岡本公三 テルアビブ空港乱射50年 本人が手記で明かした「日本を出てから事件を起こすまで」

岡本公三 テルアビブ空港乱射50年 本人が手記で明かした「日本を出てから事件を起こすまで」

岡本公三容疑者=国際手配中=(2000年10月15日)

 1972年5月30日、イスラエルで日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件が起きた。今年で事件発生から50年を迎えることになる。(敬称略)

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 テルアビブのロッド国際空港(現:ベン・グリオン国際空港)で、奥平剛士(1945〜1972)、安田安之(1947?〜1972)、岡本公三(74)が自動小銃を乱射した。26人が死亡し、73人が重軽傷。当時、奥平は27歳。安田と岡本は25歳だった。

 岡本は拘束されたが、奥平と安田は死亡した。「奥平は射殺され、安田は手榴弾で自爆した」という説もあるが、未だに真相は明らかになっていない。

 当時、日本での学生運動は下火となっていた。だが、退潮と反比例するかのように、行動は過激なものとなっていた。

 無差別テロの主犯である3人も、奥平と安田が京都大学、岡本が鹿児島大学に入学し、在学中から学生運動に関わっていた。

 ちなみに、テルアビブ空港乱射事件は「日本赤軍メンバー」による犯行と言われているが、これは厳密に言えば正しくない。

 犯行当時、「日本赤軍」という名称は使われておらず、3人はパレスチナ解放人民戦線(PFLP)の国際義勇兵という位置づけだった。「日本赤軍」と自称するようになったのは1974年以降のことだ。

 ただ1人、生き残った岡本は、イスラエルの裁判で終身刑が確定した。空港近くの刑務所に服役していたが、1985年にイスラエルとPFLPとの捕虜交換が成立して釈放された。


■平凡な大学生


 岡本はイスラエルでの拷問が原因で、統合失調症を罹患したことが明らかになっている。これまでに何度か日本メディアの取材に応じており、現在はレバノンで生活している。

 話を元に戻す。事件から3年後、岡本は獄中手記を週刊新潮に寄せた。1975年8月28日号に、特別記事「テルアビブまでの旅」として掲載された。

 原文は11ページという週刊誌では異例の“大作”だが、事件の大きさを考えれば当然だろう。この記事では、できる限り内容を詳しく紹介したい。

 岡本たち3人はロッド国際空港で、何の罪もない一般市民に向かって、自動小銃を乱射した。現在の軍事用語を使えば、“ソフトターゲット”を標的にしたテロ行為だと言える。

 岡本は鹿児島大学の農学部に進み、《植物生理の研究室にマジメに通》っていた。平凡な大学生が狂気のテロリストに変貌した理由は、次兄の影響が大きかったようだ。

 次兄の岡本武(1945〜1988?)は京都大学農学部に進み、1968年、東大安田講堂事件に参加。その後、仲間と共に1970年、よど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命した。

 ちなみに長兄も京都大学に入学し、羽田闘争などの学生運動に関わった。京大、京大、鹿児島大という3兄弟は、「できのいい兄弟」として近所では有名だったという。


■次兄からの電話


 それでは、手記の引用を始めよう。鹿児島市内の《中村アパート》に次兄から電話がかかってきた場面からだ。

《電話の呼び出しを受けた。「博多にすぐ出て来い」という。金をかき集め、汽車に飛び乗る感じで直行する。博多では“赤軍派中央軍”主催の集会が行われたのだが、のぞき見る感じで参加してみたけれど、お粗末だったことは否定できない》

 岡本は“赤軍派”の集会に不満を持ったようだ。他にも《名前のわりに中身のない集会》とこき下ろしている。

 集会が終わると、次兄の武が「ええヤツや」と、坂東国男(75)を紹介した。坂東は連合赤軍に加わり、1972年のあさま山荘事件で逮捕された。

 1975年、日本赤軍はクアラルンプール事件を起こす。マレーシアのクアラルンプールにあったアメリカとスウェーデンの大使館を襲撃、占拠し、52人を人質に取った。

 日本赤軍は坂東を含む7人の釈放を要求。日本政府はそれを受け入れ、坂東ら日本赤軍に参加の意思がある5人がリビアに出国した。その後、坂東は中東を拠点に、ヨーロッパや中国に入国した形跡が確認されている。現在の所在地や生死は不明だ。


■よど号事件が勃発


 手記に戻ろう。坂東を紹介された後、岡本は次兄と翌朝まで深夜喫茶で話し込んだという。

《次兄の話が私に与えた影響は大きかったことを記憶している。カンタンにまとめれば、「左翼運動を一国的なものから世界性へつなぐために、まず世界赤軍の建設をすべきであること。世界赤軍が一国内革命運動に果たす役割は“前段階武装蜂起”であり、“前鋒”は玉砕覚悟である。二・二六(事件)をイメージすれば十分だ」ということだった》

 岡本は《「軍」という聞きなれぬ言葉にビックリし、「戦争」といわれてもハッキリしたイメージは出て来なかった》と率直に振り返っている。

 だが、《兄弟という肉親的親近感によって「赤軍化」していったのが現実である》という。

 世界赤軍を建設するにしても、とにかく金がない。岡本は鹿児島県の徳之島で土木工事に従事することを決めた。

 1970年3月、よど号ハイジャック事件が起き、次兄が北朝鮮に亡命した。だが、岡本は《南海の孤島》で働いていたため、《ハイジャックがそんなに現実性をもって感じられたのではなく》、ひたすら労働に従事していたという。


■三島事件の衝撃


 同年4月、鹿児島大学は学内への機動隊導入を決定。少なくとも表面的には、学生運動が“沈静化”した。岡本は9月から大学に復帰し、再び真面目に通うようになった。

 激動の時代という形容にふさわしく、11月には作家の三島由紀夫(1925〜1970)が「楯の会」メンバーの4人と共に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を“占拠”。自衛隊員にクーデターを呼びかけた後、割腹自殺で死亡した。

 この事件は、岡本に衝撃を与えたようだ。自分自身は“極左”でありながら、三島への共感も読み取れる一文を残している。

《三島由紀夫の事件が起きた。彼の美学からすれば、三島はなぜ独りで朝日の昇る海をみつめながら腹を切らなかったのか。が、骨のない左翼人に対する警告の意味で、三島事件は前向きに受け止められるべきである。私はよく思うのだが、あらゆる意味での「日本らしさ」の欠如に対して、危機感を感じることのできない自称左翼人と、その限界性はあれ、危機感を覚え、採算を度外視した行動をとることができた三島由紀夫と、どちらが「左翼的」なのか》

 翌1971年、集会に参加するよう指示され、岡本は上京した。だが、やはり内容には幻滅したと記している。


■ベイルートからの使者


 この頃、テルアビブ空港乱射事件で死亡した奥平と、その偽装結婚の相手だった重信房子(76)が、ベイルートに旅立っていったという。

 重信は1971年、「国際根拠地論」を打ち立て、パレスチナに拠点を作ると決断。後に日本赤軍の最高幹部となり、80年代にハイジャック事件や誘拐事件を引き起こした。

 2000年、大阪市西成区のマンションに潜伏していたのが発覚。重信は旅券法違反などで大阪府警に逮捕された。2001年には獄中で日本赤軍解散を発表している。

 2010年に懲役20年の刑が確定。そして今年の5月28日、重信は刑期満了を迎えた。テルアビブ空港乱射事件も、あさま山荘事件も、今年で50年目を迎える。

 重信の刑期の満了日が28日、乱射事件が30日と、日付は極めて近接している。事件から50年という“節目”に出所するということと併せ、ある種の奇縁を感じる人は多いだろう。

 時計の針を1971年に戻す。《夏休みの終わりごろ》ベイルートからの手紙を持った使者が岡本の元を訪れた。すぐに日本を出ることを決めたが、《あまりアッサリ決めたので、使者のほうが驚いた様子》だったという。


■あさま山荘事件の発生


《一九七二年一月下旬、京都からの使者が、「訓練された赤軍兵士」との接触手続のためにやって来た。それから数日を経て、「訓練された赤軍兵士」自身が鹿児島に現れた。彼らから旅行に関する指示、旅費などを受け取った。浅間山荘事件の余波も考えて(註=この時にはまだ、連合赤軍の凄惨なリンチ事件は発覚していない)、すぐ飛び立つことにした》

 記事中にある《連合赤軍の凄惨なリンチ事件》とは、1971年12月に起きた山岳ベース事件を指す。群馬県の山中に築いたアジトで、凄惨なリンチ事件が起きた。

 29人のうち12人が死亡。事件が発覚すると、多くの日本人が衝撃を受けた。そして警察の包囲網から逃走していた一部メンバーが引き起こしたのが、あさま山荘事件だった。

 一方の岡本は、羽田からバンクーバー、トロント、モントリオールと移動を続けていた。だが“旅”の内容には、かなりの不満を覚えていたようだ。

《一刻も早くベイルートに着きたかった。日本と外国の習慣の違いもあるのだろうが、ホテルも飛行機もサービスが良いとはいえなかった。外国人の目には、私は小学生程度のガキに見えるらしく、その結果、相当ナメられたようである》


■“軍事訓練”の開始


 不満だらけの中、飛行機を乗り継ぐ岡本は、ハイジャックの可能性について研究していた。今ではベイルートに到着した際、奥平に報告書を提出したことが明らかになっている。

 だが、ニューヨークで会った女性キャビンアテンダント(註:原文はスチュワーデス)の体格があまりにも立派だったことには、強い衝撃を受けたようだ。

《この女を相手にするのでは木刀が必要だとホントに思った。で、私の出した結論は(ハイジャックは)「不能」──》

 やっとの思いでベイルートに到着すると、待っていたのは山岳ベース事件を報じる新聞だった。

《ベイルートに着いて、何といってもいちばん驚いたのは、連合赤軍のリンチ事件を新聞で知ったことである。奥平夫人の重信房子さんとも、このことで意見を述べ合ったが、結局、何が何だかわからなかった》

 ベイルートに10日間滞在すると、いよいよ軍事訓練が始まった。

《念願の軍事訓練の場所──バルベックへ移ることになった。バルベックはベイルートの北方にある古代遺跡で有名なところだが、夜の最終便のサービス・カー(註=乗合自動車)で奥平同志と二人、小雨の中を向かった》


■単調な生活


《訓練所で最初に手にした銃は、チェコ製レボルバー「グラント」だった。ポートサイド(別名カール・グスタフ)も見せてもらう。次の日、ロシア製クラシニコフ、その翌日が、軽機ブレン》

 記事中の《クラシニコフ》は「AK-47」が正式名称であり、現在では「カラシニコフ」と表記されることが多い。

《バルベックでの生活は単調だった。朝食前と就寝前、一日に二回、一時間の体力増強体操をやるだけ。足の筋肉体操百回。腹筋七十回。背筋七十回。腕立て伏せ七十回。軽い側筋運動百回。腰の回転運動五十回。腕の屈伸運動百回。ポートサイドをバーベル代わりに使って腕力増強体操。逆立ちによって全体的均一化を図ったりした》

《体操が終わると茶を飲む。朝、ヤカンに入れた茶の葉は、一日中使った。奥平同志は、これが土地の習慣だといったが、味はまずかった。茶を飲み終わると朝食。料理は安田同志が作った。目玉焼きが得意で、私の記憶では、卵を食わなかった日はなかった。それに、ホブスというパン。ゼイトン(オリーブの実の塩漬け)。食後の後片付けは私の役目だった》


■射撃練習


 単調だった生活に変化が起きたのは、岡本の記憶によると《四月十六日》以降だったという。

《三日ほど過ぎて、奥平同志が帰ってくる。帰ってくるなり、何もいわずにクラシニコフを握りしめて、しばらく考えごとをしている。その後、安田同志と二人で別室で話し込む。二日後、また奥平同志が出かけていくことになった。数日後に帰ってきたけれども、私は、まだ、何の話も聞いてない》

《翌日から、丸岡同志を加えて四名でクラシニコフの射撃練習を開始した。一人三発ずつ、四日間練習したように思う。丸岡同志の射撃のウデは、私より優れていた。射撃の水準は、四人全員が合格点をもらえた》

 丸岡同志とは、丸岡修(1950〜2011)のことだ。テルアビブ空港乱射事件には参加せず、1973年のドバイ日航機ハイジャック事件などに関わった。

 1987年に東京都内で逮捕。2000年に無期懲役が確定し、2011年に八王子医療刑務所で死去した。死因は心臓病だったという。


■岡本の涙と重信の寿司


 5月に入り、岡本は《ロッド空港作戦》の話を聞かされた。

《ベイルートの待ち合わせの場所にPFLPの男がやってきた。私を含めて四人の同志と会った。そのPFLPの男の話では、作戦はどうしても三人でなければダメだという。この時、私の参加が正式に決定した。私は奥平同志と二人だけになった時、一時間ほど、涙を流させてもらった。ふん切りがつくと、あとは整理を自分なりにやるだけのことであり、感傷的なものに浸ることは許されない》

 岡本、奥平、安田の3人は準備を開始した。そこに重信房子が“陣中見舞い”に来たという。

《奥平夫人の重信房子さんが、スシを作って持ってきてくれた。これが最後の日本料理になった。「オレたちがやったら、あんたも殺(や)られるぜ」と脅したら、重信房子さんは「ピストルの撃ち方ぐらい知ってるわよ」と居直ったことを覚えている。奥平同志は「それでも命中させる方法を知らないと役に立たない」といいたそうな顔をしていたけれども、面白い夫婦だと感じた》

 岡本と奥平はベイルートから出国すると、ローマに向かった。鉄道でドイツに入ると、安田と合流した。全て計画通りの行動だった。


■事件前日の夜


 イタリアのミラノへ向かうため、スイス経由の特急に乗った。安田が「花札をやろう」と提案し、3人で始めたという。

《スイスの風景はすばらしい。その時、ふと思ったのは、スイスで革命戦争が起きるようになれば、世界革命もすぐそこまできていることになるだろう、と。しかし、物騒なことを簡単に思い浮かべる自分を見出して苦笑する》

 ミラノから再びローマに入った。5月30日が“Xデー”。その前日にあたる29日の夜、岡本はイタリア人娼婦と関係を持った。《私は女を買うのは、この時が最初であった》と振り返っている。

 手記では顛末が赤裸々に語られているが、女性の“接客態度”は相当にひどかったようだ。終わってからの部分だけを引用しよう。

《女に「ジャパニーズガール・イズ・グッド」と切り返すことでウップンを晴らす以外になかった。私の結論は、女を買うのは一回体験すれば十分で、また、その体験も必ずしも必要なものではあるまい。味気ない、費用のかかった時間を終え、トレビの泉に行ったように記憶している》


■Xデーの機内食


 30日の朝、岡本は奥平のトランクを開け、AK-47、弾倉4個、手榴弾2個を受け取った。

《自分の装備を点検し、弾を薬室に送り込み、セレクトレバーを安全装置にする。それから奥平同志と食事をする。「明日の今ごろは、桜島の上空だな」と、奥平同志に言われた言葉だけが記憶に残っている。水ブロで体を洗い、サッパリする》

 ローマ空港でエールフランスのB727に搭乗した。機内食をとりながら、岡本は切腹について考えていたという。

《「神風連」(註=明治維新の直後、熊本で起こった壮士の反乱)の生き残りが、切腹して自害する時、ある男は食うだけ食ってアッサリ腹を切った。ある男は、あとに汚物が散乱して見苦しいと何も食べなかった。人それぞれ哲学があり、何が優れているか、一概にいえない。われわれ三名は度胸を据えていたし、それぞれ自分の思いどおりに最後の食事をすますことができた》

 トイレに入った時は、日本海海戦の逸話を思い出したとも記している。

《戦闘を前にして、連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、ボケッとしたまま旗艦三笠の甲板に立っていたという。心配した参謀総長が司令官のキンタマをそっと握ってみたらダラリとぶら下がったままだったそうである。そして、参謀総長は完全に満足して自分の持場に引き返したという。……その時の私のキンタマは、縮みこんでおり、ダラリとさせるには少々、苦労したものである》


■見上げた星空


 座席に戻ると、安田が「長かったな」と声を掛けてきて、岡本は《ニヤリとした》という。

《飛行機が停止し、安全ベルトを外す。そして三人そろってタラップを降りる。バスに乗りこむまでに少々の時があった。その時、星空を見上げたことが記憶に残っている。そして今は、亡くなった人々が、天上の星として輝いてくれることを願うだけである》

 5月30日午後10時、岡本、奥平、安田の3人は、税関で荷物からAK-47と手榴弾を取り出した。そして約300人いたとされる到着客、空港係官などに向かって小銃を乱射し、手榴弾を投げた。

 手記で岡本は、銃撃戦については一切、書かなかった。記事の冒頭と末尾で触れられたのは、多くの宗教書、特に聖書を熱心に読んでいるということだった。

デイリー新潮編集部

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