熊谷6人殺害事件はなぜ死刑にならない? 「永山基準」という量刑判断の呪縛

熊谷6人殺害事件はなぜ死刑にならない? 「永山基準」という量刑判断の呪縛

ナカダ被告

■永山基準という呪縛! どうして「新潟女児殺害」「熊谷6人殺し」が死刑じゃないのか(1/2)


 凄惨な事件で肉親を亡くし、失意の底にある遺族が裁判で再び辛酸を嘗(な)める。国民の意見や常識を反映すると標榜しながら、「永山基準」の呪縛に囚われ、翻弄される裁判員裁判。同情の余地がない凶悪犯を死刑にできないのならば、一体、何のための制度なのか――。

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「高裁の裁判長が“無期懲役”と口にした時は“えっ?”という感じで、すぐには意味を理解できませんでした。判決を最後まで聞いても、一審の死刑判決を破棄した理由は全く分からなかった。妻子を奪ったあの男がのうのうと生きていられるなんて……。同じ立場だったら、こんな判決に納得できるのかと裁判長を怒鳴りつけてやりたい」

 2015年9月に起きた熊谷6人殺害事件の遺族、加藤さん(46)は非情な判決に憤りを隠せない。

 彼はこの事件で、妻の美和子さん(41)=当時=と愛娘の美咲ちゃん(10)=同=、春花ちゃん(7)=同=を一度に失った。凶行に及んだのはペルー国籍のナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン被告(34 以下、表記略)である。

 一審の裁判員裁判ではナカダの精神状態が焦点となったが、さいたま地裁は最終的に被告人の完全責任能力を認め、死刑判決を言い渡している。しかし、東京高裁は今月5日、これを破棄し、無期懲役の判決を下したのだ――。

 09年5月に裁判員制度が導入された背景には、硬直した司法の現状に風穴を開けるため、一般人を裁判に参加させ、その視点や感覚を反映するという目的があった。ところが、今年は施行から10年の節目に当たるにもかかわらず、ここにきて制度の根幹を揺るがしかねない判決が相次いでいる。そのひとつがナカダ被告の控訴審判決なのだ。

 埼玉県熊谷市の閑静な住宅街を恐怖に陥れたナカダ被告は、次々と民家に侵入し、加藤さんの妻子を含む6人を殺害した。幼い少女ふたりはもちろんのこと、何の落ち度もない人々が立て続けに犠牲となった以上、常識を持ち合わせた「一般人の感覚」からすればナカダ被告の死刑は当然の結果だろう。

 だが、東京高裁は、〈被告は事件当時、統合失調症にかかっており、心神耗弱の状態だった〉と結論づけ、あろうことか、無期懲役に「減刑」したのである。

 加藤さんはこの判断に真っ向から異を唱える。

「妻や娘たちの遺体はクローゼットのなかに押し込まれ、床についた血痕も拭き取られていました。ナカダは、私の妻子が命を落とした後も家のなかに身を潜め、捜索に訪れた警察官に気づくと内カギを閉めています。それどころか、自宅にあった自動車のキーまで盗んでいた。もし自宅の前に車を停めていれば逃亡に使われたと思います」

 ナカダ被告が犯行の証拠を隠蔽し、捜査の手から逃れようと画策したのは間違いなく、〈責任能力が著しく欠けた心神耗弱状態〉だったとは言えまい。しかも、精神鑑定の評価が判決の決め手でありながら、高裁は弁護側が請求した医師の証言しか取り調べなかったという。加藤さんが「死刑を覆すという“結果ありき”の判決だったのではないか」と訝しむのも無理はない。

「一審の裁判員裁判では、ナカダの完全責任能力が認められました。被告人が誰であれ、裁判員が死刑判決を下すには相当なプレッシャーや苦悩があると思います。それでも彼らは死刑を選んでくれた。公判で涙を流しながら証人に質問をする裁判員もいました。彼らが議論を尽くして、ようやくたどり着いたのが死刑という結論だった。それが高裁の裁判官の胸ひとつでひっくり返ってしまうのなら、裁判員制度など意味がありません」(同)

 これに首肯するのは、元東京地検特捜部副部長の若狭勝氏である。

「地裁と高裁で判決が変わることは有り得ますが、熊谷事件の控訴審では新たな証拠が出てきたわけでもないのに判決が覆った。この点が何よりも問題です。高裁が過去の基準を盾に一審判決を破棄する事態が続けば、裁判員制度の意味は没却されてしまう。こんなことなら裁判員裁判なんてやめたらいい、と思いますよ」


■永山基準


 裁判員制度がスタートして以降、一審の死刑判決が裁判官だけで審理する二審で破棄され、無期懲役となった例は、今回の事件を含めて6件を数える。

 松戸の女子大生殺害事件や、大阪・心斎橋の無差別通り魔殺人など、被告人はいずれも凶悪犯ばかり。にもかかわらず、なぜ「減刑」が続くのか。

 刑事訴訟法に詳しい甲南大学法科大学院の渡辺修教授によれば、

「一審判決に問題があるのなら、一審に差し戻して別の裁判員と裁判官に判断させるべきです。高裁が裁判員の加わった一審判決を破棄して、自分たちで量刑判断をすることがよく見られますが、これはプロの裁判官が量刑判断を握ろうとしているからに他なりません。彼らは裁判員制度が導入される前の判断基準を堅持したい。“市民と裁判官の協働”という制度の目的を無視していることは明らかです」

 裁判官が決して手放そうとしない量刑判断。その背後には、彼らが金科玉条のごとく崇める「基準」が見え隠れする。それが1983年に最高裁が示したいわゆる「永山基準」である。

 連続4人射殺事件で知られる永山則夫元死刑囚に対して最高裁判決が下される際に提示されたものだ。

「永山基準」は動機や被害者の人数、殺害方法の残虐さ、遺族の被害感情といった9項目からなる死刑の適用基準。裁判員制度が施行される前は、この基準で総合的に判断して「やむを得ない」場合に死刑が選択されてきた。被害者がひとりのみの場合は、強盗殺人や保険金殺人、身代金目的の誘拐や性犯罪を伴う残虐性の高い事件でなければ死刑はほぼ回避されてしまう。

 昭和末期に生まれた基準は、しかし、元号が令和に移り変わったいまも厳然たる影響力を保っている。

 加藤さんの長女・美咲ちゃんは、事件がなければ来年4月から高校生となり、次女の春花ちゃんも中学校に通い始めるはずだった。だが、たとえ春が訪れようと、愛娘が笑顔を咲かせることはもうない。

 いまも「現場」となった自宅で暮らす加藤さんは、

「妻子が帰る場所がなくなることは避けたかった。この家だけは守らなければいけないと思っています」

 かけがえのない肉親を失い、悲壮な思いを抱える遺族を、裁判で再び絶望の淵に追いやってはならない。

(2)へつづく

「週刊新潮」2019年12月19日号 掲載

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