ひで子さんが語る“戦前の袴田家”巖さんはどんな弟だったのか【袴田事件と世界一の姉】

ひで子さんが語る“戦前の袴田家”巖さんはどんな弟だったのか【袴田事件と世界一の姉】

「巖は東大を首席で出たって言うんですよ」と袴田ひで子さん (4月16日浜松市、撮影・粟野仁雄)

 解決遠のくロシアのウクライナ侵攻、26人が乗っていた知床の遊覧船の大事故……これらのニュースの合間を縫って、先日NHKが「死刑執行された男は真犯人だったのか」をテーマに長編ドキュメントを放映した。一方、コロナ感染に用心して、しばらく人前に出なかった袴田ひで子さん(89)は久々に集会に登場し、弟の近況を報告した。1966年、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で「こがね味噌」の専務一家4人を殺人した犯人とされ、現在、再審を求める弟の巖さん(86)は、最近「俺は東大を首席で卒業した」と話しているとか。連載『袴田事件と世界一の姉』の15回目。(粟野仁雄/ジャーナリスト)


■死刑執行後、「無実」と判明


 誤審による冤罪で死刑を執行された人は果たしているのだろうか。

 米国では有名な事例がある。1920年にマサチューセッツ州の靴工場で起きた強盗殺人事件の冤罪で死刑が執行されてしまった「サッコ・バンゼッティ事件」だ。靴工場の従業員だったニコラ・サッコと魚の行商人だったバルトロメオ・バンゼッティの2人が、イタリア移民でアナーキストだったことへの偏見や差別が、冤罪を生み出したことに影響したと言われる。公正な裁判を求めたドイツの物理学者アルベルト・アインシュタイン、フランスの作家アナトール・フランス、ロマン・ロランなど著名人による救出運動も高まり、欧米で大規模な抗議デモも起きた。しかし同州の最高裁判所は再審を認めず、1927年8月、2人は電気椅子に送られた。

 時を経て1971年には『死刑台のメロディ』という仏・伊合作映画の題材になる。『ドナドナ』で知られる反戦フォーク歌手ジョーン・バエズが歌った主題歌『勝利への讃歌(Here’s to You)』が当時、よくラジオで流れていたのを覚えている。1977年、マサチューセッツ州知事が「無実だった」と公表し、2人は同州で名誉回復されているが、司法当局は現在も誤審を認めていないという。


■NHKが「飯塚事件」の長編ドキュメント


 さて、日本では「誤審による冤罪で死刑が執行された人はいない(少なくとも戦後においては)」とされてきたが、それは本当だろうか。

 4月23日(土)夜、NHKのBS1が2時間半に及ぶドキュメント『正義の行方〜飯塚事件 30年後の迷宮〜』を放映した。1992年2月、麻生太郎元首相の地盤、福岡県飯塚市の小学校で1年生の女児2人が行方不明になり、甘木市(現・朝倉市)の峠で他殺体となって見つかる。遺体には性的暴行の跡があった。2年後に殺人容疑などで逮捕された久間三千年(みちとし)元死刑囚は容疑を否認したが、2006年に最高裁で死刑が確定。2008年に絞首刑が執行され、70歳の生涯を閉じた。絞首の直前まで無実を訴えていたという。執行は判決確定から2年という異例の早さだった。

 番組の主役は、この事件や裁判を詳細に連載している西日本新聞社の元記者たち。逮捕前に、容疑者は久間元死刑囚という情報をスクープしていた。元記者は「判決が確定して安堵した」と語る一方で、捜査や裁判に疑問を持っていた。

 最大の疑問はDNA鑑定である。足利事件の菅家利和さんに対する間違った鑑定が行われたのがちょうどその頃。飯塚事件は同じ技官が同じ方法で鑑定していた。菅家さんは技術が高まってからの再鑑定で無実が証明された。ところが、飯塚事件においては現在、再鑑定のための試料が残されていないという。警察庁科学警察研究所の技官が退職した際に捨てたという説明だ。再鑑定すればあっという間に結果が出るから、それをさせないための嘘なのか。「公務員にあるまじき」と批判する押田茂實氏(法医学者・日本大学名誉教授)は、「おそらく(そういった事情が)あるのでしょう」と推測していた。根拠はないが筆者も同感だ。

 一方、久間元死刑囚の再審請求が間に合わないうちに死刑が執行されたことに、弁護士たちは罪悪感を持っていた。番組では顔は伏せられた久間元死刑囚の妻がインタビューに応じ、警察の説明内容と実際の様子が食い違っていたことを証言していた。年数が経ったせいか、彼女が淡々と当時を振り返る様子が印象的だった。

 西日本新聞の元編集局長は「警察も正義。弁護士も正義」と話した。捜査を担当した福岡県警の元捜査一課長や特捜班長らのインタビューからは、彼らが無実と感じながら強引に証拠を捏造したという印象は薄い。「久間三千年が真犯人に間違いない」との信念、社会正義で仕事を遂行したのだろう。有罪の有力証拠は大きく4つあるとされた。とはいえ、元捜査一課長もひとつひとつの証拠がぜい弱であることは認めている。

 死刑執行の翌年に起こされた第一次再審請求は、昨年4月、最高裁で却下された。たった6枚の文面で「犯人(筆者注:真犯人のこと)と事件本人(同:久間元死刑囚)の鑑定が一致したことを除いたその余の情況事実を総合的した場合であっても事件本人が犯人であることに合理的疑いを越えた高度な立証がされており……」とした。逮捕や有罪判決の最大の論拠だったDNA鑑定が危ういことは裁判官も認めている。大きな柱が崩れても「総合的に判断して」などのレトリックで押し切る判決文を時折見かけるが、これもそうなのか。

 昨年7月、妻や弁護団は第二次再審請求を申し立てた。「死後再審」を目指す戦いは続く。


■「東大を首席で卒業した」と話す巖さん


 ひで子さんは4月16日、浜松市復興記念会館で行われた恒例の「袴田事件がわかる会」(袴田さん支援クラブ主催)の挨拶で、「私は来たかったんですけど(集会から)締め出しを食らっていましてね」と笑わせた。

 弟の最近の様子について、「巖は4月から少し変わりました。『東大を首席で出た』って言うんですよ。それで学校巡りしているんです。今まで乗らなかった方の車にも平気で乗ったりする。聞き分けがよくなりました。それまでは私の言うことなんか聞かなかった。でも最近は『誰誰が(マンションの)下で待っているよ』と言うと、『あっ、そう』と降りていって素直に車に乗るんです。ものすごく変わってね。元に戻ることもありますが、いい傾向です。完全に治ることはなくてもこのくらいでいいかと思っています。再審もいい方向へ行っていると思います。私も100歳くらいまでは大丈夫だと思います。頑張りますのでよろしく」と朗らかに語った。

 オミクロン株の感染を用心した周囲の助言で、自宅近くの集会への出席も控えていたひで子さんが大勢の前に登場するのは久しぶりのことだった。参加者たちも安心した様子で拍手していた。

 この日の講師役のゲストは、東京拘置所で巖さんを見守っていた元刑務官で、現在は作家の坂本敏夫氏だった。「出会った時、無実だと感じました」と語った講演内容については、機を見て紹介したい。

 ひで子さんは後日「巖は拘置所でおかしくなってから、『東大を首席で出た』とか言ってましたね。『まだ大学に俺の席があるはずだ』なんて言うんです。久しぶりに言い出したから、またかと思っていました」と話してくれた。

 巖さんが「東大を出た」「大学に席がある」などと言い出した後、「見守り隊」の猪野待子さんに連れられて静岡大学や静岡県内の私立大学を見学したそうだ。

 再び「大学に席がある」などと言い出した彼が一体何を考えているのかは想像もつかない。中学校を出てから就職して働いた後、プロボクサーの道を進んだ巖さん。ひょっとすると、自分がとんでもない冤罪に巻き込まれたのは、大学などで受けられる教養が足りなかったからだと思うようになったのだろうか?


■フジヤマのトビウオ


 ここで、ひで子さん・巖さん姉弟の生い立ちを振り返る。

 ひで子さんは1933(昭和8)年の2月、巖さんは1936(昭和11)年3月、浜松市街地の西側に位置する雄踏(ゆうとう)で、木材会社に勤める父・庄市さん、母・ともさんの間に生まれた。ひで子さんは6人兄弟の5番目の三女、巖さんは三男で末っ子だ。ひで子さんは朝日が昇る頃に生まれたことから、庄市さんは「縁起がいい」と喜び、戸籍は「日が出る」の意味から「ひで子」として届けられている。雄踏は浜名湖の南東に位置し、東海道新幹線からもすぐだ。ひで子さんは学校へ通う頃から、名子役から後に『二十四の瞳』などに主演した大女優・高峰秀子(1924〜2010)の愛称と同じ「デコちゃん」と呼ばれていた。母からは頼られ、バスで行く遠方の買い物なども頼まれた。子供たちの遊びに入っていけない内気な級友の手を取って引っ張ってきて参加させるような、子供の頃から「姉御肌」だった。末の2人は仲が良く、ひで子さんは弟に学校の勉強を教えてやったりした。幼い巖さんは、浜名湖畔で遊ぶ時はもちろん、どこへ行くにも、子供の頃からしっかり者で「頼れる姉」ひで子さんにくっついて遊んだ。

 休みの日は一家で浜名湖に繰り出し、船大工の腕もある庄市さんが作った木の小舟を湖面に浮かべた。「兄たちが沖で魚を釣り、私と巖はアサリを獲ったりした。ボラなんかがおいしかった」とひで子さん。自給自足ができ、貧乏だったが栄養不足にはならなかった。夏休みには浜名湖で遠泳をやった。小学生になった巖さんは、兄の茂治さんや實さんに必死についていき、泳力も身に付ける。

 浜松市は日本水泳界の伝説的英雄を輩出している。「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進(1928〜2008)だ。ひで子さんや巖さんが最初に通った雄踏小学校の出身で、浜名湖の遠泳で鍛えた古橋は中学校から本領を発揮し、卓越した泳力で有名になる。しかし、戦時色が強まり水泳競技を中断。学徒動員され砲弾工場で働いていた時に手の指を切断するが、戦後、日本大学に進学し競技復帰すると破格の活躍を見せる。1948(昭和23)年のロサンゼルス五輪には敗戦国日本は参加できなかったが、同時に開催された日本選手権で古橋は、400、800、1500メートルの3種目で、金メダリストを上回る世界記録を打ち立てた。後に参加を認められた全米選手権では、米国選手を破って次々と世界記録を残し、米国の新聞が「フジヤマのトビウオ」と命名した。体格に勝る米国選手に勝つ勇姿は、敗戦に沈む日本人を勇気づけた。日本が参加を許された1952(昭和27)年のヘルシンキオリンピックでは全盛期を過ぎてメダルには届かず、NHKのアナウンサーは涙声で「古橋を責めないでください」と中継した。引退後は母校・日本大学の教授や日本体育協会の会長、国際水泳連盟副会長などスポーツ界の要職を歴任、晩年は日本オリンピック委員会(JOC)の会長も務め、イタリアの世界選手権を視察中に急死した。浜松市には立派な「古橋廣之進記念浜松市総合水泳場」が建つ。

 ひで子さんは「古橋さんは長兄の茂治と雄踏小学校の同級生でした。まだ有名になる前、学校に来たのを見ましたよ」と振り返る。


■「オール優」の通知表


 ひで子さんが幼い弟のことでよく覚えているのは、1941(昭和16)年に雄踏幼稚園で開かれた学芸会の様子だ。「とうちゃんだい」というタイトルで、園児が父親の格好をして踊るという出し物で、幼い巖さんが抜擢されて舞台に立った。大人の服装にぶかぶかの革靴を履き、ステッキを持って舞台を歩き回った。その滑稽で真剣な姿が可愛らしく、家族や父兄たちは大笑いになった。

「あの時の巖は本当に可愛かったね」

 自らも幼いはずの頃に見ていたひで子さんは、奥の部屋でテレビを見る巖さんを見やりながら今も目を細めるのだ。

 しかし、その年の12月8日、帝国海軍はハワイの真珠湾の米艦隊を急襲、日本は一挙に戦時体制に突入して行く。勉強もスポーツも万能でクラスメイトから一目置かれたひで子さんは、よく学級委員長に選ばれていた。ある時、浜松の甥が来てひで子さんが子供時代の通信簿や役所の辞令など持ってきた。通知表は「オール優」だ。ひで子さんは今も小学校時代の通知表を持っている。

「母が自慢したくて取っていたみたい」と打ち明けた。

 負けん気も強かったひで子さん。「何かやられたら黙っちゃいない。6年生のクラス替えの直後、隣の女の子が授業中につねってきたので、その子がやめるまでつねり返しましたよ。私はそんな性格でしたが、上の兄の實がものすごくおとなしいもので、周囲からはよく『實兄さんとデコちゃんの性格が逆ならよかったのに』なんて言われていましたよ」と笑う。


■空襲と大地震


 家族愛に包まれ、すくすくと育つ姉と弟。しかし、戦局は悪化する一方だった。陸軍浜松飛行場や中島飛行機などの軍需工場もあった浜松市は、1944(昭和19)年11月の空襲を皮切りに、1945(昭和20)年2月から7月までに合計6回にわたる激しい攻撃を受け、終戦までに当時、人口17万人弱の浜松市で約4000人近くが落命している。米国の戦略爆撃機B-29はもちろん、最後の7月の攻撃では沖合の米英艦隊からの艦砲射撃を受けている。

 最初の空襲で「工場や海に近い家は危険」だと感じた袴田一家は、母親の実家のあった浜北町(現・浜松市浜北町)の中瀬というところの親類宅に身を寄せた。

「狭い家に大勢で転がり込んだものだから先方も大変。私たちは遠慮がちに小さくなっていましたよ」

 次第に食糧も不足する。「疎開後は雄踏のように貝や魚も獲れないし、米の配給も少ない。おなかがすいたらカボチャかサツマイモしかなかった。そのせいで私は今もカボチャとサツマイモだけは食べる気しないんですよ」と振り返る。どうしても狭くなり、一家での「居候同居」が無理になる。兄の茂治さんと實さんは残ったが、両親とひで子さん、巖さん、二女の5人は、父の弟の家があった浜名郡赤佐村(現・浜松市浜北区於呂)に長屋の一角を借りて移った。

 さらに浜松市は天災に襲われる。12月7日の昼過ぎに発生した「昭和東南海地震」だ。紀伊半島東部の熊野灘を震源とし三重県の津市や四日市市などで震度6、名古屋市や浜松市などは震度5だった。津波も発生し1223人が死亡したとされる。だが当時、大地震があったことは軍から極秘とされ、市民は口外を厳重に禁じられた。東海地方で多くの軍事施設が壊滅的被害を受けていたことを米国に隠すためだった。

 頻発する空襲で防空壕生活になる。しかし、体を動かすことが大好きな少女だったひで子さんは、狭い防空壕が嫌でたまらない。ある時、母の制止を振り切って自宅に戻って1人で寝ていた。

「朝になると箪笥に囲まれていたんですよ。寝ている間に母がタンスを移動させて、地震で屋根が落ちてきても大丈夫なようにしてくれていたんですね」


■持ち出したメジロの鳥籠


 1945(昭和20)年8月15日。

「昭和天皇の玉音放送は学校から帰って、家でラジオを1人で聞いていた気がする。ザアザアという雑音だらけでよく聞き取れなかった」

 母ともさんは「日本は神風が吹くから絶対に負けない」と信じていたそうだ。「『撃ちてし止まん』と言われていた時代でしたからね」とひで子さん。

 1946(昭和21)年、昭和天皇は「人間宣言」をして全国を巡る。

「浜松にも来られた。中学1年の頃だったかな。でも、大人たちからは『天皇陛下を見ると目が潰れる』と言われた。畔に並んで待っていたけど、やっぱり目を開けて見ましたよ。陛下の御様子は忘れましたけどね」

 戦後、新たな学校制度が施行され、姉と弟は浜名郡赤佐村立赤佐中学へ入学した。ひで子さんが3年生だったある日、運動場で屋外映画鑑賞会があった。生徒たちが筵(むしろ)を敷いて娯楽映画を楽しんでいた時のこと。校庭の木に登っていた子が、「火事だーっ」と叫んだ。見ると住んでいた家の方向だった。「大変だ、巖、帰るよ」とひで子さんは弟の手を引っ張って走って帰宅した。家の3軒ほど隣の自転車屋が燃え盛っていた。「延焼するかもしれない」と、ひで子さんは箪笥などから大事なものを引っ張り出して持ち出した。巖少年はおろおろしていたが、意を決したように家に飛び込むと、鳥籠と炒り鍋を持って飛び出してきた。鍋には炒った落花生が入っていた。翌日に予定されていた運動会に持っていくおやつだった。

 幸い、死者もけが人もなかった。鳥籠にはメジロがいた。

「巖はメジロと一緒に芋畑にしゃがみ込んで怖がって震えていました。巖が大事に飼っていたメジロは友達がくれたもので、サツマイモをふかして餌にしてやったり。まあ、子供の頃から優しい性格の弟でしたね」

 しかし、火事の類焼でせっかく庄市さんが買い取っていた自宅は消失し、結局、一家は中瀬の狭い家に戻るしかなかった。体が弱い庄市さんは寝込むことが多く、基本的に家庭は裕福ではない。長男の茂治さんは働き出し、次男の實さんは養子に出る。学業優秀だったひで子さんだが、「高校とか上の学校に進学したいなんてとても言い出せませんでしたね」。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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