目黒虐待死事件、母親が法廷で明かした“結愛ちゃんが亡くなるまでの地獄の日々”

〈ママとパパにいわれなくってもしっかりとじぶんからもっともっときょうよりかあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします〉

 2018年3月、当時5歳の船戸結愛ちゃんは、ノートにこう書き残して死んでいった。死因は、親からの虐待だった。

 父親の雄大被告(以下、表記略)から暴力を受けていただけでなく、食事もろくにとらせてもらえず、亡くなった時には、骨と皮だけにやせ細り、全身に無数の傷やアザがあったという。

 本日9月17日、母親の優里(27)に対する判決が、東京地裁で下された。

 ――懲役8年

 これが児童虐待による保護責任者遺棄で子供を死なせた母親に対する罪の重さだった。目黒女児虐待事件とは何だったのか。優里の公判の内容から整理したい。

 優里は香川県内の高校を卒業した後、一時期工場で勤め、同じ年齢の男性と結婚。19歳で結愛ちゃんを出産した。だが、22歳で離婚してシングルマザーに。その頃、ホステスとして勤めていたキャバクラで知り合ったのが、今回の事件の容疑者・雄大(34)だった。

 雄大は優里より8歳年上で、東京の大学を卒業後にいくつかの職を転々とし、友人の暮らす香川県に移ってきてキャバクラの店員をしていた。優里はそんな彼を「年上で幅広い知識がある」人だと感じて心を寄せたそうだ。そして仕事や育児の疲れを癒やすかのように彼に傾いていった。

 当初、雄大は結愛ちゃんを肩車するなどスキンシップをとってかわいがっていた。優里も「結愛のパパになってほしい」と思うようになる。そして離婚から1年半後、優里は雄大の子供を身ごもったこともあって再婚を決める。雄大は家庭を築くために水商売から足を洗い、食品会社へ就職した。

 ところが、入籍した直後から、雄大の態度が豹変した。雄大は優里のことをあからさまに見下し、侮辱するようになったのだ。物を知らない、育児ができてないなど、あらゆることに難癖をつけてきて、「おまえは馬鹿だから」と毎日1〜3時間に及ぶ説教をした。

 優里は次のように述べる。

「私の性格が悪いのと、私の行動とか発言とか全部怒られました。最初は『説教ではない。おまえのために怒っている』と言ってました。言い返すと、『育児もろくにできないくせに口出ししてくるな』と言われる。『ごめんなさいだけでは反省の色がわからない』『謝り方が足りない。態度で示せ』とも言われた。何回言っても許してもらえないから、自分を傷つけたところを見せればわかってくれると思って、自分の髪の毛を引っ張ったり、頭を叩いたり、体をつねったり、そういうのを見せました。(怒られた後は)『貴重な時間をつかって(私を)怒ってくれてありがとうございました』と毎回LINEで送ってました」

 優里は連日にわたる説教により、精神的に追いつめられ、摂食障害になる。雄大に「太った女はみにくい」と言われてからは、彼の前ではキャベツしか食べられなくなり、隠れて過食をしては嘔吐したり、下剤を飲んだりといったことをくり返した。

 ここで注目しなければならないのは、雄大がわかりやすい身体的な暴力ではなく、言葉の暴力によって優里を精神的に追いつめていったことだ。説教の最中、彼は優里の頭をはたいたり、頬をつかんで頭を揺さぶったりしたが、ケガをさせるほどの暴行をしたわけではなかったし、説教の後はやさしさを見せることもあった。

 そのため、優里はDVを受けている自覚がないまま、「私がバカだから怒られているんだ」と考え、説教を自分への愛情の一つだと受け入れるようになる。自分を傷つけたり、説教される度に「貴重な時間をつかって(私を)怒ってくれてありがとうございました」と言っていたのは、気が付かない間にDVによって洗脳されていた証だろう。


■「パパから怒られるから嫌」


 雄大の結愛ちゃんへの虐待がはじまったのは、優里が彼の子である男児を出産した後だった。雄大は息子を溺愛する一方で、結愛ちゃんには「愛想がない」「言うことを聞かない」と言って怒りをあらわにするようになった。

 優里が最初に虐待を目にしたのは、出産から2カ月が経った11月だった。雄大が足でいきなり結愛ちゃんのお腹を蹴ったのである。優里が動揺して泣いてやめてほしいと言うと、雄大はこう言い放った。

「おまえが泣いている意味も、かばっている意味もわからない!」

 優里はショックのあまり前後の記憶が抜け落ちているそうだが、おそらくは再び説教がはじまったのだろう。おまえが育児をしっかりしないから、代わりに叱ったのだと言われたのではないか。これ以降、雄大は「しつけ」という名の虐待をはじめるようになり、DVの支配下にあった優里は傍観することしかできなくなった。

 雄大の虐待は日を追うごとにエスカレートしていった。優里が最初に虐待を目にした翌月からわずか3カ月の間に、結愛ちゃんは児童相談所に2度も一時保護されている。いずれも、雄大に暴力をふるわれた後に外に放置されていたのを、保護されたのだ。

 児童相談所からの聞き取りの際、結愛ちゃんはこう言った。

「パパから怒られるから嫌。会いたくない」

 2歳児にしてみれば、必死のSOSだったはずだ。だが、その声は受け入れられなかった。

 雄大は自身の虐待が発覚することを恐れ、児童相談所に対して暴力をふるっていないと主張。さらに優里にも自分がつくったメモを暗記させて嘘の証言をさせ、口裏を合わせるように強いた。これによって、児童相談所は雄大から結愛ちゃんを強制的に引き離すことをせず、2度にわたって自宅に帰してしまうのである。

 児童相談所が結愛ちゃんを帰すにあたって、両親に求めたのは次の5点だった。

・幼稚園に通わせる。

・週末は母方の祖父母のところで生活させる。

・育児支援外来の受診。

・結愛ちゃんの定期的な面会。

・暴力をふるわないという約束。

 雄大は表向きはこうした条件を守りつつ、裏では優里へのDV、結愛ちゃんへの虐待をつづけていた。雄大は優里にこう言って虐待を正当化していた。

「児童相談所の人たちは他人だから結愛のことを考えていなくて、マニュアル通りに進めているだけだ。結愛のことを考えているのは、児童相談所でもおまえでもなく、俺なんだ」

 思考する力を失っていた優里は、雄大の言葉が正しいと信じて疑わなかった。

 この頃、優里は結愛ちゃんを抱きしめることができなくなっていたそうだ。理由は、雄大に「子供扱いするな」「くっつくな」と言われたためだという。それだけ、彼女の中で雄大の命令は絶対的なものになっていたのだろう。


■異常な「スパルタ教育」


 2018年1月、雄大ら家族は香川県から東京へ引っ越しをする。雄大が児童相談所にマークされていたことに疎ましさを感じ、「転居してリセットしたい」と言って転居を決めたのだ。優里も雄大の知人がたくさんいる東京に行けば何かが変わるかもしれないと思って、1カ月遅れで子供たちをつれて東京へ行く。

 目黒区の2DKのアパートで家族4人の生活がはじまったが、雄大はやってきた結愛ちゃんを見てこう言い放った。

「俺がいない間に結愛が太っている。ダレてる。気が抜けてる。俺の努力が水の泡だ。締め直す。15・5キロになったら白米食わせてやる」

 雄大は、アパートの六畳ひと間の部屋に結愛ちゃんを閉じ込め、徹底的に食事の管理をするようになった。

 雄大が結愛ちゃんに与えた食事は、もずくとか、五目豆などカロリーの少ないものばかりだったため、体重は急激に減少していった。優里も目標の体重まで落ちればご飯を食べさせてあげられると思って体重を量るだけで止めさせようとはしなかった。

 雄大は食事制限だけでなく、結愛ちゃんに異常ともいえる「スパルタ教育」を施した。午前4時に自分で目覚ましをかけて起きることを命じ、ひらがなや時計の読み方だけでなく、小学2年生で習う九九、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩の暗唱までさせた。そして、きちんと覚えないと、手を上げたり、食事を制限したりしたのだ。

 冒頭のノートに書き綴られた結愛ちゃんの言葉は、こうしたスパルタ教育と虐待に対するものだ。あの後には、次のようにつづく。

〈きのうぜんぜんできなかったことこれまでまいにちやってきたことをなおす

これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだからやめる もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいやくそくします

もう あしたはぜったいやるんだぞとおもって いっしょうけんめいやる やるぞ〉

 2月の初旬、アパートで優里が息子に授乳していると、脱衣場の方から激しい音が聞こえた。見ると、雄大が手の甲で結愛ちゃんを殴りつけていた。優里は口を挟んで雄大の機嫌を損ねるのが怖くて黙って寝る準備をした。

 翌日、起きると、結愛ちゃんの目が腫れていた。雄大はそれを見て平然と「ボクサーみたいだな」と言い放った。優里はさすがに愕然とし、離婚したいと言った。結愛ちゃんと2人で実家に帰る、と。雄大は絶対に息子とは別れないだろうと考え、そう言ったのだ。だが、雄大は答えた。

「東京に来てすぐ離婚なんて、ヤクザみたいだな。おまえは、苦しさから逃げているだけだ」

 そして息子に対して「おまえは母親に捨てられたんだな。かわいそうだな」と言った。そしていつものごとく、優里に激しい説教をはじめた。優里は再び、離婚の意志を奪い取られた。そして児相相談所が家庭訪問に来ても、助けを求めるでもなく、結愛ちゃんを会わせるわけでもなく、帰してしまうのである。

 2月の下旬になっても結愛ちゃんは外に出ることを許されず、午前4時に起きて勉強をする生活がつづいていた。体重は身長108センチに対してわずか13キロにまで減っていた。約束の15・5キロを下回っても、満足な食事を与えられていなかったのだ。

 この頃になると優里もさすがに危機感を募らせ、雄大の目を盗んで、チョコレートやカロリーメイトをひそかに食べさせたが、1日に必要なカロリーには届かなかった。おそらく、栄養不良のため勉強はまったく頭に入ってこなかっただろう。にもかかわらず、雄大は彼女を叱り、暴力をふるいつづけた。

 やがて結愛ちゃんは食事をとらなくなり、嘔吐をくり返すようになった。衰弱が限界に達していたのだ。それでも、雄大は「ダイエットになるからいい」と言い放ち、優里が病院へ連れて行きたいと頼んでも、「(虐待による)アザが消えたらな」と拒んだ。

 死の前日の3月1日、優里は結愛ちゃんの髪に吐しゃ物がついているのを見て、風呂に入れようと服を脱がした。久々に裸を目にして愕然とした。体が痩せこけ、骨と皮だけになっていたのだ。優里は怖くなって思わずバスタオルで隠した。病院へ連れて行くことも、食べ物を与えることも許されなかった彼女には、現実から目をそらすことしかできなくなっていたのである。

 翌日の夕方、結愛ちゃんの容態が急変する。午後、優里がパソコンでアニメを見せていたところ、かなりつらそうにしていた。「グーパーをしてみて」と言ってもできず、手足が冷たくなっていた。優里は不安になったものの、それを紛らわすように、結愛ちゃんにこう言った。

「ばあば、じいじが来ているよ。一緒にディズニーランド行こうね。小学校に上がったら、一緒に楽しもうね」

 祖父母が遊びに来ていると嘘をついて励ましたのだ。結愛ちゃんは弱々しく「うん」と言っていたが、17時22分頃、口から液体を吐き出して、「お腹が痛い」と訴えた。そして、そのまま目を閉じて心肺停止の状態に陥った。

 優里は慌てて雄大を呼んだ。雄大もまずいと思い、119番に通報した。だが、救急車が来ても結愛ちゃんは目を開くことはなく、搬送先の病院で死亡が確認された。

 2日後、司法解剖が行われた結果、結愛ちゃんの死因は虐待に起因する肺炎を発症したことによる敗血症と判明した。

 体重は12.2キロで栄養失調レベル。確認できただけでも、頭部に10カ所、胸腹部に6カ所、両腕には8カ所の暴行の痕があり、足裏には円形の変色が40カ所あった。それ以外にも内出血の痕も見受けられた。

 今回の裁判で、弁護側は事実関係ではほぼ争うことはなかったが、優里はDVによって雄大の支配下に置かれており、「過大に責めることはできない」と主張。検察の懲役11年の求刑に対して、弁護側は5年が相当とした。

 他方、裁判で証人として出廷した小児科医(香川県で結愛ちゃんを診ていた)は、優里が雄大の支配下にあったことを認めつつ、こう述べた。

「私は結愛ちゃんの代弁者として来た。助けてくれるのを信じて亡くなった結愛ちゃん。唯一近くにいる大人、唯一信頼している母親、助けてほしかったと思う。母親として助けてほしかった」

 たとえ、DVによって正常な思考が失われていたとはいえ、結愛ちゃんにとっては優里しか助けを求められる人はいなかった。その優里に救ってもらえず、死んでいった無念さはいかばかりだっただろう。

 今回、優里に科された「保護責任者遺棄罪」は、まさに親としての責任を遺棄したことに対するものだ。そして今日、東京地裁は優里に対して判決を下した。

――懲役8年

 これを重いと見るか、軽いと見るか。その問いは、私たち1人ひとりに投げかけられている。

石井光太(いしい・こうた)
1977(昭和52)年、東京生れ。著書に『物乞う仏陀』『神の棄てた裸体』『絶対貧困』『レンタルチャイルド』『ルポ 餓死現場で生きる』『遺体』『蛍の森』『浮浪児1945-』『「鬼畜」の家―わが子を殺す親たち』『43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層』『虐待された少年はなぜ、事件を起こしたのか』などがある。

週刊新潮WEB取材班編集

2019年9月17日 掲載

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