託児所の園長が幼子を虐待、殺害…「スマイルマム」の修羅【平成の怪事件簿】

託児所の園長が幼子を虐待、殺害…「スマイルマム」の修羅【平成の怪事件簿】

20年ほど前、“殺人託児所”と呼ばれた無認可の託児施設があった(※画像はイメージ)

 平成の世の30年間で、子育てをめぐる環境は大きく変化した。認可外、いわゆる無認可の保育所に厳格な監督基準が設けられたのもそのひとつである。厚労省の「認可外保育施設指導監督基準」が適用されたのは2001年。その前年に起きたのが、この悲惨な死亡事件だった。(上條昌史 ノンフィクション・ライター)

 ***

 神奈川県大和市、小田急線大和駅前の商店街の一角。ここに20年ほど前、“殺人託児所”と呼ばれた無認可の託児施設があった。
 
 名称は、「スマイルマム大和ルーム」。園長は、経営者でもある出雲順子(当時29)。目鼻立ちが整った、美貌の持ち主だ。事件の発端は、ある幼児の死亡事件である。
 
 平成12年2月18日、午前7時半ころ、A君(2歳)をスマイルマムに預けたA君の母親は、その約7分後、別れたばかりの出雲園長から携帯電話で呼び出された。
 
 母親はまだ、託児所が入っているビルの3階にある化粧室にいた。

「A君がひきつけを起こしているので来てくれませんか」

 淡々とした声だった。A君の母親はあわててエレベーターで5階まで戻り、スマイルマムの扉を開けた。
 
 母親の目に飛び込んできたのは、玄関近くのカウンターテーブルの脇の床に倒れているA君の姿だった。体の右側を下にして頭をトイレのほうに向けている。母親は傍らにしゃがみ込み、A君の背中をさすり、名前を呼んだが、A君は目の焦点が定まらず、苦しげに深い呼吸を繰り返していた。
 
 園長は「引きつけを起こして吐いたから、今日は帰宅したほうがいい」と言う。しかし、それまでA君はひきつけを起こしたことなどはなく、事態の深刻さに驚いた母親は、園長に「救急車を呼んで」と頼んだ。
 
 ところが園長は、「救急車は呼ばなくてもいいですよ。呼ぶくらいなら、直接病院に行った方がいい。裏の小児科に行ってみます」と言い残し、一人で外に出て行った。そして程なくして戻ってくると、「小児科へ行ったが、医師が不在だった」などと言う。その間、いたたまれなくなった母親は119番に通報しており、午前7時58分ころ、救急隊員がスマイルマムに到着した。すでにA君は、自発呼吸がなく、心室細動の状態だった。
 
 人工呼吸と心臓マッサージを受けながら、大和市立病院へ搬送され蘇生措置が講じられたが効果がなく、さらに北里大学病院に移送され延命措置が講じられたが、結局、同日午後7時52分ころ死亡が確認された。
 
 死因は、引きつけなどではなく、頭蓋骨骨折。さらに外傷性くも膜下出血、脳浮腫などの頭蓋内損傷があった。その後の司法解剖で、約2回にわたりA君の頭部に強力な“外力”が加えられたことがわかった。誰かがA君の頭を、何かに強烈に打ちつけたのだ。
 
 A君の死亡は、病院の医師によって大和警察署に通報された。驚いたことに、スマイルマムの園児の変死者通報は、それが2回目だった。2週間前の2月4日、別の病院の医師が、1歳になるB君の変死を通報していたのだ。
 
 B君も病院に運ばれたとき、すでに心肺停止状態だった。
 
 B君の母親が園長から連絡を受けたのは、午後4時ころ。「B君が下痢をしたので、とりあえず電話をした。熱は35度くらい」という内容だった。
 
 園長の口調が落ち着いていたことから、母親は病院が混んでいない時間にスマイルマムにB君を迎えに行き、そのまま病院に連れて行けばいいと考えた。
 
 しかし、午後5時40分ころ迎えに行くと、B君は布団の上に横たえられ毛布をかけられた状態で、母親が呼びかけても、反応がなかった。薄目を開けたまま身動きせず、意識障害の状態だった。体温は32度しかなかった。
 
 病院に運ばれたB君の死亡確認は午後6時45分。解剖によって脳損傷が死因であると確認された。誰かによって、頭部を床や壁などの“平面用の鈍体”に数回にわたって打ち付けられた可能性が高いとされた。


■虐待のサイン


 大和警察署が本格的に捜査を開始したのは、相次いで2名の死者が出た後、やっと3月に入ってからである。関係者の事情聴取をしていくと、園長が在園時のスマイルマムで、虐待が日常的に行われているという事実が明らかになった。
 
 それは凄まじいまでの虐待の数々だった。死に至る頭蓋骨骨折のほか、上腕部の骨折、足の骨折、顔面打撲挫傷、外傷性口内炎、額のこぶ、3日間連続で鼻腔から出血、下腹部にあざ、片足の麻痺、頭部及び顔面の内出血、鼓膜損傷、顔面擦過傷、等々。1歳〜3歳の10人以上の児童に虐待の限りを尽くしていたのだ。
 
 子どもたちは虐待のサインを出していた。が、親が全く気づかず、園長が逮捕されて初めて認識されたケースもあった。
 
 まだ言葉をうまく使えない子どもたちは、様々な形で、スマイルマムに行くことを拒否しようとしていた。殺されたA君は、スマイルマムがある商店街に差しかかっただけで、体をこわばらせ「こわい」と言うようになっていた。B君は朝、通園のための自動車に乗ることを嫌がり、スマイルマムの近くで車から降りるのを拒否するようになっていた。
 
 託児所の経営もデタラメだった。
 
 雑誌広告などには「保母は全員有資格者、手作りおやつのまごころ保育」などと謳っていたが、実際は出雲自身に保育士の資格がなく(保育所で働いた経験もなく)、資格を持つ従業員もいなかった。また2名以上の従業員を同じ時間帯に働かせることもなく、夜間は出雲が単独で保育に当たっていることが多かった。
 
 また、親に対して保育状況を記載した連絡帳を交付していたが、実際に飲食させていないものを飲食させていたと記載し、さらに園内で児童が負傷しても、その事実を記載することはなかった。
 
 幼児の死亡が確認される前後、児童相談所から報告を受けて、県の児童福祉課が立ち入り調査を数回行っていたが、出雲はその都度虐待を否定し、「経営面も厳しいことから休園したらどうか」という県担当者の指導にも従う姿勢を見せていなかった。
 
 結局、出雲順子は事件が発覚した4カ月後の、同年6月27日、A君に対する傷害致死の被疑事実で逮捕された。そしてB君に対する傷害致死のほか、4人の子どもに5回骨折を負わせた傷害の計7件で起訴されたのである。
 
 まだ大人に訴える言葉を持たない幼児を、密室で虐待した託児所の園長。出雲順子とはいったい、どのような人間だったのか。なぜ彼女は虐待を繰り返すようになったのか。


■もう一つの顔はAV女優


 出雲順子は、昭和45年12月、横浜市西区で生まれた。父親が建築関係会社を経営する家庭の長女である。大和市の隣、横浜市瀬谷区に育ち、中学から相模原の私立女子校に通っていた。

 その後、都内にある建築専門学校の建築工学科に進学し、卒業後は相模原市内の建設会社に入社、営業や建設設計などの仕事に従事していた。
 
 周囲の人たちは一様に、「椅麗で、礼儀正しくて、態度も丁寧な、お嬢さんタイプ。真面目な人で、子どもに暴力をふるう人には見えなかった」という印象を持つ。勤めていた頃は、「BMWを乗り回し、いかにもお嬢さんのOLという感じ」(近所の人)だった。
 
 その出雲順子の人生が狂い始めたのは、勤務先の妻子ある男性社員と交際を始めた頃からだ。結局、この男性との間に、男児が生まれ、認知を受けて一人で育てることになるのだが、そこに至るまでの出雲の行動は、常識では考えられないようなものだった。
 
 その背景には、じつは彼女の特異な“性生活”がある。
 
 出雲順子は、専門学校に在学中から、アルバイトとして、アダルトビデオの女優や、アダルト雑誌のモデルをつとめ、またデートクラブに所属して、不特定多数の男性と肉体関係を持つことで収入を得ていた。建設会社に入社してからも、デートクラブでのアルバイトは継続していた。その一方で、妻子ある男性職員と交際を始めたのである。
 
 その男性との交際は、最初から波乱含みだった。彼と肉体関係が生じるやいなや、出雲は何を考えたのか、これを強姦であるとして、強姦被害者の救済センターに訴えたのだ。
 
 その上、出雲はその男性社員に無言電話をかけ続け、彼が電車で痴漢をしているという虚偽の文書を彼の上司に、出雲と彼がキスをしている写真を彼の妻の実家宛に送り付けたほか、彼に強姦されたというビラを作成して、彼の家の近隣住人のポストに投入するなどしていた。
 
 しかし、そうしている間も、出雲は自ら誘いをかけて、その男性社員との肉体関係を継続していた。しかもデートクラブでのアルバイトも続けており、他の男性2名とも継続的な肉体関係を持っていた。
 
 そんな出雲が自らの妊娠を知ったのは、平成8年9月頃である。
 
 彼女は、男性社員から認知と養育費の支払いを受けるため、彼の妻にまで妊娠の事実を告げたが、男性社員もその妻も支払いを拒否、そのため平成9年4月、東京家庭裁判所八王子支部に調停申し立てを行った。
 
 出産は、平成9年の5月だった。結局、DNA鑑定で彼女の主張が認められ、男性社員が養育費を支払うという調停が成立したのだが、出産までの間、出産費用を稼ぐため、出雲は大きいお腹を抱えたまま、テレホンクラブでアルバイトをしたり、妊婦に特殊な嗜好を持つ客相手の風俗店で働いていたという。
 
 その後出雲は、出産を機に建設会社を退社、子どもを託児所に預けながら、風俗店で働くなどしていた。
 
 その頃、彼女は「週刊SPA!」の“イケてるシングルマザー、コブつき美人を探せ!”というコーナーに、写真入りで登場し、子どもを生んだ経緯を、笑顔で次のように語っている。

「父親は赤井英和似の会社の上司。私は一人っ子で自由に生きてきたので、男性にプッシュされるのがキライ。だから妻子持ちの彼の一歩引いたところがよかったのかも。土日に会えず、寂しい思いをしたこともあったけれど、離婚してほしいとは思わなかった。ただ、妊娠したときは、精神的に不安定になって彼の奥さんに子どもができたと伝えに行ってしまったこともありました。結局、彼の周囲に引き離されて、私は一人で子どもを生む決心をしたんです」

 さらに、「いかつい男の職場が好きで、(中略)夢は10トントラックの長距離運転手」と、今後の抱負を語っていた。
 
 だが、実際に始めたのは託児所経営だった。
 
 大和駅前にスマイルマムを開設したのは、平成10年2月ころ。スマイルマムが入居していたテナントビルの管理人の話では、「会社を経営しているお父さんが亡くなったので、自立するために託児所をやると言っていた」という。
 
 自分の子どもと一緒にいられる仕事というのも、理由の一つだったようだ。
 
 大和市は東京、横浜方面のベッドタウンで、当時は保育施設の足りない地域。駅前に24時間保育の託児所を作るという発想自体は悪くなかった。だが前述の通り、彼女には保育士の資格もなけれ.ば、託児所で働いた経験もなかった。
 
 基本料は月約6万円と、付近の相場よりも安かった。受付カウンターとオモチャの棚、ベッドとテレビという最低限の備品を用意しただけの、簡素なつくりの託児所。子どもたちが遊ぶ部屋の広さは20畳程だった。
 
 園児はそこそこ集まったが、託児所の経営状態は最初から苦しく、サラ金から150万円の借金もしていた。
 
 そして彼女はスマイルマム開設後も、逮捕の直前まで、相変わらず複数のデートクラブやテレホンクテブを利用して肉体を売るアルバイトを続け、アダルト雑誌のモデルをしていた。
 
 いま手元に、彼女がモデルをしていた雑誌のコピーがある。「人妻熟女報告写真集」という副題がつき、「甘味な性愛に溺れる美麗熟女たちの眩しすぎる裸身満載!!」など、過激なコピーが表紙に並ぶマニア向けのアダルト雑誌だ。
 
 その中で、出雲順子は、目線で顔を隠すこともなく、大胆に裸身を晒している。ヘアを露出し、男と絡む、かなりきわどいカットが多くある。
 
 彼女は、託児所の赤字を補填するために、嫌々ながらも自らの肉体を売る仕事を続けていたのか。それとも、体を売り人前に裸体を晒す仕事への欲動に抗しきれない自分が、連綿としてどこかにあったのだろうか。
 
 のちに出雲は、スマイルマムを開設した直後のことを、こう供述している。

「経営者としての責任の他に、病弱な母親と**(子どもの名)を抱え、2人に対して現在と将来を見守っていく責任と、一方、私自身の将来に対する不安とで、自分の気持ちは立ち止まったり休んだりすることができないくらい、がむしゃらに突き進んでいた」

 平成12年11月に始まった公判で、出雲順子は、A君については「あおむけに転倒させて死なせたのは間違いない」と傷害致死を認めたほか、男児の1人にケガをさせた傷害罪についても大筋で認めたが、他の虐待については、「全く分からない」「私がしたことではない」と、ほとんどの容疑を否認した。


■「蝉の声がうるさくて」


 なぜ出雲は、託児所で園児への虐待を始めたのか。
 
 本人の供述によれば(自ら認めた傷害について)、園内で、自分の子どもが遊びのグループから仲間はずれにされたため、特定の子どもを、ベランダに締め出したり、腹部を殴打したり、頬を平手打ちにするようになったという。
 
 自分の子どもが、子ども同士のいさかいから叩かれると、報復として、その相手を平手打ちにしたり、頭を積み木で殴りつけたり、食事を抜いたりするようになった。
 
 自らの子どもを守るために、他の子どもを食らう鬼子母神のような園長。しかし、それだけの動機で、他の園児の傷害致死を含む、おびただしい数の虐待を行うことができただろうか。
 
 出雲の弁護側は、その弁論の中で、スマイルマム開園前後の状況を指摘した。平成10年10月に父親が死去し、数年前から母親が網膜剥離で極度の弱視になった。スマイルマムの経営状態は芳しくなく、サラ金から借金をするようになっていた。出雲順子は当時、精神的に張り詰めた極度の緊張状態を、長期間持続させていた。つまり、精神的ストレスや経済的苦境のために、園児たちへの虐待を始めてしまったというのだ。
 
 この弁論に付け加えるとすれば、誰にも知られず密かに行っていた“もうひとつの仕事”が、彼女をさらに疲弊させていた、ということだろう。
 
 だが虐待の動機について、彼女は前述の内容の他、ほとんど何も語らなかった。それどころか、虐待の詳細について尋問されても、まともに答えなかった。
 
 実況見分に立ち会ったときは笑顔を浮かべ、法廷では犯行の具体的状況を聞かれながら笑うなど、自らの行為の重大さを認識していないような感じだった。
 
 また捜査段階での供述や、公判での証言には、人を食ったようなところがあった。

「頭の中の記憶が本当の記憶なのか、刑事さんたちに覚えなさいと言われたときの記憶なのか、区別がつかない」。

「調書の内容が頭の中の映像と一致しているかの確認はした」。

「(虐待は)理由がはっきりしている場合と、理由がはっきりしない場合と2通りある」。

「一つがいらだちを感じてやってしまうときと、もう一つは自分が2人いる感じがするときと、もう一つはサメのような自分がやっているとき」。

 さらには、「蝉の声がうるさくて、頭の中がぼうっとなってやった」など、不可解な証言もあった。
 
 公判では、母親に対する複雑な感情も明らかにされた。
 
 それによると彼女は、「4歳か5歳のとき、母親に火のついたお線香の先を向けられて、それを突き付けられた」「兄が生きていて、私が死ねばよかったと言われた」など、小さい頃母親から虐待を受けたという感情を、強く抱いていたという。
 
 その出雲の母親は、証人尋問で娘の性格に触れ、「我慢強いです。最高に我慢強いです」と証言している。

「虐待を受けた」という娘に、「最高に我慢強い」と娘を評する母親。その2人の関係が、園児たちへの虐待に、どう関与していたというのだろう。

 事件後、託児ルームに残された箪笥には、艶めかしく、華美な下着類が詰め込まれていたという。“もうひとつの仕事の衣装”を託児所に隠しながら、子どもたちに虐待を繰り返す女。蝉の声に操られ、犯行を「覚えていない」という彼女の証言が真実だとしたら、そもそも子どもたちへの虐待に、たいした理由などなかったのかもしれない。
 
 平成14年6月3日、横浜地裁は出雲順子に、求刑通りの懲役20年を言い渡した。裁判長は、「抵抗できず、暴行を受けたことを訴えることもできない乳幼児への犯行で、極めて卑劣。酌量の余地は皆無であり、刑事責任は極めて重大だ」と述べた。出雲はその判決を不服として控訴。その控訴審で弁護側は、意外なことに、一審の無罪主張を撤回して、事実関係は争わず、「人格障害で犯行時は心神耗弱状態だった」と主張した。出雲本人も、「ご遺族へのおわびが何より先だったのに、自分の主張ばかり押し通そうとしていた。心から悔やんでいる」という内容の手紙を裁判所に提出した。
 
 その結果、東京高裁の判決では「罪を認め、法廷で遺族らに謝罪した」として、懲役18年に減刑、出雲はそれも不服として最高裁に上告したが棄却され、平成15年10月、刑が確定した。結局、犯行の動機や真実が、彼女の口から明らかにされることはなかった。
 
 スマイルマムの幼児虐待事件は、皮肉なことに、その後、無認可保育施設に対する行政の指導や監督が強化されるきっかけになった。平成14年の改正児童福祉法の施行で、無認可保育施設は都道府県への届出が義務付けられ、指導に従わない悪質な施設は公表されるようになったのである。
 
 だが事件そのものは、すぐには終わらなかった。平成15年12月、死亡したA君の両親が、出雲順子と神奈川県を相手取り、計1億円の損害賠償を求める訴えを起こしたのだ。出雲には「単なる過失ではなかった」とし、県に対しては杜撰な立ち入り調査で監督を怠るなどの不作為があったという訴えである。
 
 この民事訴訟に関して出雲は弁護士をつけず、自ら簡単な答弁書を書いている。その中に、次のような奇妙な一項目がある。

「Aさんに対して、怪我をさせたいという意識はありませんでした。Aさんが後頭部に受けたであろう衝撃は大きいものでしたが、それとは正反対に私の感情は『虚無』の状態でした。ですから原告の主張、特に故意感については相容れません」

 受け取った原告の弁護士も、意味不明として一顧だにしなかったという答弁書。だが、この不可解な内容にこそ、彼女の真意が現れているのではないか。
 
 裁判では、出雲順子に約6600万円の支払いを命じる判決が下されたが、県の責任は認めなかった。

 出雲順子は、A君の母親が出て行ったとたん、振り向きざまにA君を床に突き倒し、おそらくは脱衣所の上がりかまちに後頭部を叩きつけたのだ。そして動かなくなった彼を見下ろしながら、落ち着いた声でその母親に電話をかける。
 
 彼女がいう「虚無」とは、いったい何か。「虚無」だから、故意ではなかったというのか、それとも「虚無」それ自体が、罪を犯したとでもいうのか。
 
 そもそもその「虚無」は、何処からやって来て、いつ彼女に宿ったのだろう。
 
 子どもを持つ親でありながら、ほかの幼児には愛情を抱かず、親の心の痛みにも思いをはせなかった出雲。自分の子の養育の糧を稼ぐために他の児童を預かり、致命的な傷を与えた瞬間にも「虚無」の気持ちでいられたという。その異様な様はまさに鬼子母神というしかない。

上條昌史

週刊新潮WEB取材班編集

2020年1月4日 掲載

関連記事(外部サイト)