刑事に囲まれカツ丼を平らげたひで子さん 「そのうち真相がわかると心配していなかった」【袴田事件と世界一の姉】

刑事に囲まれカツ丼を平らげたひで子さん 「そのうち真相がわかると心配していなかった」【袴田事件と世界一の姉】

パトロールのため、ひで子さんとマンションを降りてきた袴田巖さん(4月16日、撮影・粟野仁雄)

 1966年、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で「こがね味噌」の専務一家4人が惨殺された上に、自宅が放火された「袴田事件」が発生した。事件後、捜査本部に50日間「泳がされた」のち、殺人容疑で逮捕された袴田巖さん(86)。本人は逮捕されるとは想像もしていなかったため、普段と変わらぬ振る舞いの弟の姿に、姉のひで子さんもさして心配しなかったそうだ。だが同年8月18日早朝、2人の刑事が巖さんの住む従業員寮を訪れる。この日を最後に2014年3月27日までの47年7カ月余、巖さんが「塀の外」に出ることはなかった。連載『袴田事件と世界一の姉』の14回目(粟野仁雄/ジャーナリスト)。


■強盗か怨恨か


 事件から11日後、7月11日付の静岡新聞朝刊に記者座談会が掲載されたが、未解決の大事件に担当記者の意見が大きく割れた。以下に引用する。

《強盗説とえん恨説

 ――この事件はまれに見る凶悪な犯罪だと思う。大まかにいって犯行の目的はどこにあったのだろうか。

 B 警察は強盗説を捨てきれないようだが、私は恨みの線が濃いと思う。あの残虐きわまる犯行手口を見れば長い間潜在していた恨みが爆発したものといってよい。

 D えん恨説には同感だ。四人の刺された傷口が、これまでにわかったものだけで四十九カ所もあり、憎しみのあとを歴然と物語っている感じだ。

 A 私は逆に強盗説を有力にみている。裏木戸の外に集金袋にはいった現金が落ちていたということは少なくとも犯行の間に現金が犯人の手で移動したとみるべきだろう。

 ――ではいまいう戸外の現金をどう判断するか。

 B 微妙なところだ。これがわかれば事件もたちどころに解決するかもしれないが、私はやや飛躍して“犯人の偽装”だとみる。金を目的の犯人なら捨てて逃げるはずがない。

 C そうは思わない。犯人が逃げるため屋根に出て地面に降りようとした時あわてていたため落としたものか、手に持っていた袋をいったん下に投げたのだと思う。拾って逃げるチャンスを失ったためそのままにしたのではないか。

 A 現場付近では列車が四分間隔で通るので列車の灯火を避けているうちに火がまわって拾いあげるいとまもなく逃げ出したとも考えられる。

 D あの金はいろいろに推理できる。しかしいずれにしてもこの金だけは犯行と直接結びつくただ一つの資料だ。現場検証や家宅捜索でみつかったもののうち他の資料については犯行との結びつきが確定していない。

 A だから捜査陣もこの金のことには触れたがらない。位置や金額のことはいっさいノーコメントだ。しかし橋本さん方にあった金が家の外に落ちていたことだけは事実である。》

 結局、警察は怨恨説をさっさと捨てて「強盗殺人」に仕立てる。奪われた金は8万円ほどで、今なら40万円くらいか。しかし橋本邸からは、従業員用の給料十数万円が袋に入ったまま見つかり、通帳類も印鑑もそのまま。とても強盗目的とは思えなかった。後の供述調書での巖さんの「犯行動機」はころころ変遷し、最終的に「子供と一緒に住むアパートの資金が欲しかった」となる。その程度の金なら橋本藤雄専務が貸してくれただろう。橋本専務は働き者の巖さんを可愛がり、高級な背広を与えてくれたりした。恨みなどあるはずもない。


■記者たちに愛想を振りまき連行・逮捕


「袴田、起きろ」

 8月18日午前6時ごろ。同僚の出勤を見計らって巖さんの従業員宿舎に刑事2人(住吉親と森田政司)が現れた。寝ぼけ眼の巖さんは「わかった」とズボンとワイシャツを着て「顔だけ洗わせてくれ」と下へ降りて顔を洗う。2人の刑事が挟むようにして車に誘導すると、潜んでいた報道記者やカメラマンがどっと寄ってきた。巖さんは愛想よく手を振った。車が清水署に向かうと報道陣の車も追う。巖さんは追ってきた車にまで挨拶する。任意同行だったが清水署に到着すると、容疑否認のまま逮捕されてしまう。

 当連載の前回で紹介した通り、証拠は巖さんの寝具入れから見つかった小さなシミが付いたパジャマだった。返り血の跡かと疑った警察は、これを「血染めのシャツ」とまで記者に書かせたが、警察庁の科学捜査研究所でも鑑定不能の「シミ」となったものだ。県警の法医理化学研究室はそのシミから、A、B、AB型と3種類の血液が付着していたと鑑定した。巖さんの血液はB型。A型は殺された橋本専務、AB型は長男・雅一朗君だ。パジャマから検出された微量の油は、微量でも分析できるガスクロマトグラフという当時の最新装置で分析し、パジャマの油と放火に使われた混合油が「ほぼ同じ性質」とした。巖さん逮捕は、これらの鑑定結果が持ち込まれた翌日だった。

 殺人事件で最も重要な物証は「凶器」だ。捜査本部は、凶器は殺された次女・扶示子さんの遺体近くで警察が事件2日後に発見したクリ小刀とする。工作用の刃物で刃先が少し折れており、木製の柄は完全に消失し金属部分だけが残っていた。さらに、犯行時に着ていたとされた雨合羽のポケットから鞘が見つかったとした。中庭に落ちていた雨合羽は巖さんの同僚の所有で「内部犯行説」の根拠となる。警察が「袴田巖さんの所有物」としたクリ小刀の不自然さは後述する。


■警察署で平らげたカツ丼


「巖に人殺しなどできるはずない」と信じるひで子さん。とはいえ仲の良かった姉弟が離れて暮らして長い。ひで子さんは「私が知らない世界で関わり合いにならなければいいことに巻き込まれたのか、と若干の心配はあった。でも中瀬(現・浜松市北区)の親の所に帰省した巖が近所の人と普通に話す姿を見て、そんな心配も消えました。人を4人も殺してすぐで普通じゃおれんでしょ」と振り返る。

「親の所に巖が清水から週末に帰る時は、必ず刑事が付いてきたけど、こがね味噌の従業員とかはみんな尾行されてると思っていた。そのうち、終わった話と思っていた」(ひで子さん)

 巖さんの逮捕の日、アパートにやってきた刑事は、「弟さんの件で調べさせていただきます」と家宅捜索を始めた。

「あれこれ探していたけど何も出てきやしません。警察は仕方なく巖が持ってきてくれた味噌だけ持っていきましたよ」(同)

 ひで子さんは、浜松中央署で参考人聴取された。

「巖の女性関係だとか、借金だとかあれこれ聞かれたんでしょうが覚えていませんね。昼になって刑事から『食事にしませんか?』と言われ、カツ丼を刑事と一緒に食べたのを覚えていますよ」と快活に笑った。

 弟の逮捕は何かの間違いだとしか思っていないため、そのうち真相がわかるとさほど心配しなかった。といっても普通の女性ならそんな状況では食事など喉に通るまい。男の刑事に囲まれてカツ丼を平らげるひで子さんは当時33歳。やはり若い頃から「傑女」である。

「母(ともさん)も長男の茂治も長女のと志子も、二女のやゑ子もそれぞれ別の警察署で聴取されていた。次男の實だけは伊豆急行の寮に住み遠かったせいか聴取はなかった。父は55歳の時から中気(脳卒中などから腕や足が麻痺する病気の俗称)で寝たきりでした」(同)


■「平然と味噌づくり」と週刊誌


 巖さん逮捕直後の『サンデー毎日』(1966年9月4日号)は、「ドロはかぬ元ボクサー 一家四人強殺の証拠は十分」と題しこう記した。

《容疑者は取材ですっかり顔なじみになった新聞記者たちに手を振り、あいきょうをふりまきながら警察へ出頭していった。八月十八日早朝のこと。静岡県清水市の「こがね味噌専務一家四人強殺、放火事件」の重要参考人として、清水署に任意出頭を求められた袴田巌(三〇)だった。捜査本部は、(1)犯行手口が残忍で一家みな殺しをはかっている(2)現場から同社作業員用の雨ガッパが発見された(3)同家には二十九日夜、従業員に支払う給料約五十万円があった……。などから内部犯行と断定、五日目の七月四日、犯行現場近くの同工場内の家宅捜索を行った。(中略)本部は、パジャマの血液と油、放火現場から採取した油などの鑑定を急ぐ一方、五十日間にわたり徹底した身辺捜査を続けた。その結果、(1)パジャマには袴田のB型血液以外にA型(藤雄さんと同型)、AB型(雅一朗君と同型)の二つの血液が付着していた(2)放火した油は混合油(ガソリン一八対オイル一)で、パジャマのズボンについていた油と同一(3)工場内から犯行前夜同じ混合油六リットルが盗まれていた(4)袴田に犯行当夜のアリバイがなく、金に困っていた……など有力なる証拠、情報が集まった。》

『週刊読売』(1966年9月2日号)にはこうある。

《袴田は「とんでもないぬれぎぬだよ。おれがやったんなら、血のついたパジャマは部屋などに置くもんか。こうなったら、刑事になったつもりで真犯人をとっつかまえてやるぜ」といきまいた。そして、その後四十五日間、なんの悪びれもみせず、平然とみそ作りに精出していたのである。警察当局は、袴田が血液型の弁解ができないこと自体、自供したも同然のことではないかと強気で、犯行否認のまま送検、検事拘留もとれたが、凶器の販売先もわかっていない現在(二十二日)もし自供がえられなかったとしたら血液型と油の成分分析という純科学的な証拠だけで、公判維持が可能かどうか。二俣事件、幸浦事件、丸正事件など苦い経験を持つ静岡だけに、これから先が注目される事件ではある。》

 1940年代から50年にかけて静岡県内で起きた上記の殺人事件は、いずれも二審まで有罪だったが(幸浦事件と二俣事件は死刑、小島事件は無期懲役)、東京高裁での差し戻し審理を経て、最終的に最高裁で被告人の無実が判明してことごとく無罪となる。さらに取調室での拷問などが露呈し、県警は世間に批判されていた。ただ、この記事には有名な冤罪「島田事件」(1954年発生の幼女殺害事件)がない。一審、二審で有罪となり1961年に死刑が確定した赤堀政夫さんが再審で雪冤し、釈放されたのは1989年だからだ。


■女癖の悪かった橋本専務


 逮捕当時のマスコミは、巖さんについて盛んに「女癖が悪い」とした。だが被害者には申し訳ないが、女癖が悪く複数の愛人がいたのは巖さんではなく、殺された橋本藤雄専務だ。噂レベルの話ではなく、静岡県警の捜査報告書(1968年2月印刷)は、専務と交際のあった女性2人を実名で記録している。

 A子さん(29)については、

《昭和37年ごろから被害者の専務とねんごろになり、たびたび旅館で同衾していたが、昨年Nと結婚してからもバーなどに呼び出し、交際を続けている事実がある上に、Nの同僚が仕事で被害者の工場に出入りしたこともあって、夫婦に疑いがもたれたがアリバイがあり、結婚後の交際もきれいであって容疑は解消した。》

 独身のB子さん(22)について、

《昭和40年8月から交際をはじめ、時々バーに呼んだり旅館に呼んで宿泊したりして事件直前まで交際を続けていた事実があったので強力に捜査を行ったが容疑のあるものは発見されなかった。》

 さらに「橋本一家に対する痴情、えん恨の捜査」としてこう記す。

《被害者宅の近隣からの聞き込みによると、被害者宅は近隣とのつき合いが悪く、寄付金などは一度も出したことはなく、近隣の風評はよくない。また専務は女好きで夜間の外泊が多いことなどから夫婦間の折合はよくなく、従って家庭も円満を欠いていた。(中略)

(ア)商取引については、従来会社と取引していた石油販売店が30万円余の出血で重油タンクを設置してやったにもかかわらず、タンクが出来上がったとたん他の業者に変えたという聞き込みがあったので捜査したが、専務に対する恨みはあったが、本件を敢行するまでの動機もなくアリバイについても成立し、容疑の点は見られなかった。

(イ)また前述の専務が妾同様にしていたものに、A子(29)(筆者による仮名・報告書では本名)という女があった。この女にはN(25)(同)という夫があり、夫の留守を狙っては専務とあい引きしているので、Nについて専務に対する怨恨関係を捜査したが、Nは清水市内の会社でボイラーマンをしていたが、勤務状態もよく、事件当時のアリバイも成立して本件の容疑はなかった。

(ウ)その他、専務が出入りしていた飲食店、バー、旅館などについてきめ細かい捜査を実施して、専務と交際のあった者について掘り下げた捜査をしたが、容疑のあるものはなかった。》


■事件直前の逢瀬


「袴田巖さんを救う清水・静岡市民の会」の山崎俊樹事務局長は十数年前、袴田弁護団の小川秀世事務局長とともに女性らを「直当たり」した。

 ある女性は、山崎さんが「橋本さんのことでお伺いしたい」と切り出すと「帰ってください」とけんもほろろだったが、B子さんは「当時婚約していたので、もう関係はなかった」などと語っていたという。山崎氏は「橋本専務の女好きは清水市では有名だったみたいです。事件の前日(1966年6月29日)の昼間、橋本専務は清水の『天文』という鰻屋で、懇意にしていた西宮(にしみや)日出男さん(巖さんの面倒を見てくれた酒店店主)ら3人で食事していた。その日から伊豆に一泊の温泉旅行する予定だったが、西宮さんが漁船への酒や食糧の仕込みで忙しくなり解散した。橋本さんはそこから、以前、巖さんが勤めていたキャバレー『太陽』の近くのホテルに愛人と消えていったそうです」と語る。おそらくB子さんだ。橋本専務が家族もろとも災難に遭い落命したのは帰宅して間もなくだった。

 2005年に山崎氏とともに西宮氏をインタビューした「市民の会」の楳田民夫会長の記録には、(1)橋本さんは酒が好きで、西宮さんとも呑み友達であった。夕方から飲み始め、いつも西宮さんは10時には帰宅した。橋本はそれからプロの女性と付き合うこともあったが朝帰りする人でなく12時には帰宅する人であった。女性とのつきあいはお金で解決していた。(2)橋本さんは賭け事をする人でなく、暴力団とのトラブルの話も聞いたことがない。などと書かれている。


■米国では「ミランダ判決」


 殺された二女の橋本扶示子さんが楽しみにしていたビートルズ来日公演については既述したが、ここで1966(昭和41)年の世相を記しておく。

 日本の総人口がこの年に1億人を突破する。政界は第一次佐藤栄作内閣。吹原産業事件で田中彰治衆院議員が逮捕され、荒舩清十郎運輸大臣が選挙区の国鉄深谷駅(埼玉県)に急行を止めるダイヤ改正をするなど「黒い霧事件」で騒がれた。高度経済成長の真っただ中、それまでの冷蔵庫、洗濯機、電気釜に代わる「新三種の神器」(クーラー、自動車、カラーテレビ)が売れた。

 一方、航空機の大事故が相次ぐ。2月に東京湾で全日空のボーイング727が墜落、133人が死亡。3月に富士山上空で英国海外航空(BOAC)の旅客機が空中分解し124人が死亡した。小学生の筆者も「飛行機って怖いな」と知った。

 子供向け特撮番組「ウルトラマン」が7月に放映開始され、筆者も夢中になった。この2年前(1964年)の東京オリンピックを記念して10月10日が「体育の日」となる。東京五輪で優勝した「東洋の魔女」の主力・日紡貝塚の5年間無敗の連勝が288でストップしたのもこの年。プロ野球の優勝はセ・リーグが巨人軍で首位打者が長嶋茂雄、本塁打王は王貞治、パ・リーグは南海ホークスが優勝、本塁打王は野村克也。日本シリーズは巨人が勝ち、MVPは長嶋。球史に名を刻む大スターの全盛期だ。大相撲は1月場所だけ横綱柏戸が優勝し、年内の残る5場所すべてを大横綱大鵬が優勝した(子供が好きなものの代名詞「巨人、大鵬、卵焼き」は1961年から普及していた)。ちなみに敗戦で旧樺太(現ロシア・サハリン州)から引き揚げた大鵬の父親はウクライナ人だ。

 小説では三浦綾子の『氷点』、阿川弘之の『山本五十六』、トルストイの『戦争と平和』などがベストセラー。NHKの「朝ドラ」では樫山文枝主演の『おはなはん』が茶の間を独占する。今年3月に他界した俳優・宝田明がこの年、日本人初のミスユニバース児島明子さんと結婚した。

 邦画は高倉健主演の『網走番外地シリーズ』、船木一夫・和泉雅子主演の『絶唱』がロングラン。洋画はロシア革命が舞台の米・イタリア合作映画『ドクトル・ジバゴ』、ショーン・コネリー主演の英国映画『007サンダーボール作戦』などが客を集める。ヒット曲は16歳の日米のハーフである山本リンダの『こまっちゃうな』、布施明の『霧の摩周湖』、加山雄三の『お嫁においで』など。

 袴田事件に関連するニュースでは、この年に米国で有名な「ミランダ判決」があった。アリゾナ州の裁判所で強姦罪と誘拐罪に問われたアーネスト・ミランダさんが、取調で弁護人を同席させる権利があることを告げられずに強要された自白内容から有罪となった。ミランダさんは異議を唱え、合衆国最高裁判所は判決で警察に対し逮捕時に権利の告知を行うことを義務付けた。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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