「なぜ国産の戦闘機を作れないんですか」技術者の涙が語る、日本の国防の大問題

日本の国防の大問題を識者が指摘 国産の戦闘機を作れず技術者が涙の陳情をしたことも

記事まとめ

  • 岸田文雄首相の発言を受け、政府・与党は防衛費の増額に向けた調整に着手した
  • しかし、日本は周辺の状況にかかわらず、一定額以上の防衛費は出さないという
  • これは「馬の前に馬車をつなぐ」ような防衛体制であると識者が指摘している

「なぜ国産の戦闘機を作れないんですか」技術者の涙が語る、日本の国防の大問題

 日米首脳会談における岸田首相の発言を受けて、政府・与党は防衛費の増額に向けた調整に着手した。与野党からは「増額ありきではなく、必要額を積み上げた結果としての増額に」との声も出ている。では、日本にとって本当に必要な防衛費とは具体的にどのようなものなのか。それに対して現状はどうなっているのか。日米関係の最深部まで知る外交官、岡本行夫氏が書き遺した渾身の手記『危機の外交 岡本行夫自伝』から知られざるエピソードを紹介する。

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 日本にとって必要な防衛力の規模はいったいどのくらいなのか? 本来防衛力というのは周囲の脅威のレベルに対応して決まるものである。これが「所要防衛力」の考え方だ。しかし、1970年代、増勢を続けるソ連の軍事力に対応して日本が自分の防衛力を増やすことはとても無理だった。その結果、日本は76年に「基盤的防衛力」という考えに転換した。「わが国自らが、力の空白となって侵略を招来することのないように、必要最小限の防衛力を保持する」というコンセプトである。

 要するに、日本は周辺の状況がどうなろうと、一定額以上の防衛費は出さないという財政の論理だ。今日の「多次元統合防衛力」も、いろいろと修飾句はついているが、この「基盤的防衛力」をどのように運用するかというだけのことである。この予算で可能になる範囲の防衛力で対応できるレベルに周辺の脅威を定義するという「馬の前に馬車をつなぐ」ような防衛体制である。

 例えば潜水艦の数は基盤防衛力の下で16隻と定められた。宗谷、津軽、対馬の3海峡をチョークポイントとし、ここの通航をコントロールするためには1海峡あたり4隻のチームを三つ、さらに予備の1チーム、計16隻の潜水艦が必要という考え方だ。今や外からの脅威はロシアではなく、中国から来る。正面はオホーツクではなく東シナ海だ。この海に面する沖縄列島には四つの国際パッセージがある。所要防衛力の考えからいけばこのため新たに4チーム、16隻の潜水艦隊が必要になる。しかし、基盤的防衛力の考えでは周囲の状況判断を考えに入れないから16隻のまま。これで遥かに広がった防衛海域を薄い戦力でカバーしなければならないことになる。

 潜水艦の耐用年数を延長することによって16隻を22隻体制にするという苦肉の策が採られているが予算は削られたままである。日本は原子力潜水艦こそ持てないが、世界最高水準のディーゼル潜水艦を建造する能力がある。この隻数を増やし世界一の潜水艦大国になることこそが、国家としての防衛戦略であるべきなのだが。


■GNP1%


 1976年に三木内閣は「日本の防衛費はGNPの1%をめどとする」と制限した。防衛費の増加を止めようとする財政当局の立場が通ったのだ。この制限はようやく10年後の87年にはずされた。この年の防衛費がどうやってもGNP1%を超えてしまうからだった。

 元々「GNP1%」は、馬鹿げた制限であった。この制限を決めた76年の日本の経済成長率(名目)は12.4%だった。石油ショックが起こらずそのまま日本経済が成長していれば、10年後の日本のGNPは76年より65%も大きかった計算になるから、防衛費も65%増えてよかったという理屈になる。

 つまり、経済成長率が低ければ、少ない防衛予算でもGNP1%を超えてしまうから日本は周辺諸国に危険を与える軍事国家、経済成長率が高ければ防衛予算が大増加しても平和国家、ということになる。防衛予算の上限が景気によって決まる。おかしな話である。この1%枠撤廃は防衛庁と外務省の悲願だった。

 日本の防衛政策について最も聡明な意見を持っていたのは故椎名素夫衆議院議員であった。アメリカの安保関係者が最も尊敬していた日本の政治家であった。椎名さんはGNP1%枠に代えて「総額明示方式」という方式を考えた。まず5年間の防衛計画を決め、それを実現するために必要な予算を毎年決めていくというやり方で、中曽根総理と後藤田官房長官の了承をとって閣議決定された。これで、とにかく形式的にはGNPとのリンケージははずれることになった。僕は毎日のように椎名議員の自宅に通い、彼の指示を受けて、関係各省との調整に走り回った。案の定、ソ連と中国はこの決定に対し、日本が「軍事大国化への大きな一歩を踏み出した」と非難した。

■「なぜ技術力のある日本が国産の戦闘機を作ってはいけないんですか」


 純軍事的な面でのアメリカの日本への態度は立派である。制服の人たちの、日本防衛へのコミットメントの揺るぎを感じたことはない。ところがワシントンの背広組が同盟関係にアメリカ産業界の利益をからませてくると問題は別の様相を帯びる。FSXつまり次期支援戦闘機選定が典型だ。

 湾岸戦争を除けば、同盟の運営を巡る二国間の最も先鋭な対立であった。

 航空自衛隊と三菱重工の技術者たちは、当然の気持として、どうしても自前の戦闘機を作りたかった。零戦の技術を継承した技術者たちの遺産を次の時代に引き継ぐ最後の機会でもあった。

 こうした気持ちは痛いほど分かったが、僕たち外務省は共同開発の考えであった。

 日本は武器が輸出できないから自衛隊用にせいぜい100〜150機くらいを生産するのが精一杯である。コスト的にはバカ高いモノになる。1機数百億円と試算されていた。もちろんアメリカの戦闘機を丸々買ってくれば、うんと安上がりだ。ベストセラー戦闘機のゼネラルダイナミックス(GD)社製F-16は世界中に3千機以上売れているので、1機あたり50億円程度であった。日米間の相互運用性も確保される。ただ、F-16をそのまま買ったのでは日本に技術は残らない。なんとか日本を主体とする共同開発で折り合えないか。

 三菱重工名古屋製作所の増田逸郎技師長が大切に風呂敷に包んだFSXの模型を持ってきて、国産化を訴えた。僕もこれには心を動かされた。「ブラジルやイスラエルだって国産の戦闘機を作っている。なぜ技術力のある日本が国産の戦闘機を作ってはいけないんですか」。僕は陳情に来たエンジニアたちに日米安保体制とか相互運用性とかいろいろ説得してみたが、涙を流して懇願する技師長たちの言い分には大いに同情した。アメリカはF-16かF-18をそのまま買えと強引であった。

 結局「共同開発」ということになり、アメリカ6、日本4の比率で仕事を分け合う形でようやく合意が成立した。

 アメリカの既存機をベースに日本の技術を導入し、87年6月28日の栗原祐幸(ゆうこう)防衛庁長官とキャスパー・ワインバーガー国防長官との会談で日本主導で開発を行うことに合意されたのである。この時、僕は栗原さんという人の気合いに感心した。通常、日本人が通訳を使って会談する場合、相手方は日本語を聞いても分からないから、通訳が英語に直す部分になると真面目に聞く。最初の栗原さんとの出会いで、ワインバーガー長官はうっかりと、栗原さんが日本語でしゃべっている時に、隣の部下と話を始めてしまったのである。栗原さんは発言を止め、ワインバーガー長官を見据えた。慌てて視線を栗原さんに戻した長官に、栗原さんはかんで含めるように自分の日本語の発言を聞かせたのである。発言者は自分、通訳は補助、ということを理解させた後の栗原・ワインバーガーの関係は極めて親密なものになり、88年5月には栗原さんの地元を訪ねてワインバーガー長官は伊豆にまで訪問した。おかげで僕も同行し、露天風呂で二人の長官と一緒に温泉につからせてもらって、いい気分であった。


■今、再び日米の対立案件に


 日本は、開発経費1650億円全額を負担し、日本が独自に開発できるところを譲って、F-16をベースとする「共同開発」まで歩み寄ったが、アメリカ議会はこの経緯を無視して、日本がアメリカの戦闘機製造技術を盗もうとしていると日本を強く批判した。「自動車に続いて虎の子の航空機産業まで日本に盗まれるのか!」。アメリカは開発段階だけでなく、生産段階でまで40%のワークシェアを強硬に主張し、日本がそれを呑んだ後は、フライトコントロールのためのソースコードは供与しないと言い出した。一方、日本側の技術はアメリカの要求があれば無条件で引き渡せ、という話であった。アメリカ議会で、「日本に技術を渡すな」の大合唱が、バード、ダンフォース、ヘルムズ上院議員などを筆頭に起こり、日本はずるくアンフェアだとの議論がまたもや起こった。

 こうした強硬な要求は当時の議会の日米経済摩擦に対する感情的な攻撃の空気を抜きにしては理解できない。逆に防衛庁には、アメリカが日本の優秀な技術を共同開発の網をかぶせて封じ込めようとしているのではないか、との猜疑心も生まれた。

 結局日本側は押し切られた。情けないが、日本は自前でジェットエンジンを製造することができなかったのである。アメリカと袂を分かって完全に国産開発しようとしても、結局アメリカがエンジンを供給しないと断ってくればお手上げなのだ。アメリカ以外のロールスロイス社製のエンジンを買うということにすればそれはそれで大騒ぎになる。

 機種については、F-16をベースとするかマクダネルダグラス社製のF-18にするかで、防衛庁と民間企業側に論争があったようだが、87年12月18日の安全保障会議でF-16の改造開発が決まった。開発の主担当は三菱重工、協力は川崎重工、富士重工、そしてGDであった。

 その後、開発と生産の条件を米側にさらに有利にしたうえで89年4月に最終的に日米の決着がついた。この問題は日本側に苦々しい思いを残すことになり、2000年にF-2が就役して20年経ち、その後継機を決めなければならなくなった今、再び日米の対立案件になりつつある。

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※『危機の外交 岡本行夫自伝』より一部を抜粋して構成。

岡本行夫(おかもとゆきお)(1945-2020)
1945年、神奈川県出身。一橋大学卒。68年、外務省入省。91年退官、同年岡本アソシエイツを設立。橋本内閣、小泉内閣と2度にわたり首相補佐官を務める。外務省と首相官邸で湾岸戦争、イラク復興、日米安全保障、経済案件などを担当。シリコンバレーでのベンチャーキャピタル運営にも携わる。2011年東日本大震災後に「東北漁業再開支援基金・希望の烽火」を設立、東北漁業の早期回復を支援。MIT国際研究センターシニアフェロー、立命館大学客員教授、東北大学特任教授など教育者としても活躍。国際問題について政府関係機関、企業への助言のほか、国際情勢を分析し、執筆・講演、メディアなどで幅広く活躍。20年4月24日、新型コロナウイルス感染症のため死去。享年74。

デイリー新潮編集部

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