東大教授が斬る「大学入試英語の民間試験、延期ではなく理念の見直しを」

東大教授が斬る「大学入試英語の民間試験、延期ではなく理念の見直しを」

若者をどこに導こうとしているのか……

■民間試験導入は日本の若者を「英語帝国主義」の最底辺に位置付ける――阿部公彦(1/2)


 今月1日、すったもんだの迷走の果てに、2020年度から開始予定だった大学入試での英語民間試験導入の延期が決まった。だが、これで一件落着ではない。この難問山積の民間試験導入が「いずれ」実施される方針に変わりはないからだ。東京大学文学部教授の阿部公彦氏が問題の本質を斬る。

 ***

「これからは英語の4技能(読む、書く、聞く、話す)を測ります!」という看板を掲げて始まった英語入試改革だったが、これまで運営上のトラブルや準備不足が各方面から指摘されていた。英検やTOEFLなど七つの民間試験が導入される予定だったものの、試験の会場や日程が決まらず、受験生も学校も予定が立てられない。会場は地域間で大きく偏り不公平極まりない。試験会場への交通費等、所得格差も影響することなどが取り沙汰されてきた。こうした不備を裏付けるように、文科大臣が「(受験生は)自分の身の丈に合わせて勝負してもらえれば」と、格差を是認するかの如き発言をし、制度の綻びは隠しようがないものになっていた。延期は当然の帰結といえよう。

 だが、今回の措置は24年度への導入「延期」であって「中止」ではない。また、主に問題視されているのは制度の「技術的」な問題であって、「本質的」な問題ではない。導入が先送りされ、その間に技術的な問題が改善されようとも、民間試験導入の孕む危険性は変わらないだろう。なぜなら、これまでも散々民間試験導入の不具合を指摘されながら、推進側は「障害はあるが、理念は正しいし」との理屈を決して捨てようとはしなかったからだ。事実、延期決定後も、与党内では「4技能評価」自体の方向性は堅持するとの声が上がっている。すなわち、「理念」は間違っていないと。しかし、本当にそうだろうか。実は、この理念にこそより根の深い病巣がある、と私は考える。そこで、以下、民間試験活用の「理念」がどのような歪みを持っているか、それが将来の日本にどのような問題を引き起こす可能性があるかを説明してみたい。


■「日本人は英語がしゃべれない!」との理屈で…


「CEFR」という略語を聞いたことがあるだろうか。民間試験を導入するにあたって、陰の主役となったのはこのCEFRなる指標だった。民間試験推進のために掲げられたのは「日本人は英語がしゃべれない!」「だから、大学入試で2技能(読む、書く)より4技能を測ろう!」との理屈だが、これだけではばらばらに結果の出る複数のテストを比べられないので、それらをCEFRという一つの指標で換算することになったのだ。一見、もっともな理屈だろう。しかし、専門家の間ではこのCEFRの使い方こそが、この政策の致命的な欠陥だと言われている。

 CEFRは「外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠(Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment)」の略で、欧州評議会で使われている、英語を含む各言語の運用能力を測るための参照枠を指す。「国際基準だから大丈夫」と言われるのもそのためだ。

 しかし、CEFRは一冊の本になるほどの、非常に細かい入り組んだ枠組みであり、単純明快な指標ではない。その思想を理解するのもなかなかたいへんだ。かつ、CEFR自体が「改築」や「妥協」という紆余曲折をへた、開発途上にある枠組みなのだ。異なる意見を取り入れようとした結果、増築をかさねた建物のように入り組んだ構造になっている。

 つまり、CEFRは入試のような競争的で厳密性が求められる試験に使える安定的な指標ではないのだ。それを本来の用途からはずれた形で「流用」しようとしている。さまざまな懸念が生ずるのも当然だろう。

 CEFRの特徴は、たとえば「ゆっくり話してくれれば基本的な単語を聞き取ることができる」といった具合に、言語能力を「〜ができる」という、能力記述文(Can Do statements)であらわしていることだ。言語能力を具体的な現実対応の力で示したわけである。またcan doという言い方をすることで、減点法ではなく積み上げ型の形を示した。さらに、その能力を一番下のA1から一番上のC2の6段階で評価する枠組みになっている。


■人間のスペック管理の道具


 この評価の枠組みを説明した英文資料は273頁に及び非常に細かい。その上、記述があまりに具体的すぎて、読んで理解するだけでもひと苦労なのだ。もちろん、その背後にある思想には立派なところもある。立教大学の鳥飼玖美子名誉教授は次のように説明する。

〈EU圏内では、人々は自由に移動し、仕事をします。その時に、英語はTOEFLでは〇〇点で、TOEICで〇〇点、ドイツ語はOSDで〇〇点……と別々の評価基準で言われてもわかりづらいですよね。そこで、どのように言語を教え、どう評価するかを40年近くにわたり言語教育の専門家が研究しCEFRを作り上げました。CEFRでは、Can Do statementsと呼ばれる能力記述文を使い、どんな言語であっても共通の尺度で言語能力を表せるのが画期的です〉(「英語教育に振り回され続ける日本人」WEDGE Infinity)

 文科省もCEFRの考え方に基づいた「CAN−DOリスト」なるものを中等教育で活用させようとしている。ただ、この方針には大きな問題があるとも鳥飼名誉教授は指摘する。なぜなら、文科省は本来は「評価の枠組み」であったものを入試に流用することで「到達目標」に変えてしまったからだ。こうなると、「〜ができる」というゆるやかな評価の枠組みであったものが「〜できなければならない」「〜できさえすればいい」という歪んだ形で生徒に受容されかねない。

「〜ができる」というチェック項目を一つ一つ判別するCEFRの指標は、まるで家電のスペック表のようでもある。たとえばコピー機なら、1分間に白黒で30枚印刷できる、カラーだと10枚印刷できる……といった「能力記述文」がつきものだ。そういう視点から見ると、CEFRはまさに人間のスペック管理の道具とも見える。

 ヨーロッパでCEFRが必要となったのは、移民や海外からの労働力とどう向き合うかが切実な問題だったからだ。具体的な指標があれば、労働者のスペック管理は容易になる。チェックリストを活用すれば、この人は工場での単純労働に従事できるか、携帯電話のセールスができるか、特派員のアテンドができるか、といったことも判断できる。労働力の購入者にとってはとても便利。労働力を売る側にも益はある。

 しかし、そうしたスペック管理の道具を、日本の中等教育の指標にすることは適切なのだろうか。たとえば日本の高校生が「将来、英語圏に行って、皿洗い要員として働きたいなあ」とか「携帯電話のセールスをしたいなあ」といった明確な目標を持つなら、CEFRを参照することにも意味があるだろうし、学校もそれなりのカリキュラムが組めるかもしれない。しかし、中学高校の段階でそこまで具体的な目標を持っている人がどれだけいるだろう。何しろ今回の政策の出発点は「英語、しゃべれるようになるといいよねえ〜」という程度の、どこまでもあいまいな気分だったのだ。「何を」「どの程度まで」できるようになりたいかなど念頭にない。また、中高生を「できる」指標で管理し、産業の歯車のように扱うことも問題視されていいだろう。言葉を道具としか見ない発想の向こうには、「従業員は企業の道具だ」という考えが透けて見える。

 そもそも日本人の9割は日常的にはほとんど英語を使っていない。そんな現状で、中高生を英語圏への移民労働力予備軍のように扱う意味があるのだろうか。このCAN−DOリストの利用は、関係者の意図にかかわらず、またその一見前向きの方針の陰に、そうした思想が流れこむ危険を宿してしまうのだ。

(2)へつづく

阿部公彦(あべまさひこ)
東京大学文学部教授。1966年生まれ。東京大学文学部卒。ケンブリッジ大学で博士号取得。大学では英米詩を中心に教えている。著書に『英語文章読本』等の啓蒙書があるのに加え、98年には小説「荒れ野に行く」で早稲田文学新人賞を受賞。

「週刊新潮」2019年11月14日号 掲載

関連記事(外部サイト)