「朝日杯」で菅井八段が初栄冠 藤井聡太不在で優勝者へ質疑はなしに疑問

「朝日杯」で菅井八段が初栄冠 藤井聡太不在で優勝者へ質疑はなしに疑問

初優勝した振り飛車の名手 菅井竜也八段(撮影・粟野仁雄)

 全棋士(プロのこと)170人余、女流棋士3人、アマ強豪10人が7か月に及ぶトーナメントを戦い抜く将棋の「第15回朝日杯将棋オープン」の準決勝と決勝が2月23日、東京有楽町の朝日ホールで行われ、菅井竜也八段(29)が兄弟子の稲葉陽八段(33)を95手で破って初優勝した。緊迫した空気の中での決勝の対局、弟弟子は盤を挟んだ兄弟子を気遣って視線が合わないようにしていたのか。菅井竜也八段は、開始直前まで盛んに額に手を当てて下を向いていた。しかし「兄弟決戦」が始まるや、上着を脱いで気迫を見せた。(粟野仁雄/ジャーナリスト)

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 優勝賞金750万円の同杯はタイトル戦ではなく、持ち時間は40分と短い早指し将棋の棋戦。まだ歴史は浅いが重要棋戦として定着し、最多優勝は羽生善治九段(51、永世七冠資格)の5回。藤井聡太五冠(19)は2017年度の初参加以来、3度優勝している。藤井は初登場ながら準決勝と決勝(2018年2月)で羽生、広瀬章人九段(35)を破り優勝。翌年度は「最強」とされていた渡辺明二冠(37、当時は棋王)を決勝で破って2連覇するなど、大きな話題になった。2019年度の優勝は千田翔太七段(27)だったが、昨年度も優勝した藤井は今回、名古屋での準々決勝で永瀬拓矢王座(29)に敗れており、この日は姿がなかった。


■加古川の井上慶太門下は弟弟子の勝ち


 決勝に進んだ菅井と稲葉は、兵庫県加古川市を拠点とする井上慶太九段(58、A級在籍三期)の愛弟子だ。これだけの棋戦が地方都市の同門決戦になるのは奇跡的だ。とはいえ、2008年にプロ入り(四段昇段)した兄弟子の稲葉は2017年の名人戦に登場、当時の佐藤天彦名人(34)に挑戦(2勝4敗で奪還ならず)し、昨年のNHK杯に優勝する強豪。2年遅れてプロ入りした弟弟子の菅井も、2017年には王位のタイトルに輝き、昨年の銀河杯でも優勝するなどトップクラスの実力である。

 準決勝は稲葉が永瀬を、菅井が佐藤をそれぞれ破っていた。現在、3人しかいないタイトルホルダーの1人、永瀬王座はこの棋戦では藤井聡太を破って勝ち上がっていたが、この日、稲葉相手に精彩を欠く。「形勢はいいかなと思ったが、粘り方が分からなかった」などの言葉を残して去った。菅井は佐藤元名人を相手に得意の振り飛車を駆使。飛車を5筋に動かして攻撃する「中飛車」、「穴熊」で玉を右下に囲う戦法で佐藤を破って決勝に進出した。敗退した佐藤は「序盤は珍しい将棋になった。揺さぶられた。はっきりした悪手がわからないが、挽回できなかった」と話した。

 菅井は長らく廃れている「振り飛車」の名手で、この日は準決勝、決勝とも「中飛車」戦法で闘った。決勝は「中飛車」、「美濃囲い」を駆使し、最後は菅井の「9三竜」で稲葉が投了した。菅井は岡山県出身。同じ岡山県出身の巨頭大山康晴十五世名人も振り飛車の名手だった。井上一門は師範の井上九段を含め、稲葉、菅井の3人が藤井を倒しており、「藤井キラー一門」とも言われていた。58歳の井上九段は現在のところ、プロデビュー後の藤井聡太を破った「最年長棋士」でもある。

 優勝した菅井は「もちろん、公式戦は勝たなくてはいけないのですが、小学校の時から何局も指している兄弟子とこんな場で対戦できることになり、勝敗よりも気持ちよく指せた。棋士になって11年ですがこんな気持ちになったのは初めて。振り飛車の棋士が少ない中、自信になりました」などと話した。

 準優勝の稲葉は「子供のころから沢山指していますが、やはり強いなあと思った。悔しい所はありますが、こっちが変な手を指すと一気にやられてしまう」と「弟分」を称えた。 


■加古川駅の写真パネル


「藤井さんがせめて準決勝で敗けてくれれば」と藤井五冠がベスト8で敗退してしまいこの日、登場しなかったことをある主催関係者は残念がった。さらに、従来は観客を入れて壇上で戦う「公開対局」も新型コロナの影響で、昨年に続いて無観客となった。

 敗退した永瀬も佐藤も「無観客は残念。早く公開対局に戻ってほしい」と盛んに残念がった。寂しい大会になったせいか報道陣も極端に少ない。コロナ禍前の藤井が登場していた大会では100人を超えていた報道陣も、主催の朝日新聞関係者を除けば10人足らずで、筆者は当初、会場を間違えたかと思うほどだった。藤井の活躍で将棋人気が沸騰したように見えるが、本当の意味での将棋自体の人気が根付いてくれたのか、あらためて疑問に感じた。 

「棋士のまち加古川」として町おこしをする兵庫県加古川市。JR加古川駅の構内にある「加古川市ゆかりの棋士」とされた大きな写真パネルには、井上九段や稲葉八段など6人の棋士の写真が並んでいるが、菅井八段の写真はない。加古川市役所に問い合わせると「出身地と現在の居住地ということで選んでいます」との説明。菅井八段は岡山県の出身で岡山在住、加古川市には住んでいない。「せっかく加古川の井上さん門下なのにそれは杓子定規過ぎないか?」と筆者が市職員に向けると「(菅井八段をパネルに追加するかどうか)検討させていただきます」とのことだった。


■優勝者への質疑もなし


 今回の朝日杯は、驚いたことに優勝者への質疑もなかった。勝手に加古川市役所に問い合わせたので、菅井自身が「岡山の棋士」を強調しているのか、振り飛車の復権に加えて、上述のようなローカルな話題も本人に聞きたかった。表彰式の司会女性が「これで朝日杯を終わります」と言ったが、AbemaTVのインタビューが終わってから当然、質疑があるかと思っていた。驚いた筆者が広報担当に「質疑は?」と訊くと「これで終わりです」。別の記者も「かこみ取材はあるはずでは?」と迫ったが「これで終わりです」。

 優勝者が藤井聡太の時は、藤井はもちろん、準決勝で敗れた羽生への質問時間もあった。無観客の会場はがらんとしており、質疑の中止はコロナの感染対策の影響だけだとは思えない。現にAbemaTVスタッフは壇上に上がって菅井を接近取材して中継していたが、記者たちは壇の下にいた。記者を集めておきながら質問もさせず、一方通行の中継だけで終わらせたかったのか。後日、主催の日本将棋連盟に訊くと「主催社の朝日新聞さんの意向ですが(質疑中止の)理由はわかりません」とのこと。いずれにせよ、藤井がいた時といない時の報道対応の大きな差には愕然とした。当然のことだが、将棋は藤井聡太だけではないはずだが。(敬称略)

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。

デイリー新潮編集部

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