80代認知症の母を介護する100歳の父の言葉 「お母さんが一番不安」「お互いさまよ」

80代認知症の母を介護する100歳の父の言葉 「お母さんが一番不安」「お互いさまよ」

笑顔の両親を撮り続けた

 突然、認知症と診断された患者は、自分の病とどう向き合うのか。そして介護する家族にはどんな変化が起きるのか。その一部始終を捉えたドキュメンタリー映画が話題である。苦難を乗り越え、たどりついた「夫婦のかたち」から学ぶ超「老老介護」のリアルとは……。【信友直子/ドキュメンタリー映画監督】

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「ぼけますから、よろしくお願いします」――これは2017年のお正月に、当時87歳だった母が実際に私に言った言葉です。午前0時になって年が変わった瞬間、「あけましておめでとうございます」という新年の挨拶の後に、「今年はぼけますから、よろしくお願いします」と言ったのです。

 認知症の母のことを映画にしようと思ったとき、タイトルとしてすぐに浮かんだのがこの言葉でした。昔から自虐的で、会話にブラックユーモアをちりばめたりして周りを笑わせる人でした。母の人柄と認知症という病気のことを両方表しており、これ以上ふさわしいものはないと思ったのです。


■「お母さんがおかしくなったから、カメラを向けなくなったのかい」


〈18年に公開され、ドキュメンタリーとしては異例の20万人を動員した大ヒット映画の続編「ぼけますから、よろしくお願いします。〜おかえりお母さん〜」が、3月25日より全国で順次公開されている。

 カメラを回したのはドキュメンタリー映画監督の信友直子さん。85歳でアルツハイマー型認知症と診断された母・文子さんと、妻に代わって家事をこなす当時93歳の父・良則さんが織り成す「老老介護」の様子を、ひとり娘の視点から克明に記録し続けてきた。

 両親が住むのは、信友さんの故郷である広島県呉市である。東大に合格して上京後、東京を拠点に主にテレビ番組を制作してきた彼女自身、突然、身に降りかかった介護という問題を、映画の題材にするつもりは毛頭なかったという。むしろ、会う度に言動がおかしくなってきた母親に対して、自らカメラを向けることをためらう時期もあった。

 もともと母親が認知症を患う以前から、信友さんは実家に戻ると取材の練習を兼ねて、元気な両親の姿をカメラに収めてきた。そうした20年来の習慣があったからか、認知症が進行し始めた母は、娘に「お母さんがおかしくなったから、最近はカメラを向けなくなったのかい」と尋ねたそうだ。

 自らの異変に気づいていた母が漏らした一言を受け、いっそのこと東京を引き払って老いた親の面倒を見ようか――。揺れ動く娘に対し、父は「おっ母のことはわしが看る。あんたはあんたの仕事をしたほうがええわい」と気丈に答えた。

 以来、そんな両親を支えようと、信友さんはできる限り帰省することを心掛け、カメラ片手に東京と広島を往復する日々を送ってきたのだった。〉


■「認知症がくれた贈り物」


 人生100年時代といわれる今、認知症は誰がなってもおかしくない病です。けれど、認知症になったからといって、この世の終わりというわけではありません。母が認知症になったからこそ気づけた大切なもの、「認知症がくれた贈り物」について、皆さんにお伝えできることを映像と文章で記録してきました。

 私も母の認知症を最初から「贈り物」だなんて思っていたわけではありません。大好きな母が壊れてゆくのを見るのは怖く、悲しく、目を背けたくもなりました。

 でも気づいたのです。いくら目を背けたところで現実は変わらない。ならば潔く受け止めて、その上で少しでも前向きに、楽しく生きる方法を工夫した方が得じゃないかと。これは長く暗いトンネルを抜けてつかみ取った、生きるコツのようなものです。


■本人が一番苦しんで…


 ここ数年でうちは、社会問題といわれるキーワードがいくつも重なる家になってきました。まず母の「認知症」。超高齢な父による「老老介護」。母に何かあるたびに私が東京と呉を往復する「遠距離介護」。そして、私が東京での仕事を辞めて実家に帰るべきか悩んでいるので「介護離職」予備軍……。それに気づいたとき、私は撮りためた映像を公表しようと思いました。

 うちのようにごく普通に暮らしてきた家族の姿から、こういった社会問題を感じることで、認知症をより身近に自分事として覚悟したり、準備してもらえるのではないかと思ったからです。

 認知症になった人は、ぼけてしまったから病気の自覚もないのでは?と思われる方もいるかもしれませんが、実は本人が一番苦しんでいます。母をずっと側で見てきた私が言うのだから間違いありません。

 自分がおかしくなってきたことは、本人が一番分かっているのです。昔、できていたことがなぜできないのか、自分はこれからどうなってしまうのか、家族に迷惑をかけてしまうのではないか……。認知症の人の心の中は、不安や絶望でいっぱいなのです。

 母も時には「あんたらの迷惑になるけん、私はもう死にたい」と泣くこともあります。あんなに明るくて、何でも笑い飛ばす人だったのに……。


■「死にたい」と泣きわめいても、寝て起きると忘れている


 母にそう言われると、私も一緒に泣きたくなります。実際、認知症となってから最初の何年かは、私も母への思い入れが強すぎて泣いてばかり。今振り返っても、介護をする中で一番うつっぽい状態になっていたかもしれません。

 人間は学習する動物だということを、認知症を患った母と過ごす日々の中で身をもって知りました。母の感情に引きずられて一緒に泣いても、自分の気が滅入るだけで何も解決しないことに気づいたのです。

 それに母は「死にたい」と泣きわめくと疲れて寝てしまうのですが、次に目が覚めた時にはすっかり忘れている。そんな時、母の絶望が感染してまだ泣いている私に向かって「泣きなさんなや」と一生懸命慰めてくれるのです。

 いやいやお母さん、あなたが泣かせたんでしょうとツッコむのですが、母は全然おぼえていません。


■カメラを回していると面白がれる


 こうなるともう喜劇ですよね。それで気づいたんです。これは振り回されるだけ損だな、と。こういう母の認知症からくるおとぼけエピソードは、挙げればキリがありません。

 そしてそれは、母と一緒になって嘆き始めるといくらでも悲劇に思えるけど、ちょっと引いた目で見るとけっこう笑えて、喜劇に思えてきます。

「人生はクローズアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」

 喜劇王チャップリンの名言です。本当にその通りだなあ、と今の私は痛感しています。

 起きたことをどう感じるかは、要は自分の視点の置き方、捉え方次第なんです。それなら捉え方を自分で工夫して、できるだけ笑って楽しく過ごすほうがいいに決まっています。

 母の行動だけを見て「何でこんなになってしまったんだろう」と思うと悲しくなりますが、少し引いた視点で見ると「ぼけたおばあさんと耳の遠いおじいさんのかみ合わないやりとり」は、とぼけた味があってほほ笑ましく感じられます。

 なにより「ヒキ」で見るには、カメラを回していたことがとても助けになったと思います。自然と視点が客観的になるからです。娘には心が折れるだけの母の振る舞いも、カメラを回していれば「これって衝撃映像かも!」と面白がることができるのです。


■異変を感じた電話


 そもそも、最初に母の異変に気づいたのは、忘れもしない12年4月。呉市の実家に電話し、たわいないおしゃべりを楽しんでいた時のことでした。

「こんな面白いことがあってね」

 と母が勢いよく話し出したのは、前の日に聞いた話と全く同じものだったのです。それをあたかも初めてのように語る母。私は何かの冗談かと思って、

「お母さん、その話、もう昨日聞いたわ」

 そうツッコミを入れました。すると受話器の向こうでほんの一瞬、息をのむような気配があったのです。その一瞬の沈黙は私を恐怖に陥れるのに十分でした。

 お母さんはおかしゅうなったんかな……。母も私に疑われていることを敏感に察したのでしょう。聞かれもしないのに言い訳することが増えてきました。

「ああ、この間はお母さんもう眠かったけん、あんたの話をよう聞いとらんかったかもしれんわ。悪かったねえ」

 そう、今思えば母はずいぶん前から自分の異変に気づいていて、それを必死で私に隠そうとしていたのではないでしょうか。そこには「主婦の鑑(かがみ)」であらねば、というプライドもあったでしょうし、娘に心配をかけたくないという親心も大きかったはずです。

 母は一体どうなっているんだろう。私は恐る恐る実家に帰ってみることにしたんです。


■「お母さんが一番不安なんじゃけんの」


〈信友さんが母の異変に初めて気づいてから2カ月後、実家に戻ると、父母の関係が逆転していたという。もともと夫を立てるタイプで父に逆らったことのない母が、理不尽なことで父を叱っていたのだ。〉

 母も自分が壊れていく恐怖をひしひしと感じていて、唯一甘えられる父を攻撃することで恐怖を少しでも振り払いたいんだ。そう直感しました。

 ある時、父がポツリとこう言ったのです。

「直子もお母さんを傷つけるようなことは言うなよ。お母さんが一番不安なんじゃけんの」

 ああ、父は全部わかっているんだ。その上で母をいたわり、支えようとしているんだ。父の度量の広さに感動しました。


■「わしが代わりに覚えとってやるけん」


 鮮明に覚えている両親のやりとりがあります。母が認知症と診断されて数カ月後のこと。母が出し抜けに父にこう聞いたのです。

「お父さんは、私がもの忘れをしよるけん、心配なん?」

 お母さん、いきなり何を言い出すんね? 私は肝を冷やしましたが、父はさらりと答えました。

「そりゃあ家族じゃけん、心配よ」

「お父さんは私が恥ずかしい? 迷惑な?」

「いや、そうなことはないよ。あんたができんようになったことは、わしがやりゃあええだけじゃけんの」

「ほんならえかったわ。ありがとね」

「わからんことがあったら、何でもわしに聞けえよ。あんたが覚えとかんといけんことは、わしが代わりに覚えとってやるけん」

「ほんま? ありがと。そうするわ」

 この話はそれで終わり。その後は何事もなかったかのように別の話題に移りました。


■「お互いさまよ」


 私は母の奇襲に驚きましたが、それよりも父の率直さに感動していました。母が気にしている「もの忘れ」をさらりと認めた上で、自分の思いを伝え、母を安心させたのです。

 父はおそらく、母を介護しているという意識はあまりないのだと思います。ただ、母と一緒に一生懸命、毎日を生きているだけなのでしょう。60年間、夫婦で積み重ねてきた日々の続きを。

 父は母に、こうも言っていました。

「たまたまあんたが先に具合が悪うなったが、わしが先ならあんたに面倒みてもらうんじゃけん、お互いさまよ。気にすることはないよ。しょうがないことじゃけん」

 私も年をとった時、こんな境地に達したいものだとひそかに憧れています。

 そんな父としばらく二人暮らしをすることになったのは、新型コロナが猛威を振るい始めたのがきっかけでした。

 前作映画の上映会や講演会の仕事がいきなり全てキャンセルになり、スケジュールは真っ白に。この先、一体どうなってしまうんだろうと途方に暮れましたが、親孝行するいいチャンスだと割り切って、実家に帰ったのです。


■ひとつだけ残された仕事


 ちなみに認知症の母は、映画の公開とともにまとめた最新刊(『ぼけますから、よろしくお願いします。おかえりお母さん』新潮社刊)の中で詳しく書きましたが、18年に脳梗塞を起こして長期入院中。病院はコロナ対策のため面会にも行けません。友人と会うことは自粛していたので、突然父と二人きりの、まるで引きこもりのような生活になってしまいました。

 そんな私にひとつだけ残された仕事が、地元の中国新聞へのエッセイ「認知症からの贈り物」執筆でした。テーマは母の認知症。20年4月1日から、週1回、2カ月の連載を頼まれていたのです。ありったけのエネルギーをぶつけて書いたからでしょうか、おかげさまで新聞社にも反響が寄せられたようで、連載は終了時期を決めずに続けてくださいと言われました。

 自粛生活で、時間はたっぷりあります。この機会に、父と私が母の認知症にどう向き合ってきたのかを、もう一度丁寧に振り返ってみました。ありがたいことに連載は21年8月いっぱいまで約1年半も続きました。この連載をぜひ広島以外の皆さんにも読んでもらいたいと思って、一冊の本にまとめたのが最新刊です。


■要介護者を抱えた人が心穏やかに暮らすヒント


 父は101歳になりましたが、耳が遠いのと腰が曲がっている以外は、どこも悪いところはありません。なぜこんなに健康長寿でいられるのか、そのあたりの謎にも迫ってみました。

 母の異変におろおろしてばかりの私と違って、父の「肝の据わった」向き合い方は、娘から見ても「カッコイイ!」と思えるものでした。父の対応には、要介護者を家族に抱えた人たちが心穏やかに暮らすためのヒントが、いっぱい詰まっているんじゃないか? うちは本当に普通の家で、そんな普通の家族の老後の話だからこそ、誰にでもあてはまるメッセージとして受け取ってもらえるんじゃないかと思っています。

信友直子(のぶともなおこ)
ドキュメンタリー映画監督。1961年広島県呉市生まれ。東京大学文学部卒。森永製菓入社後、広告部在籍時「グリコ森永事件」に遭遇して映像制作に興味を持ち転職。制作プロダクションを経て現在はフリーとして活動する。認知症の母と老老介護する父の記録は2016年にフジテレビ系列の番組で放送され、18年に映画となって上映された。

「週刊新潮」2022年4月7日号 掲載

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