「福生病院」院長が語る“人工透析と尊厳死” 治療再開の意思に病院は応じず

「福生病院」院長が語る“人工透析と尊厳死” 治療再開の意思に病院は応じず

人工透析を止める選択肢を示し、約20人の腎臓病患者が亡くなった公立福生病院

■治療再開の意思に病院は応じず…「人工透析」と「尊厳死」(1/3)


「今回の件で、命についての議論がかなり深まると思います。命の根本に関わるものすごく難しい問題ですけどね」

 渦中の公立福生(ふっさ)病院(東京都)の院長は、はっきりと、そして彼なりの「信念」に基づいていることを強く窺(うかが)わせながら語り始めた。確信的、あるいは確信犯的に……。

「1分1秒でも、どういう形であるにしろ生き永らえるのが善で、1分1秒でも命が短いことは悪だというシンプルなものではないと、私は思います」

 命は何よりも尊く、人間ひとりの命は地球よりも重い。戦後積み上げられてきた人権意識の果てに、超高齢社会に直面している我々は今、平成の終わりに「福生事件」との対峙を余儀なくされている。

 そして「震源地」である福生病院からは、地鳴りのように重く、不気味で、心臓を突き上げ鷲掴(わしづか)みしてくるような激しい揺れと響きが伝わってきている。

 その轟(とどろ)きに耳を澄ませてみる。根源的にして、悪魔的な響動に。すると、その地鳴りは我々にこう問い掛けていることに気付く。

 これは「尊厳死」なのか、それとも死への誘導という「緩やかな殺人」なのか。あなたはこの命題から逃げるべきではない、と――。

 それは1本のスクープ記事から始まった。

〈医師、「死」の選択肢提示/透析中止 患者死亡〉

 3月7日付の毎日新聞朝刊が、1面トップにこんな見出しを掲載し、大々的に記事を展開したのである。

「昨年8月、福生病院に入院した44歳の腎臓病患者の女性が、病院の外科医から人工透析中止の選択肢を提示されると、彼女は中止の意思確認書に署名。実際に透析は中止され、その1週間後に亡くなりました」

 と、大手メディアの担当記者が解説する。

「この案件が衝撃的だったのは、女性患者が延命治療を拒んだという単純な話ではなく、いくつかの複雑な要素が絡んでいることでした。まず1点目は、一度は透析中止を選択した彼女が、途中でその意思を撤回したとされる点です」

 腎臓病を患い人工透析を受け始めると、病が完治することはないため、患者は延々と「命綱」である透析を続けなければならない。すなわち、透析の中止は事実上の死を意味する。一方、週3回受けなければならない人工透析は、さまざまな苦痛を伴う。

「透析の際、毎回血管に針を刺すことなどに忌避感を覚えていた女性患者は、医師から死の危険性の説明を受けた上で自ら中止の道を選んだものの、逆に中止に伴う苦痛に耐えられなくなり、透析の再開を望んだといいます。体内に溜まる毒素を除去するのが透析ですから、止めれば毒素が体内に滞留し、苦しくなるのは当然です」(同)

 毎日新聞によれば、透析中止後、女性患者は「息が苦しい」と訴え、「こんなに苦しいなら、また透析をしようかな」と外科医に伝えた。しかし、「苦しいのが取れればいいの?」と外科医が問うと、彼女は「苦しいのが取れればいい」と答えたため、透析は再開されず鎮静剤を打っただけで、女性患者はその翌日に息を引き取ったという。

「仮に彼女が一旦は透析中止を望んだとしても、その後に再開の意思を示していたのであれば、病院や医師は女性患者の命を全力で救うべきだったのではないかとの議論が巻き起こりました」(同)


■“確信犯的”忌避?


 次に、彼女は44歳とまだ若く、

「透析を受け続ければ、まだ数年は生きることができたと見られています。日本透析医学会は、透析を中止する際の基準として〈患者の全身状態が極めて不良〉などを挙げている。この基準に福生事件は該当せず、病院や医師は自殺を誘導、幇助(ほうじょ)したのではないかとの批判も起きています」(同)

 さらには、この女性患者に限らず、

「これまで福生病院では、そもそもはじめから透析を選択しなかった非導入、あるいは透析を中止したために約20人の患者が亡くなっていることが分かっています。つまり今回の女性の件は『事故』などではなく、病院側が患者に対して『確信犯的』に透析治療を忌避するように仕向けていたのではないか。そんな疑いの目も向けられているわけです」(病院関係者)

 当事者である女性患者の夫は、毎日新聞に寄せた手記のなかで、病院に対して「怒りの気持ちはない」としつつも、「医者なのだから、一人一人の命を預かっているのだから、患者に寄り添って生かしてほしい」との真情を吐露。さまざまな疑念が浮上している福生病院には、目下、東京都および学会が検査・調査に入り、真相究明が進められる事態となっている。


■「意思には波がある」


 果たして、福生病院が女性患者の意思を確認する手続きに瑕疵(かし)はなかったのか。また同院で恒常的に行われていた透析の非導入および中止は、どのような医療者としての正義感に基づいたものだったのか。こうした疑問に答える形で、院長が発したのが冒頭の言葉だ。以下は、院長との問答の続きである。

――苦しみながら生きることは是ではない?

「それは患者ご本人が決めないとしょうがないこと。他人様(ひとさま)が、苦しんでも生きるのが正義だなんて言うものではないでしょう」

――患者が透析再開の意思を示したら、病院としては再開すべき、そう考える一般人が多いのではないか。

「もちろん、『迷っています』と言う人に『迷うんじゃない』とは、人間として言えるものではない。しかし、患者さんの意思には波がある。意識が朦朧としてボーッとしている時の意思と、また意識がきちんと戻った時の意思と、どちらを尊重すべきか。その場合は後者を尊重するというのが医療現場での感覚です」

――女性患者に限らず、透析の非導入や中止が福生病院では多い印象を受ける。

「単純に数だけを取り上げても意味がない。フランスやスペインでは、透析患者の死亡原因の20〜25%は透析中止なんです。日本は1%か0・5%と言われている。つまり、生死の問題というのは、国によって哲学が違うわけです。フランスであれば、食べられなくなったら人生おしまいというコンセンサスができている。文化が違うから当然です。いろいろな国で考え方が違うということを皆さんに知っていただきたい。だから、医療関係者だけでなく、一般の人や、哲学者、宗教学者も含めて議論を尽くしてほしいと思います。日本人は、そういう(尊厳死の)議論を避けているところがあるでしょう」

 院長の一連の言葉から浮かび上がってくるのは、手続きにミスはなかったという「自負」。また、透析中止は海外では珍しくないのに日本では異端視されていることへの医療者としての「苛立ち」。そして、人工透析患者が尊厳死を選ぶ、敢(あ)えて言えば患者にそれを選ばせることの「正義」。裏を返すと、日本の人工透析治療には海外とは異なる「闇」があることを示唆しているとも言える。

 事実、福生事件に対する審判は措(お)くとして、そこには確かに闇が存在しているのだった。

(2)へつづく

「週刊新潮」2019年3月28日号 掲載

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