日本の港に核を搭載した米艦船が? 難局で海上保安庁が見せた「圧巻のオペレーション」

 意外だと思う人もいるかもしれないが、在日米軍の活動は、少なからず海上保安庁の協力によって成り立っている。政治的なハンディを抱えながらも、平時の海上警備の最前線にいる海保は、自衛隊が断った“案件”を請け負うこともしばしば。強い使命感で人知れず日米同盟を支える海保の知られざるオペレーションを『危機の外交 岡本行夫自伝』から紹介する。

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■政治的ハンディを抱えながら、海上警備の最前線にいる「海上保安庁」


 海上保安庁は法律上も緊急時には自衛隊の一部となる準軍事組織である。日本が戦後、相手に対して武力を行使したのは、自衛隊ではなく、海上保安庁である。北朝鮮からは頻繁に日本への監視や工作員送り込みの為とみられる不審船がやってくる。2001年12月に、沖縄の北方にある奄美大島の付近で海上保安庁の巡視船と遭遇した不審船は、交戦のあと、自爆した。海底から引き揚げられたその不審船からは無反動砲や高性能機関銃などの新型武器が大量に発見された。

 海上保安庁が働く安全保障体制はとうてい万全とは言い難い。1987年、北朝鮮から医師の一家が漁船ズダン号で亡命してきたことがある。日本には政治亡命を受け入れる制度はないので、海上保安庁は、この一行11名をYS-11輸送機に乗せて、台湾に輸送することになった。強硬に反対する北朝鮮の空中での妨害を怖れる海上保安庁は自衛隊の護衛を頼んだが、断られた。

 海上保安庁はどうしたか? 警備を担当した僕の友人が嘆きながら言った。北朝鮮の戦闘機に撃墜された場合には、直ちに救出活動を取れるように飛行ルートに一列に巡視船を並べたのである。

 海上保安庁は、このような政治的ハンディを抱えながら、平時は海上警備の最前線にいる。彼らは、日本の行政機関の中でも、使命感が特に強い。僕が米軍の艦船の出入港の警備を要請するとき、彼らが返事をためらったことはなかった。

 1986年7月、在日米海軍司令官のジム・コッシー提督がいつもどおり訪ねてきた。コッシーは、グレゴリー・ペックばりのハンサムな男で、キビキビと動く軍人であった。空母搭載機が厚木基地で行う夜間離発着訓練(NLP)は、その轟音ゆえに常に住民との摩擦の種であった。「せめて正月の間の飛行は止めてくれ」という僕の要請を聞かなければならないのも彼の任務であった。

「8月24日に、核積載可能艦である戦艦ニュージャージーを佐世保に、随伴艦のロングビーチとメリルを横須賀と呉に、それぞれ入港させたいので協力してほしい。この3隻が同時入港できれば、日本海でソ連に対して有事の際に行動する米海軍の機動性を強化することができる」

 僕は面倒な問題が起こることは予知できたが、何も質問せず、「わかった、これから関係先に根回しする」と伝えた。彼はあまりにも簡単に僕がイエスと言ったのでびっくりしたようだったが、「まことにありがたい」と感謝した。

 僕にしてみれば、こういうケースこそ安保条約運用の「一丁目一番地」であり、その場でOKするのが当然であった。米艦船の日本寄港は、条約上、米軍に完全に認められた権利であり、米海軍としての通常の行動である。「核積載可能」という性能上のことだけで政府が寄港に及び腰になっていては、日米安保は機能しない。

 この予定が発表されると、戦艦ニュージャージーは実際に核トマホークを積んでいるのではないかと、左翼は大反対であった。当日は、陸上デモだけでなく、無数の漁船をチャーターした反対派がニュージャージーの入港を阻止する海上活動を行うという。

 僕は、外務省から道ひとつ隔てた向かい側の運輸省の建物の中にある、海上保安庁に出かけて行った。霞が関の中央官庁にはそれぞれレストランがある。どこの役所のランチが一番安くてうまいか、情報交換をしてそこへ行く。農水省の食堂は所管物資のコメと肉がうまいとか、厚生省は栄養バランスが良いとか。運輸省の食堂は麺類がうまいのでよく行った。

 話を聞いてくれたのは、西山知範警備2課長だった。日に焼けた精悍な顔の、根っからの海の男という感じの西山課長は、即座に「海上保安庁の当然の仕事です。引き受けましょう」と言ってくれた。

 それから、二人で邊見正和(へんみまさかず)警備救難部長(のちに警備救難監)のところへ行った。

 邊見さんは鼻が高く、眼光は鋭く、堂々たる体躯と剛胆さを併せ持つ男であった。ネプチューンのようであった。

「岡本さん、米軍には日本を守ってもらっている。その船が日本の港に入るのは当然のことだ。やりましょう」

 僕はいろいろな役所とつきあったが、海上保安庁ぐらい気持よく外務省の要請に応じてくれる役所はなかった。

 邊見さんと西山さんは、海上での妨害活動に備えるために、全国から小型の巡視艇を佐世保に集めた。そして、警備の総責任者として邊見さんが自ら数日前に佐世保に乗り込んでいき、海上保安官たちに、大演説をぶったのである。

「安保条約の下では米軍が日本を一方的に守る仕組みになっているが、我々がこうして米軍艦船の入港を保証してやることで安保体制を双務的なものにしているのだ」

■海上保安庁が見せた見事な警備


 当日、海上には数十隻の反対派の船が向後崎(こうござき)を回って佐世保に入港する戦艦ニュージャージーを待ちかまえていた。現場で総指揮にあたった西山さんは准士官に輪型陣を作るよう命令した。

 海上保安官たちは、何隻もの小型の巡視艇でニュージャージーの周りを2層に囲んだ。そして驚いたことには、約30隻の巡視艇が、前進するニュージャージーの進行にあわせて周りを一斉に高速でぐるぐると回転し、大きなうねりを作り出したのである。前進する戦艦を二重の水の防壁が囲んだ。すさまじい操船技術であった。デモ隊の船は高い波の壁に阻まれてニュージャージーに接近できなかった。ニュージャージーの乗組員たちは甲板に鈴なりでこの光景を見守った。あっけにとられた様子であった。それほど見事な警備であった。

 僕は、この時に海上保安庁が撮った写真を国防総省に贈った。この写真は、長い間、ワインバーガー国防長官の部屋を飾ることになったと聞いた。

 同日、ロングビーチとメリルも横須賀と呉に無事に入港した。

 オペレーションとしては全てが計画通りに運び、コッシー提督からは深く感謝された。海上保安庁からも、この難しい警備活動を無事に終えたことで現場の士気も上がり自信もついたとかえって感謝された。だが、僕の心は晴れなかった。

 政府は中曽根首相に至るまでニュージャージーの入港は大きな問題となることを知ったうえで、これを入港させた。しかし、同じく核兵器積載可能艦であるロングビーチとメリルを含めた3隻が日本の佐世保、横須賀、呉3港へ同時に入港することは、官邸の意識にはなかった。一面トップの新聞記事でセンセーショナルに報道されてこのことを知った後藤田官房長官から叱責の声が飛んだ。重家(しげいえ)俊範秘書官(のちに韓国大使)が僕の代わりに怒鳴られた。重家秘書官が僕を庇ってくれていなかったら、僕は安保課長の職を飛ばされていただろう。

「3隻同時入港」を意識されていれば、後藤田官房長官は間違いなく拒否しただろう。僕はそれを知りながら、ソ連に日米安保体制の「厚み」を見せつけるために、3隻入港の個別報告は行ったが、全体像は説明しなかった。僕のやり方は官僚としての則(のり)を超えていた。僕が外務省でした仕事のなかで、ただ一つ不正直なやり方をしたという意味での汚点であった。

 僕は後年、政治家を引退した後藤田さんと親しい関係になった。後藤田さんはいつも温かく接してくれたが、あるとき佐々淳行(さっさあつゆき)さん(元内閣安全保障室長)と僕を指さして「キミたち二人は危なくてしゃあない」と言った。そう言われて佐々さんはむしろ得意そうであったが、僕は黙ってうつむくより仕方がなかった。

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※『危機の外交 岡本行夫自伝』より一部を抜粋して構成。

岡本行夫(おかもとゆきお)(1945-2020)
1945年、神奈川県出身。一橋大学卒。68年、外務省入省。91年退官、同年岡本アソシエイツを設立。橋本内閣、小泉内閣と2度にわたり首相補佐官を務める。外務省と首相官邸で湾岸戦争、イラク復興、日米安全保障、経済案件などを担当。シリコンバレーでのベンチャーキャピタル運営にも携わる。2011年東日本大震災後に「東北漁業再開支援基金・希望の烽火」を設立、東北漁業の早期回復を支援。MIT国際研究センターシニアフェロー、立命館大学客員教授、東北大学特任教授など教育者としても活躍。国際問題について政府関係機関、企業への助言のほか、国際情勢を分析し、執筆・講演、メディアなどで幅広く活躍。20年4月24日、新型コロナウイルス感染症のため死去。享年74。

デイリー新潮編集部

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