新宿で発見された100体の「人骨」は何を語るのか? 「731部隊」が戦犯として裁かれなかったワケ【戦争と日本人(2)】

 30年前の1989年7月、東京都新宿区の元・陸軍「防疫研究室」跡地から、100体もの人骨が発見された。同研究室は戦時下、満州(現・中国東北部)で細菌兵器を開発・研究していた「731部隊」の日本における関係先。同部隊は中国人、朝鮮人、ロシア人たち捕虜に対する生体実験も秘密裡に行っており、100体の人骨との関連に注目が集まったが、真相は今も闇の中だ。昭和20年8月、ソ連軍の侵攻を受け、大本営は731部隊長・石井四郎(53歳)に命じている。部隊の存在が明るみに出ると、天皇にまで累が及ぶ。「一切の証拠物件は永久にこの地球上から雲散霧消するように」と……。

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 8月17日、ソ連軍がハルピンにあった731部隊の施設に到着している。が、彼らがそこで目にしたものは、燻(くすぶ)る瓦礫(がれき)の中にそそり立つ2本の煙突だった。部隊は間一髪、すべて引き揚げを完了、施設はことごとく爆破していたのだった。が、その瓦礫の中に動く物体がいたという(以下、〈〉内引用は青木冨貴子氏『731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く―』)

〈大量のネズミやダウリアハタリス(注・ネズミの仲間)が出てきて走り回り、ウサギやモルモットなどの小動物も大量にみつかった。付近では病気にかかった牛、山羊(やぎ)、その他の家畜の群れ、ラバ、ロバが放棄され、数百匹のサルがうろついていたとも伝えられる〉

 それは実験に使われていた動物たちだった。

 731部隊長・石井たちは、すでにその頃、朝鮮半島の南端・釜山に着いていた。そしてそれから後、GHQの追及を逃れるために行方をくらましている。驚いたことに、石井は故郷の千葉で自らの「偽装葬儀」まで執り行っていたとの情報もある。アメリカ当局の資料にはこうあった。

〈1945(昭和20)年11月10日、死亡を宣告され、千葉県山武(さんぶ)郡千代田村(加茂)にて葬儀が行われた。諜報員によるとこれは偽装葬儀で、イシイは千代田村長の助けを借り、地下へ潜った様子〉


■「細菌戦エキスパートとしてアメリカに雇っていただきたい」


 が、GHQにより所在を突き止められた後、石井に対する尋問は複数回、行われた。中でも細菌学を専門とするノバート・フェル博士とのやり取りは衝撃的だ。青木氏は通訳として立ち会った人物(故人)を取材したジャーナリストから、次のような話を聞いている。石井はフェル博士に、ある取引を申し出ていた。

〈「もし、あなた方が私自身と上官、部下宛(あて)に文書で免責を保証するなら、すべての情報を提供できるのです」

 続けて石井は、すっかり米国側になびいた様子で、

「細菌戦エキスパートとしてアメリカに雇っていただきたい」

 とフェルに売り込み、

「ソ連との戦争準備のために、私の20年にわたる研究と実験の成果をアメリカに提供できるのです」

 と誇らしげに語るのだった〉

「フェル・レポート」によれば、フェル博士は〈細菌兵器用の各種病原体によって死亡した「200人以上の捕虜から作成された顕微鏡用標本」約8千枚〉が存在する事実を突き止めていた。何のことはない。大本営の命令に背き、非人道的所業の証拠である研究資料はハルピンから持ち出されていたのである。

 実験資料は汽車、船舶を使い運ばれていた。石井は京都帝国大学医学部を卒業していたが「京都はもう危ない。(米軍に)狙(ねら)われている」と判断し、後輩軍医のいる金沢を目指したという。資料は分散させ、千葉の石井の実家、さらには「東一(といち)」――冒頭紹介した「防疫研究室」に隣接する「東京第一陸軍病院」においても隠し持っていた。

■石井とGHQとの「9カ条の密約」


 以下は資料を手にしたフェル博士の報告だ。

〈マックェール中佐が船積みしてくれた資料(病理標本、顕微鏡写真、印刷物)は非常に良い状態でアメリカに到着した。……これまでに得られた情報はわれわれの研究にとって非常に有益であり、多大な価値をもつことは確実である〉

 さらに石井とGHQ側との間では「9カ条の密約」が交わされていた。その第2、第4項――。

〈日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる〉

〈ソ連の訴追及びそのような(戦犯を問う)行動に対しては、絶対的な保護を受けるものである〉

 つまりは戦犯に問わないだけでなく、対立するソ連からもGHQによって完全に守られる、という状況を石井たちは保証されたのである。この約定により、元731部隊の医師たちはある報告書を作成し、GHQに提出する。「19人の医者による(人体実験)リポート」。そして結果として、石井は東京裁判に召喚されることすらなかったのである。

 戦後、石井は公職にはつかず、自宅で医院を開いたりして過ごしていた。昭和20年代半ばには、禅に傾倒していた時期もあったようだ。

〈石井は若松町(注・東京都新宿区)の自宅に近い月桂寺(げっけいじ)に通い、僧侶(そうりょ)と禅問答に明け暮れていた。月桂寺から目と鼻の先にある市ヶ谷台で開かれていた「東京裁判」も幕を閉じ、巣鴨刑務所に服役していた終身刑以下の日本人戦犯には、マッカーサーから特赦令が出て釈放された時期である〉

 さらにはキリスト教に道を探った時期もあった。「ジャパン・タイムズ」の取材に対し、石井の長女は「死の直前、父は上智大学の学長になられたヘルマン・ホイヴェルス神父に洗礼をお願いしていた」と明かしている。しかし石井が帰依したところで、もはや、ひとつの命も救われはしない。

 石井四郎が亡くなったのは昭和34年、67歳だった。喉頭癌(こうとうがん)が進行し、最期は声を失っていたという。細菌兵器はいまだ根絶していない。戒名「忠誠院殿大医博学大居士」――。泉下の石井は今、何を思うだろうか。

デイリー新潮編集部

2019年8月8日 掲載

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