トンデモ謝罪文でわかった 神戸の「暴行教師」たちが「反省」できないワケ

 神戸市の東須磨小学校で起きた、教師4人による同僚教師いじめは、あまりに度が過ぎたものだった。日常的な暴言だけでなく、激辛カレーの無理強いやら膝蹴り、プロレス技での攻撃、児童に配布するプリントを水びたしにするなどの仕事への直接的妨害、クルマの破損や飲酒の強要など、その「バラエティの豊富さ」には驚かされる。

 学校内で起こった事犯にはなぜか「いじめ」という微温的な言葉が使われてしまうが、その「いじめ」の内実をみれば、これは「暴行事件」と形容した方が正しいように思われる。

 これに加えて異様だったのが、加害者教師たちの「謝罪文」だ。加害者教師たち4人はそれぞれに謝罪文を出しているが、中でも憤激を買ったのが主犯格とされる40代女性教師のそれだ。
 彼女は、謝罪コメントの中で、こう記している。

「被害教員には自分の思いがあって接していたつもりです。自分の行動が間違っていることに気付かず、彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです」

 このコメントに従えば、被害者教員に「自分の思いがあって接した」結果が、毎日のように平手打ちしたり、被害者を「犬」よばわりしたり、被害者教員の育ちを侮辱したり、児童に対して被害者教員の指導に従わないように煽ったりすることだった(「週刊新潮」10月31日号の報道)、ということになる。

 この「謝罪文」が、世間の怒りの火に油を注ぐ結果になってしまったとしても、無理もなかろう。

 何から何まで想像の斜め上を行く酷さに、怒りを募らせている向きが多いのは仕方あるまい。しかし、ここで一歩下がって問題の本当の「解決」のプロセスを考えると、少々異なるアプローチが必要と思われる。


■必要な「加害者視点」


 長年受刑者の更生支援に携わり、犯罪者を更生させるには「加害者視点」で考えることこそが有効であると説き、矯正教育にコペルニクス的転回をもたらした故・岡本茂樹氏(元立命館大学産業社会学部教授)は、その著書『反省させると犯罪者になります』の中で、次のように述べている。

「仮に私たちが犯罪を起こしたとして、鑑別所か拘置所に入ったときの自分自身の気持ちを想像してみてください。悪いことをしたことは認めるとしても、被害者のことを考えるよりも、自分自身のことを考えることで必死なのではないでしょうか。……悪いことをしたとはいえ、自分の『人生』が決まるわけですから、被害者のことよりも自分自身のことを優先するのは、人間の心理として自然な流れなのです」

「誤解がないように言っておきますが、私は何も被告人に対して『反省しなくていい』と言っているわけではありません。言いたいのは、裁判という、まだ何の矯正教育も施されていない段階では、ほとんどの被告人は反省できるものではないということです」

 ここで、状況をもう一度振り返っておこう。加害者教員たちはいま、「犯罪者と認定されるか、されないか」の瀬戸際にいる。犯罪者と認定されれば、教師をクビになるのはおろか、社会的にも抹殺される可能性が高い。身勝手な話だが、「自分のことで手一杯で、とても被害者に思いを馳せている余裕はない」のが、加害者の偽らざる心情ではないか。

 そんな心情にあれば、「被害者に謝罪し、こころからの反省を表明する」など無理である。世間に糾弾されたくらいで「反省」できるような人間なら、そもそもこんな陰湿ないじめや暴行をやったりはしなかったはずだ。岡本氏は、犯罪者に早急な反省を求めると、社会に向けて取り繕うための「偽善」ばかりを犯罪者が語る結果にしかならない、と述べている。

■本当の「反省」とは何か


 加害者の主犯格とされる40代女性教師のコメントをもう一度眺めてみよう。そこにあるのは保身と自己正当化以外の何物でもない。お望みなら、そこに社会向けの反省ポーズという「偽善」を見出すことも難しくないだろう。

 岡本氏の考え方に従うならば、これは罪を犯した人間としては「普通」なのだ。いまの彼ら彼女らの状況なら、自分の罪を軽く見せよう、何とかして罰を軽くして貰おう、と必死にあがくのが当然だからだ。

 では、どうしたら「反省」できるのか。『反省させると犯罪者になります』の中で、岡本氏は次のように述べている。

「受刑者が心から反省するためには、最初に自分自身が事件を起こした原点をみつめることから始めます。……受刑者は犯罪を起こすに至る偏った考え方や価値観を持つようになりますが、こうした考え方や価値観が形成されるには、不遇な生活環境で育ってきたなかで生じた寂しさや辛さ、ストレスといったものが関係しているのです。したがって、彼らが自分の心のなかに根付いている考え方や価値観がどのような過程でつくられていったのかを理解する必要があります。自分の内面と向き合うということは、自分の過去に目を向けて、犯罪を起こすに至った自分自身の内面の問題を理解することなのです。謝罪の言葉を繰り返すことではありません」

 岡本氏によると、反省や謝罪は「最後にくるもの」だという。犯罪者が、自分が犯罪を起こすに至った考え方や価値観の由来を知り、生育の中で感じた自分自身の「しんどさ」「問題」を自覚する。その自分自身の「問題」を自覚できれば、自分自身が被害者に対してやったことの「酷さ」にも気づける。その気づきの後に、ようやくやってくるのが、相手に対する謝罪と反省なのだ。

 加害者たちのイジメや暴行によって休職を余儀なくされている被害者教員、およびその他の被害者教員(加害者教員たちにセクハラやパワハラを受けていた教員が複数いる)たちには、適切なケアが必要なのは言うまでもない。

 それと同時に、加害者教員たちを「本当の反省」に導くためには、彼らがなぜイジメや暴行に及んだのか、自ら振り返る「機会」が必要になるだろう。その意味でも、馴れ合いや事なかれ主義での曖昧な解決ではなく、立件・起訴こそが、加害者教員たちに「自己への振り返り」の機会を提供することになるのではないか。

デイリー新潮編集部

2019年10月25日 掲載

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