれました。もっと早く解決できると思っていたのです。それが亡くなる1週間前まで14年も務めて下さった」

 来たる秋で日朝首脳会談から20年になる。

デイリー新潮編集部

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