【平成最凶の事件簿6】逃亡15年、平成時代に蘇った「昭和の女」 福田和子が流した悪女の涙

 平成9年7月29日午後7時頃、「福田和子逮捕」の報がテレビの臨時ニュースで流れたとき、作家の佐木隆三氏はTBS報道局にいた。2年前から始まったオウム真理教の裁判傍聴に加え、「神戸・児童連続殺傷事件」についてコメントを出すためだった。
 と、その瞬間、局内ではどっと歓声が上がり、野球中継で〈逆転ホームランを放ったような騒ぎ〉だったという。
 数多の殺人犯に取材し、犯罪小説、犯罪ノンフィクションを多く手がけた佐木氏は、事件回顧録『わたしが出会った殺人者たち』で次のように率直な感想を綴っている(以下、〈〉内の引用は同書)。

〈(福田逮捕を知り)わたしも歓声を上げた。「酒鬼薔薇聖斗」が少年Aとわかったときの重苦しい思いにくらべて、突き抜けるような解放感があった。なぜそう感じたのかは、今になっても説明がつかないが、「逃げ得は許さない」と思っていたわけではなく、むしろ時効完成目前までの5459日間にわたる逃亡生活に、エールを送ったような気もする〉

 昭和57年8月、愛媛県松山市でクラブ「英国亭」の31歳のホステスが帯締めで絞殺され、山中に遺棄された。女性のマンションからは現金だけでなく高級家具や衣類、貴金属など300点以上が盗まれている。殺人・死体遺棄罪で全国指名手配された元同僚ホステス・福田和子は当時34歳だった。
「笑っていいとも!」が始まり、テレホンカードの使用が開始されたその年、流行語は「ルンルン」「ネクラ」だった。それから15年、時効までわずか21日と迫ったその日、「手配写真に似ている女がいる」という客の通報を受け、捜査員が向かったのは福井市内のオデン屋。ビール瓶とカラオケ用の「マラカス」に付着した指紋が決め手になった。
 逮捕されたとき、福田は49歳になっていた。事件後の逃走経路について、取調官にこう明かしている。

〈――松山からどこへ逃げたか?
「金沢です。でも本当は、青森へ行くつもりやった」
 ――なんで青森か?
「恐山でイタコに頼み、あの子(被害者のホステス)の霊を呼び出して供養(くよう)し、自殺するつもりだったけど、列車は金沢止まりだったんよ」〉

 その日は金沢市内のホテルに宿泊、こうして福田の逃亡生活が始まっていた。大阪・曾根崎(そねざき)新地の売春宿に住み込みカネを貯め、福井市などを中心にスナックのホステス、ラブホテルの皿洗い等をしながら近畿、中国、北陸地方を転々としていた。下関、新潟、青森、函館にいたこともある。ホームレスに身をやつした時期もあった。


■「訳ありの女と察していたが、一緒にいたことを後悔していない──」


 何人かの男性と根無し草の生活をしていた期間もあるが、驚くのは2年半もの間、「老舗和菓子屋の内縁の妻」に収まっていた事実である。男性とは金沢市内のスナックで、「忍」の源氏名で出会っていた。
 この間に福田は、店主と4泊5日の日程で恐山を旅している。佐木氏の取材に店主は、「(旅の行き先が)なぜ恐山なのかよくわからなかった。せがまれて付き合った」と答えているが、5年前に果たせなかった、手にかけた女性に詫びるのが福田の目的だった。
 後の公判でも「福田はよく千羽鶴を折っていて、段ボール箱にいっぱいだった」との証言がある。また、お盆の季節になると、千羽鶴を川に流していたという。
 佐木氏は福田と都合7回、松山刑務所で面会を重ねている。

〈福田「(恐山で)私は独りにしてもらって、泣きたいだけ泣きました。あの人(店主)は何かを感じたらしいけど、口には出さなかったですよ」
佐木「訳ありの女と察していたが、一緒に暮らしたことを、後悔していないと言い切りました」
福田「あの人には、ほんとうに迷惑をかけました。なかなか腕の立つ、人情味のある人でしたからね。まだ独り暮らしでしたか?」
佐木「そういうことで、よく酒を飲んでいるそうです」〉

 63年2月、福田は間一髪のところで逮捕を免れている。店主の正式な求婚を拒み続ける福田を怪しんだ店主の親族により警察に通報されるも、張り込みに気付き、とっさに自転車で逃走。この折に、福田が美容整形を受けていた事実が発覚した。そして、旅先で店主が撮影したスナップ写真が、その後の福田の新しい手配写真となった。
 手術前、手術後の写真をパネルにしたのはワイドショーだった。500万円の懸賞金がつき、逃亡中の福田が知人と電話で交わした「アブナイ、アブナイ」という肉声も盛んに流された。「時効成立」のカウントダウンの中、日本中が狂騒したのが、平成9年の茹だるような夏だった。

■悪女の涙


 福田は第11回公判で、「逮捕されることは2日前からわかっていた」と述べた。佐木氏はこの言葉の真意を直接、福田から聞いている(第4回目の面会)。

〈福田「オデン屋のママに、日曜日に街でばったり会ったら、『あした来ませんか』と誘われたので、ピンときたんです」
 佐木「通報者(となった、店の常連客)の弁当屋さんが、月曜日に店で待っていた?」
 福田「あの人の魂胆は読めていた。ママさんと2人きりのとき、『私は福田和子よ』と打ち明け、懸賞金のことも話した」
 佐木「どんなふうに?」
 福田「500万円というのはすごい。もらった人が、親のいない子の施設とかに寄付するといいな、と」
 佐木「オデン屋のママは、通報者と折半した250万円の中から150万円を、福井放送を通じて『愛は地球を救う』に寄付しています」〉

 その瞬間、福田は〈大きく目を見開き、大粒の涙をあふれさせた〉という。〈それまで面会室で目を潤(うる)ませたことはあるが、こんなに泣くのは初めてだった〉と、佐木氏は驚きを隠さない。
 平成10年12月、法廷での最終陳述で福田自身は逃亡15年についてこう述べている。

「大阪で放心状態で段ボール生活をしていると、『ねぇちゃん、生きとるのも地獄やなぁー、ほやけど、これも償いの一つやでぇー』と言った70過ぎのおばあちゃんの喉元、手首にはいくつもの傷跡があった。
 五臓六腑を引き出して、捨ててしまえるのなら、このまま気を狂わせてくれたら、どんなにか楽だろうと許しを請い、自分を責め続けてきた。いろいろあった、本当にいろいろと――」

 平成15年11月、最高裁で上告棄却、無期懲役確定。17年3月、和歌山刑務所で脳梗塞(のうこうそく)により死亡。57歳。「出所したら四国八十八カ所を回りたい」と口にしていた。

デイリー新潮編集部

2019年4月26日 掲載

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