【袴田事件と世界一の姉】キャバレー時代の知人が述懐「警察は事件直後に巖さんを犯人と決めつけていた」

【袴田事件と世界一の姉】キャバレー時代の知人が述懐「警察は事件直後に巖さんを犯人と決めつけていた」

「夫も私も巖さんが犯人のはずがないと信じていました」と渡邉昭子さん(2022年2月22日、撮影・粟野仁雄)

 袴田巖さんは、3月10日に86歳になる。彼の若い頃をよく知り、記憶も鮮明な存命者は多くはない。筆者は「袴田事件」を本格的に取材し始めてから年数も浅い上、事件は56年も前。当時の証言者にほとんど会えないのは仕方がないと考えていた。そうした中、静岡市清水区に住む、巖さんとの記憶もしっかりした上品な女性に会うことができた。事件直後には、警察が彼女の下にも聞き込み捜査に訪れているという。それらを鍵に巖さんの人物像を探る、連載の第11回。(粟野仁雄/ジャーナリスト)


■検察が反論の意見書提出


「考察が足りず、不適当」

 2月24日、検察は「1年間、味噌に漬かれば、衣類の血痕はメイラード反応で黒褐色になるはず」とした弁護側の鑑定に反論する意見書を、東京高裁第2刑事部に出した。巖さんの弁護団は「警察の発見直前に袴田さん以外の人物が5点の衣類を味噌タンクに入れた捏造」と強調している。現在進められている再審を開始するかどうかの三者協議(裁判所、検察、弁護団)で、同部の大善文男裁判長は弁護団だけに宿題を出していたわけではない。検察に対し「2月末日までに反論を」と指示していた。東京高検としては珍しく少し早めに提出したのだ。

 ニュースで知った2月26日、巖さんの姉・ひで子さんに電話すると「まだNHKニュースで見ただけで文面も見ていませんけど、役所なんてそんなもんでしょ。負けていたって『はい、降参です』なんて絶対言うまいよ。ハッハハ」と意に介さない様子だった。


■寡黙だった巖さんへの誤解


 大阪万博に沸いた1970(昭和45)年に大流行したテレビCMに「男は黙ってサッポロビール」というのがある。当時はまだビールを飲む女性も少なかった。音楽だけが流れる中、銀幕の大スター、三船敏郎がグラスのビールを飲み干し、最後にこの台詞のナレーションが入るだけのシンプルな内容だ(いくつかのバージョンがある)。後年、サッポロビール入社の面接試験で、何を尋ねても沈黙した学生が退室際にこの台詞を吐いて採用されたという逸話まで流布したが、これは「フェイクニュース」らしい。いずれにせよ、「男性は無口なのが男らしくていい」との観念が強かった時代の話。このCMを見たとしても既に死刑の一審判決(1968年9月)が下り、拘置所内だったであろう巖さんは、極めて無口で寡黙な男だった(現在も同様である)。寡黙は「男らしい」反面、「あの人、何考えてるのかわからないね」と思われてしまう側面もある。

 1966年6月30日未明に清水市(現・静岡市清水区)で一家4人が殺された大事件。清水市には妻子とともに殺された橋本藤雄専務の親戚や知人らが多く、周辺の空気は家族4人を失った長女の昌子さん(2014年3月に死去)や橋本専務の父・藤作さんへの同情が中心だった。

 同年7月6日付の静岡新聞夕刊には《藤雄さんの父藤作さん(六七)がリューマチをおして清水厚生病院から許可をもらって通っている姿もいたましい。(中略)肉親や弟妹を失った長女の昌子さん(一九)のショックは大きく痛ましいばかり。(中略)近所の人たちも口々に「早く犯人が捕まってくれればよいが…。昌子さんもやつれてかわいそうだ」と昌子さんへの同情が集まっている》などの記事が出ている。実は、こがね味噌の社員も橋本専務と縁戚関係にある人が多かったという。

 当時は同じ静岡県でも浜松市と清水市はかなり遠いという感覚があり、浜松出身の巖さんは「よそ者」でもあり、清水市は「被害者たちの町」でもあった。巖さんはプロボクサーを引退後にキャバレーのボーイをやり、独立してバーを経営したが失敗。一家4人殺害放火事件は、こがね味噌に就職して1年ほどで起きた事件だった。消火現場などで巖さんの姿を見たこがね味噌の複数の従業員らは、なぜ「袴田を見た」と警察に証言し続けてくれなかったのか。

「真面目に働く、いいやつだ」と橋本専務には可愛がられていた巖さんだが、10代の頃から勤める他の従業員らと、30歳近くなってから来た男にはどうしてもギャップがあったのだろう。警察やマスコミが早い段階から巖さんを犯人扱いするうち、「ちょっと何考えてるかわからない感じだったけど、怖い男だったのかもしれない」と、寡黙な性格が災いして誤解された可能性は高い。悪気や差別意識はなくとも、報道を信じるしかない従業員らは次第に「かかわらない方がいい」という考えに収斂し、目撃談を積極的には語らなくなってしまったのだろうか。前回紹介したように、証言者への検察や警察の「圧力」「脅し」があった可能性も十分考えられる。


■「おなかちゃんに殺人などできるはずがない」


 2月22日、筆者は「袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会」の山崎俊樹事務局長の案内で当時の巖さんを知る人物を尋ねた。

 渡邉昭子さん(86)は、JR清水駅から車で15分ほどのアパートに住む。夫の蓮昭さんは2020年11月に93歳で他界した。巖さんがキャバレー「太陽」のボーイだった頃、北海道佐呂間町出身の蓮昭さんはバンドマンとして「太陽」の舞台でピアノやアコーディオン、ドラムを演奏していた。巖さんはこの夫婦と家族づきあいをする親しい間柄だった。

 昭子さんはアルバムを用意して待ってくれていた。ところが、巖さんが写っている写真はごくわずかで、小さかったりぼやけたものばかりだ。「いい写真は全部警察が持って行ってしまって、返してくれないままなんです」と昭子さんは残念がる。

「よく事件現場近くの袖師海岸(今は埋め立てられている)に海水浴に行きました。巖さんは私たちの子供をものすごく可愛がってくれました。独立して開いた『暖流』を辞めた後、こがね味噌に勤めてからも付き合いは続いていて、あの事件の1週間前にも巖さんは味噌を持ってきてくれましたよ」と振り返る。

 事件発生で清水市民は恐怖に慄き、大騒ぎになった。

「7月1日の夕方に警察が3人くらい来ました。そして巖さんのことをあれこれ夫に訊いたのです。夫は『袴田君がそんなことをするはずがない』と強く訴えましたが、刑事はタバコをふかしながら『あいつに間違いないんだ』と言って全く聞く耳も持ちませんでしたよ。夫は『おなかちゃんが殺人なんかできるはずないんだ』と憤慨していました。巖さんはボクシングをやめてからポコンとおなかが出ていたので、そんなあだ名で呼んでたんですよ」と話す。

 昭子さんは、清水署の警察がやって来たのは事件翌日の7月1日と記憶していた。しかし、スマホで1966年のカレンダーを調べていた山崎さんは、「夕方だと、平日でご主人は『太陽』に出勤しているはず。警察が来たのは7月1日の金曜日ではなく、2日の土曜か3日の日曜ではないですか」と言った。ちょっと天井を見上げて思い出すようにしていた昭子さんは「とにかくその週にすぐきましたよ」と振り返った。事件は6月30日の木曜日なので、いずれにせよ事件から数日後には捜査陣が巖さんを犯人と決めつけていたことを物語る。事実、毎日新聞は7月4日の夕刊で <従業員「H」浮かぶ 清水の殺人放火 血ぞめのシャツを発見>とのタイトルで<【清水】六月三十日未明、静岡県清水市横砂、こがね味噌製造会社専務、橋本藤雄さん(四一)方で藤雄さんら家族四人が殺された強盗殺人放火事件清水署特別捜査本部は四日、同社製造係勤務、H(三〇)を有力容疑者とみて証拠固めをしている。(中略)Hは同市内に妻と子供が住んでいるが、折り合いが悪く現在、協議離婚の話が持ち上がっている。また女性関係が多く、給料の前借りもしばしばだった。しかし受けはよく非常にかわいがられており毎日、同家に食事にいき、藤雄さん方の事情にもくわしかった>などと報道した。

 蓮昭さんは巖さんの無実を信じ続け、支援集会などにも駆け付けていた。山崎さんは「清水での支援集会の時も車いすで姿を見せていました」と話す。昭子さんは「テレビで巖さんがニュースになると、『おい、かあちゃん、袴田さんが出てるよ』と大声で私を呼びました。釈放された巖さんと主人は対面しましたが、巖さんは主人ことが分からなかったようです。主人も、その時は既に弱っていて声が出せなくなっていましたね」と残念そうに振り返った。

 そんな渡邉夫妻についてひで子さんは「ご夫妻を昔から知るわけではなく、巖が拘置所から出てきた後の支援集会にご夫婦が来てくださった時に初めてお会いしました。その時は巖もおかしくなっていたので、蓮昭さんのことも昭子さんのことも思い出せない様子でした。蓮昭さんは車いす姿でかなり弱っておられました。せっかく集会にまで来ていただいたのにとても残念でした」と振り返った。


■「巖さんにあんなズボンがはけるはずない」


 当時の「太陽」は、「東海一」と謳われたキャバレーだった。蓮昭さんはもともと『高原の駅よ、さようなら』などで一世を風靡したクラシック出身の歌手の小畑実(1923〜1979)のバンドマンだった。東京・足立区に育った昭子さんは、ドラムを叩く蓮昭さんを見て「かっこいいなあ」と惚れ込み、父親の反対を押し切って結婚したそうだ。ところが、その後バンドは解散。困っていたところに、かつて清水市で巖さんが所属していたボクシングジム「串田ジム」の串田昇さんから「『太陽』のバンドマンにならないか」と声がかかり、渡邉夫妻は東京から清水に移り住んだそうだ。夫妻も巖さんも「太陽」の寮に住んでいたので、親しくなった。

「物干し竿にかけてある服をいつも見ていました。だから、巖さんが裁判でズボンを履く実験をしていた写真を見て、あんな小さなズボンが巖さんに履けるはずないと思っていましたよ」と振り返るのだ。ズボンとは、後に犯行時の着衣とされた「5点の衣類」の1つのことだ。

「『太陽』で働いていた頃に巖さんは結婚しました。奥さんはいい子だったけど、かなり気の強い性格でしたね。息子さんが生まれたのは『太陽』を辞めて『暖流』を始めてからでした」と振り返る。

 巖さんの性格について「こっちが話しかければ『そうだよ』なんて言うんだけど、自分からは滅多に話さない無口な人でした。みんなとは仲良くはしていたけど、麻雀も誘われてたまにやる程度。ほかのバクチなんて何もしなかった」と話す。事件が起きてすぐに巖さんが犯人として浮上した頃について「『太陽』のホステスの子たちも『あの人がそんなことするはずがない、絶対違う』と口をそろえていました」と振り返る。

「死刑判決が出た時(1968年9月)も主人は『そんなはずはない』の一点張りで怒っていましたが、どうしようもなかった。私も高齢で何も支援の手伝いができないけど、なんとか早く無罪になってほしい」と話す昭子さんの椅子の足元で、生前の蓮昭さんが拾ってきて可愛がっていたという猫のマメ君が甘えていた。


■当時のまま残っている「暖流」の建物


 取材日は寒かったが快晴で、山崎さんの運転で若き日の巖さんの足跡を辿った。清水市内を流れる巴川のほとりにある製紙工場「巴川製紙」の対岸の柳橋のたもとに、昭和を思わせる風情ある飲み屋の一角があった。1963年の冬頃、巖さんはここでバー「暖流」を開店し、新婚の妻・レイ子さんをマダムにして切り盛りしていたのだ。

「『太陽』の建物はなくなりましたが、『暖流』の建物は昔のままなんですよ。巖さんはここの2階に寝泊まりしていたはずです」と語る山崎さん。巴川の河口を見やりながら「橋本専務はモーターボートを所有していて、休日にはよく巴川の河口や海でボートで釣りをしていました。巖さんは、専務に頼まれて河口に係留していたボートの手入れや掃除をやっていたのです。放火に使われたというガソリンの一種の混合油とは、このボートのもので、ツーサイクルエンジン用の油でした」と話していた。

 一方、巖さんが「暖流」を始める前にボーイをしていたキャバレー「太陽」は、今は駐車場になっていて跡形もなかった。跡地を訪ねると、当時から「太陽」のすぐ近くに住む小松兼吉さん(86)がたまたま庭に出ていた。

「大学を出て会社員になった昭和35年頃、『太陽』によく通ったよ。コントみたいのも舞台でよくやっていたなあ。楠トシエも出てたなあ」などと話していた。「太陽」は有名キャバレーで、俳優の勝新太郎や歌手で声優の楠トシエ、先ごろ亡くなった漫才師の内海桂子などの著名芸能人もよく舞台に上がっていた。小松さんは「袴田巖さんを直接知っていたわけではないが、事件が起きた頃、袴田さんが奥さんとこじれていたようなことが言われていたのを覚えている。この辺の人間としては犯人なんだと思っていたけどね。ほかに怪しい人がいるという話も出なかったし。犯人だったのかどうかは私にはわからないけど」などと話してくれた。

 楠トシエとは実に懐かしい名を聞いた。子供の頃、筆者が夢中で見たNHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」のサンデー先生の声だ。現在は94歳で元気だそうだ。


■警察が作り上げた悪印象の人物像


 巖さんの人物像について、静岡県警の捜査報告書(1968年2月印刷)の「袴田巖の経歴・家庭状況」の項目から少し引用する。

《5 昭和37年頃、眼と足の故障から、ボクサーを続けることができなくなり、不二拳をやめて引退し、清水市内に帰り串田の紹介で同市内のキャバレー太陽のボーイとなり、レイ子もそこのホステスとなって共稼ぎしていたが、半年くらいでやめ、(中略)富士市内三枝酒店に行き昼間は店の手伝いをし、夜はバー「ボン」でレイ子とともに働いていたが長続きせず間もなくもとのキャバレー「太陽」に戻り以前のようにボーイとして働くようになった。》

《6 昭和38年11月頃から「太陽」に出入りしていた酒屋西宮日出男がスポンサーとなって、清水市仲町に「暖流」というバーを開業し袴田が支配人、レイ子がマダムとなり、ホステス2人を雇って営業を始めたが、袴田が競輪、マージャンに凝って浪費したため経営不振となり、昭和40年1月ころ、西宮の紹介で、清水市横砂651王こがね味噌合資会社橋本藤作商店に工員として勤め妻レイ子は再び西宮の世話で、清水市旭町で「萬花」というバーを経営したが3ヶ月位で潰れてしまった。
 袴田は「萬花」が潰れてからは同会社第一工場の中にある寮に寄宿し、味噌の運搬、及び味噌ずりの仕事をするようになり、現在に至っている。》

《8 袴田巖の家族関係
(1)袴田は昭和38年5月キャバレー「太陽」に勤務しているころ赤石レイ子と正式結婚の手続きをとり昭和39年10月15日長男 正 が生まれた。「暖流」「萬花」等のバーをやっていたころは家族三人で暮らしていたが「萬花」が潰れたころ妻レイ子に嫉妬から乱暴するようになったためレイ子は情夫とともに家出してしまった。》

※筆者注:妻と息子は仮名。不二拳とは神奈川県川崎市にあった不二拳闘ボクシングクラブ。串田とは清水市にあった串田ジムの主催者・串田昇氏のこと。警察の報告書は意図的に袴田巖さんをギャンブル好きの怠け者に仕立てているが、麻雀はルールを知っている程度、競輪など嗜んでもいない。妻のレイ子には早々と「男」がいたようである。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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