新潟女児殺害事件「車ではね2度首を絞め殺害でも無期懲役」で裁判員制度の「自殺」

新潟女児殺害事件「車ではね2度首を絞め殺害でも無期懲役」で裁判員制度の「自殺」

新潟小2女児殺害事件現場

■永山基準という呪縛! どうして「新潟女児殺害」「熊谷6人殺し」が死刑じゃないのか(2/2)


 埼玉県熊谷市の民家に次々と侵入し、幼い少女2人を含めた6人を殺害した事件。一審の裁判員裁判で言い渡された死刑判決は破棄され、ペルー国籍のナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン被告に高裁が下したのは、無期懲役の判決だった。

 一審の死刑判決が裁判官だけで審理される二審で破棄された事件の例は、裁判員制度がスタートして以降、6件を数える。背後にあるのは、1983年の「永山基準」だ。昭和末期に生まれた死刑の適用基準が、いまも影響力を保っている――。

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 東京高裁がナカダ被告に無期懲役を宣告する前日の12月4日、新潟地裁も耳を疑うような判決を下した。実は、この判決にも「永山基準」の呪縛が影を落としていた。裁判員のひとりは閉廷後の会見で苦しい胸中を明かしている。

「個人的な感情は遺族と同じだったが、裁判の“公平性”を考慮して判決を出した。ただ、今後は犯罪が多様化するし、考えられないような犯罪も起きている。永山基準を見直さなければならないのではないか」

 ここでも「永山基準」である。彼らが審理に携わったのは昨年5月に起きた「新潟女児殺害事件」。小学2年生だった少女(7)=当時=の命を奪った小林遼(はるか)被告(25 以下、表記略)が、殺人や強制わいせつ致死などの罪に問われ、検察側は死刑を求刑していた。だが、新潟地裁は無期懲役の判決を言い渡したのだ。

「客観的に、これまでの司法の判断と比較しても、死刑判決が下されるのではないかと考えていました。被害者はひとりですが、残虐性や冷酷性、さらに遺族感情を考慮すれば死刑の可能性は高いだろう、と」

 そう語るのは元裁判官で弁護士の森炎(ほのお)氏である。

 小林の「残虐性」と「冷酷性」を示すために陰惨な事件の一部始終を振り返ってみたい。


■〈まれに見る悪逆非道な犯行〉


 昨年5月7日、新潟市内で軽自動車を走らせていた小林は下校途中の小2女児に目をつける。そして、彼女を背後から撥ね飛ばし、激痛に顔を歪める彼女を車に連れ込む。その後、小林は少女の首を絞めて気絶させ、わいせつ行為に及んだ。意識を取り戻した少女が恐怖に震え、泣きじゃくりながら「頭が痛い、お母さんに連絡したい」と訴えると、再び首を絞めて殺害。そして、小林は少女の遺体を線路に放置し、電車に轢かせた。轢死体に見せかけようとしたのだ。

 公判で検察が〈まれに見る悪逆非道な犯行〉と断じたのも頷ける話だ。

 だが、新潟地裁は小林の犯行について、以下のような見解を示した。

〈計画性は認められない〉上に、同種の事件と比べて〈際立って残虐とまでは言えず、死刑は選択できない〉。〈遺族が先例にとらわれず刑を判断してほしいという思いを抱くのは至ってもっともだが、死刑が究極の刑罰である以上、慎重さと公平性は特に求められる〉。

 とても小林の所業を子細に検討したとは思えない物言いである。森氏が続ける。

「この事件で判例至上主義的な判決が下されたことは残念です。わいせつ目的の幼児誘拐殺人事件は、件数が少ないため、死刑対象者が著しく増減することはありません。つまり、法の安定を脅かすことなく、市民感覚を死刑判決に反映しやすかった。今回のように踏み込んだ議論がないまま先例に従ったのでは、裁判員制度の“自殺”と言わざるを得ません」


■不公平さは当然


 見知らぬ男にいきなり車で撥ねられ、2度にわたって首を絞められた少女は、3度も死の恐怖に見舞われ、苦痛と絶望のうちに命を落とした。事件が〈際立って残虐〉であることは疑いようがない。

「裁判員裁判に求められるのは被告人、被害者遺族、そして市民すべての共生を図ること。裁判の結果は遺族が新たな一歩を踏み出せるものであってほしい。ただ、今回の判決にはそうした要素は見当たらなかった。遺族の傷がより深まったように感じます」(同)

 実際、最愛の娘を失った遺族は公判後に発表した談話で〈加害者に寛大な司法で憤りを感じているというのが、現在の偽らざる心境です。娘の存在は何だったのか、これでは娘が浮かばれないと思います〉と無念を滲ませている。

 無論、会見に臨んだ裁判員のように、まともな感覚を持った裁判員にすれば、死刑回避は苦渋の選択だったに違いない。

 刑事訴訟法に詳しい甲南大学法科大学院の渡辺修教授によると、

「量刑を判断する際、裁判官は裁判員に類似事件のデータを渡してレクチャーを行います。要は、永山基準をもとに作られたプロの裁判官の考え方を押しつけるわけです。裁判員は法律の素人なので、それに従わざるをえないでしょう。そうなれば、死刑か無期かの判断は裁判官が握ることになる。ただ、本来、裁判員に求められているのは、“被害者がひとりでは死刑にできない”と過去の基準を鵜呑みにすることではなく、“被害者がひとりでも死刑は有り得るか”を議論することなのです」

 新潟地裁は「公平性」という言葉を死刑回避の理由としたが、犯罪被害者支援弁護士フォーラム事務局長の高橋正人氏に言わせると、

「職業裁判官の下す判決には市民感覚が反映されておらず、それを是正するために裁判員制度が始まりました。ですから、制度の導入以前と以後で判決が異なるのは分かりきったこと。不公平になるのは当然の結果です。もし被告人にとっての公平さにこだわり続けるなら、100万年先も類似の事件は同じ量刑でなければなりません。また、裁判所は被告人への公平性を重視する一方で、被害者や遺族にとっての公平性は全く考慮していない。被告人の命を、被害者の命の何倍も重く見ているのでしょう」

 評論家の呉智英氏も、

「法律の解釈は時代に応じて変わっていきます。それなのに、30年以上も前の永山基準を後生大事にする意味などあるのでしょうか。裁判員候補者の辞退率が7割近くに上るのも、裁判員の意見が判決に影響しない現状が関係しているように感じます」

 永山基準の呪縛は、裁判員制度の空洞化にも繋がっていたのである。

「週刊新潮」2019年12月19日号 掲載

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