世界の長者番付で3位に…バブルの不動産王・小林茂の素顔 30代で「秀和レジデンス」を生んだ背景とは

世界の長者番付で3位に…バブルの不動産王・小林茂の素顔 30代で「秀和レジデンス」を生んだ背景とは

秀和外苑レジデンス

■最初の事業はバー経営


 青い瓦屋根と白いモルタル塗りの壁でおなじみのレトロマンション「秀和レジデンス」。その魅力を徹底的に特集した「秀和レジデンス図鑑」(トゥーヴァージンズ刊)が今年2月に発売されるなど、熱狂的なファンも多い秀和だが、創業者である小林茂は1988年には世界の長者番付で3位にもなったバブル富豪だった。「昭和の不動産王」と呼ばれた小林の素顔とは――。ノンフィクション作家の中原一歩が迫った(『秀和レジデンス図鑑』より)。

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 秀和レジデンスを語る上で、その生みの 親である株式会社「秀和」の創業社長・小林茂を忘れてはならない。日本がバブル景気の頂点を極めていた1988(昭和63)年。小林は世界の長者番付で西武鉄道グループの堤義明、六本木ヒルズで知られる森ビルの創業者・森泰吉郎に次いで世界3位となった。小林は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を体現した日本人の一人なのだ。その小林が30代で手掛けたのが「秀和レジデンス」シリーズ。いったい、どんな人物だったのだろうか──。

 1927(昭和2)年、小林は東京都文京区小石川に生まれた。7人兄弟の次男。墨田区にあった工業高校卒業後、予科練に入隊。時代は太平洋戦争の真っただ中だった。現在、「ライフ」の名前で全国展開するスーパーマーケットチェーンの創業者・清水信次は予科練時代の盟友だ。終戦後、復員した小林は実家の木工家具店を手伝っていたが、あるとき、店の取引先が破産。その担保として銀座の一等地の土地を手に入れることになる。

 最初の事業はバーだった。「サラリーマン」というユニークな大衆向けのバーは大当たり。その後、小林は同じ土地に日本初の「ソシアルビル」(※)を建て、東洋一の歓楽街で一目おかれる存在となる。ビルは各階にスナック、バー、クラブが入店。最上階は「双葉」という名前のキャバレーで、連日、多くの客で賑わった。

※複数の飲食店がテナントとして入る通称「飲み屋ビル」


■流行の匂いを嗅ぎ分ける“ハンター”


 当時から小林のビジネスの「勘」は冴えていた。業界では「猟師(ハンター)」と呼ばれていた。常に何が当たるか、猟師のように獲物を探し回り、その匂いを嗅ぎ分け、ひとたび獲物を見つけたならば確実にものにする。とにかく、時代のはやり廃りを見分ける才覚に 優れていた。

 東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年。小林は満を持して高級マンションの売買に乗り出す。当時を知る大手デベロッパーOBはこう証言する。

「五輪景気を背景に、民間の大手デベロッパーは、利便性の高い都心にそれまでとは異なる新しいライフスタイルを提案する高級高層マンションを次々と誕生させました。分譲価格は5千万円から1億円。世に言う『億ション』の誕生です」

 その中でも、欧風でモダンな外観が印象的な「秀和青山レジデンス」の存在感は圧倒的だった。


■「お医者さんからお手伝いさんまで」


 小林とともに「秀和レジデンス」の企画、設計に携わっていた山崎洋さん(現・アーバンライフ株式会社代表取締役社長)は、当時をこう振り返る。

「渋谷に近い青山の700坪の一等地に、それまで誰も見たことがなかった欧風マンションを建てようということになったのです。キャッチコピーは『お医者さんからお手伝いさんまで』。つまり、マンションの1階には診療所があり、常時、専用のお手伝いさんがいるという触れ込みでした。発売と同時に申し込みが殺到して、その中には作家の永六輔さんをはじめ、日本を代表する政財界の人の名前がありました」

 小林37歳の頃だった。

 経営手腕に長けた小林だったが、実は最もこだわったのはマンションの設計。学生時代は建築学部に籍を置き、1級建築士の免許を有していた。当時、小林の部下として、その仕事ぶりを間近で見ていた伊藤彰さん(現・株式会社アソルティ代表取締役)はこう回想する。

「コバルトブルーの屋根瓦と白い壁という秀和スタイルは共通なのですが、中身の造 りは物件ごとにまったく違う。採算度外視で決して安易な規格売りはしませんでした」

 小林は「外観」にも徹底的にこだわった。本社の屋外にイタリアから取り寄せた色とりどりのタイルを雨ざらしにして、時間と共にどう色褪せ変化するか耐久性を研究した。今日でも色褪せない秀和レジデンスの様式美は、小林の執念の集大成だ。

「当時、会社には若い設計士が働いていましたが、小林の感性は群を抜いていました。アイデアがひらめくと彼らを集めて、まるで図面で遊ぶ子どものように目を輝かせなが ら議論を戦わせていましたね」(伊藤)


■サラリーマンでも買えるマンション


 ところが“億ション”に代表される富裕層主体の「第1次マンションブーム」は、そう長くは続かなかった。そこで小林は、一転してマンションの大衆化を図る。どうすれば、サラリーマンでも買えるマンションを造れるのか──。そこで小林は日本初の「住宅ローン制度」の導入を目指した。1962(昭和37)年に整備された「区分所有法」という法律によって、「マンションの一室も資産として認められる」ことを小林は利用したのだ。小林は銀行と話し合いを重ね、サラリーマンが月賦でマンションを購入できる制度を確立した。

 そしてもうひとつ、小林が提唱した仕組みがある。それが「管理組合」の導入だった。小林は次のようなことを書き残している。「買った時は白亜の殿堂であっても、何年か経つと面影が失われてしまう。壁は剥がれ落ち、水漏れがし、無断駐車、放置自転車が散乱し、マンションのスラム化が進む。ヨーロッパの高層住宅が300年も使用に耐えるというのは、管理が行き届いているからだ。ヨーロッパほどはないとしても、すばらしいマンションを維持するには管理次第ということである」

 マンションを買うなら管理を買え──。小林が考えたキャッチコピーと仕組みは大当たりする。小林が生み出した「住宅ローン制度」と「管理組合方式」の浸透によって、東京都内を皮切りに、全国にマンションが建てられることになる。まさに小林は、日本のマンションシーンの礎を築いた人物なのだ。「マンションといえば秀和」と称賛された由縁がここにある。


■「SHOUGUN」という異名


 その後、小林が創業した秀和株式会社は、「オフィスビル」で東京の不動産業界を席巻。1978(昭和53)年には米国進出を果たす。ロサンゼルスのランドマーク「アトランティック・リッチフィールド・プラザ」をはじめ、全米三大テレビネットワークのひとつABC放送が所有する「ABCビル」などを買収。自社のコーポレートカードに「アメリカのシンボルといわれているビルが、いまや秀和のシンボル」と刻んだ。ニューヨーク本社ビルの玄関に鎧兜が飾られていたことからついた異名は「SHOUGUN」。小林は米国の経済界でも名を馳せ、ニューヨークの名誉市民にも推薦された。

 しかし、バブル崩壊を契機に経営は行き詰まり、2005年、秀和株式会社は、アメリカの投資銀行モルガン・スタンレーに買収され消滅。小林もその6年後の2011年にこの世を去る。東京の大手デベロッパーの幹部は、正真正銘、小林は昭和の不動産王だったと回想する。

「今でこそ、『〇〇レジデンス』という名前のマンションは東京中にありますが、秀和を知る世代は、恐れ多くておいそれとはその名前を使えませんでした。『秀和レジデンス』は日本のマンション史そのものであり、小林茂の人生、そのものなんです」

中原一歩(なかはら・いっぽ)
ノンフィクション作家。佐賀県生まれ。著書に『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社)、『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』(文藝春秋)など。

デイリー新潮編集部

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