17年ぶり歌会始に出席された雅子皇后、なのに隣の信子さまが目立ってしまったワケ

17年ぶり歌会始に出席された雅子皇后、なのに隣の信子さまが目立ってしまったワケ

1月16日、令和初の「歌会始の儀」が皇居宮殿「松の間」で行われた(宮内庁提供)

 1月16日、令和初の「歌会始の儀」が皇居宮殿「松の間」で行われた。注目を集めたのは、実に17年ぶりとなる皇后さまのご出席だった。

 しかし、いざ歌会始がはじまると、雅子さまと同等かそれ以上に耳目を引いた女性皇族がいたという。寛仁親王妃信子殿下(64)だ。

 大手メディアの皇室担当記者によれば、

「皇后さまは鮮やかなサーモンピンクのドレスをお召しになられていました。昨年の一連の即位の行事に加えて、年初には新年祝賀の儀や一般参賀もあり、お疲れが溜まっていらしたのでしょう。多少表情に疲労の色が見えましたが、笑みを絶やさず、滞りなく歌会始を終えられました。でも、それよりも気になったのは、信子妃でした」

 というのも、

「雅子妃のお召し物とほぼ同じ色のサーモンピンクのドレスをお召しになっていたのです。皇族が天皇家を頂点としているように、女性皇族の頂点は言うまでもなく皇后さまです。特に歌会始は、天皇皇后両陛下の主催であり、非常に重要な宮中行事の一つ。そのような場において、他の女性皇族のお召し物と色が被るならまだしも、皇后さまのドレスと色が被るとは、驚きました」(同)

 平成最後となった昨年5月1日に行われた「即位後朝見の儀」などでは、皇后陛下をはじめ、女性皇族の多くが白いドレスで臨まれたが、同じ正装でも種類が異なるという。

「『即位後朝見の儀』や『新年祝賀の儀』など、最上級の正装が求められる儀式や行事では、天皇陛下はホワイトタイ、つまり燕尾服をお召しになります。女性皇族は陛下のタイに合わせて、白や淡色で袖が短いローブデコルテをお召しになるのです」(同)

 つまり、ローブデコルテを着用する際は、白か白に次ぐ色が基本であるため、ほとんどの女性皇族は白いドレスを着用していたわけだ。

 一方、歌会始や一般参賀では、

「男性皇族はモーニングコートをお召しになり、女性皇族は長袖のローブモンタントをお召しになる。陛下がホワイトタイではありませんから、女性皇族のドレスの色も白である必要はなく、むしろより華やかな印象になるため、様々な色をお召しになられていた方が好ましいのです」(同)

 さる宮内庁OBも、こう指摘する。

「明確な決まりはありませんが、一般参賀など女性皇族が多く集まる行事では、職員を通じてできるだけ被らないように調整するものです。特に皇后のお召し物と被らないようにするのは、最も気を使うべきところなのですが…」


■過去にも同様の事例


 たしかに、ここ数年の歌会始を振り返れば、皇后陛下と女性皇族が同じ色のドレスを着用しているのは稀だ。

 平成最後となった昨年、紀子妃が皇后(現在の上皇后)の薄桃色のドレスと近い色味のベージュのドレスをお召しになっていたものの、

「昨年の紀子妃のドレスは、美智子さまに比べてはっきりと濃い色をお召しになっているのがわかります」

 と、先のOBは解説する。

 もっとも信子妃については、別の皇室担当記者によれば、過去にも同様の事例はあったという。

「一昨年も、歌会始の信子妃のドレスが皇后さまと同じ色味でした。この年、美智子さまは藤色のドレスをお召しになっておりましたが、信子妃のドレスもまた藤色だったのです」

 加えて、一昨年以上に今年の信子妃のドレスに疑問を抱いた、と続ける。

「今年は17年ぶりに雅子さまがご出席する、令和初の歌会始であり、いかに重要な場であるかは信子妃もご承知のはずです」(同)

“立ち位置”も、

「天皇陛下からご覧になって右隣には秋篠宮家、左隣には雅子さまがいらして、その横には三笠宮家が並びます。当主である百合子さまがご高齢で出席されないので、三笠宮家に合流した信子さまが雅子さまの隣に座る並び順でした」(同)

 天皇陛下が即位され、秋篠宮殿下が皇嗣になられたことで、皇族方の配置も変化した。今年は信子妃が皇后さまの隣におられたのである。

「隣で華やかな同色のドレスをお召しになっていたわけですから、余計目立ってしまったのです。信子妃はお代替わりと絡めて天皇陛下の即位を祝う歌を詠まれていますが、これではせっかく歌に込めたお気持ちも形ばかりに見られてしまいます。ただ、これまでの経緯を考えれば、こうした状況になるのもやむを得ないのかもしれません」(同)

 信子妃は、吉田茂元首相の孫娘であり、「麻生セメント」の創業者・麻生太賀吉を父に持ち、麻生副総理は実兄にあたる。その華麗なる家系と共に、度々寛仁さまとの不仲が取り沙汰されてきた。

「1980年に“ヒゲの殿下”こと寛仁親王殿下とご成婚されましたが、04年以降、ご病気で長らく静養されていた。広く知られている通り、ストレス性喘息などを理由に、信子妃はずっと殿下と別居をしていました。殿下が何度も信子妃の臣戚降下、つまりは離婚を考えたほど、ご夫妻の関係は悪化していたのです。娘の彬子女王や瑶子女王は、殿下を心より尊敬していたので、お二人も信子妃に不信感を抱かれています」(同)

 彬子女王や瑶子女王は、幼少の頃、寛仁親王殿下の父母にあたる三笠宮崇仁殿下(16年に薨去)や百合子妃殿下への批判を信子妃より聞かされていた。が、ご成長と共に信子紀の言動に疑いを持たれ、不信感を募らせていったという。

 寛仁さまが12年に薨去されると、葬儀の喪主は信子妃ではなく、寛仁さまの遺言によるご意向で、彬子女王が務められた。寛仁親王家の当主を決める話し合いの場が持たれることもなく、薨去から一年後、信子妃、彬子女王、瑶子女王は三笠宮家に合流することが発表され、寛仁親王家は廃止となる。

 葬儀だけでなく、一周忌にあたる墓所一年祭の儀にも、信子妃がお姿を見せることはなかった。

「しかし、殿下の薨去から一年後に、信子妃は突如として記者会にお手紙を送って来られ、事実上のご公務復帰を“宣言”されたのです」(同)

 手紙には、“微力ながら復興支援などに尽力させていただきたく存じます”としたためられ、

「手紙の内容通り、その年には被災地を訪問されたり、料理本を出版されたりして、ご活動を再開された。以降、14年には7年ぶりに歌会始にご出席され、現在に至るまでご公務を続けています。しかし、今も女王の住む三笠宮東邸(旧寛仁親王邸)には戻らず、ずっと宮内庁の分庁舎で暮らされている。16年にはお荷物を取るため、お二人が留守の間に三笠宮東邸に信子妃が鍵屋を使って入った“侵入騒動”まで起きています」(同)

 母娘の関係は、修復するどころか溝が広がっているという。

「こうした騒動を起こす信子妃に対して、宮内庁も困惑しているようです。これまでの経緯やそのお振る舞いから、彬子女王や瑶子女王は言うに及ばず、職員を通じてでさえ、他の女性皇族とも意思疎通が図れていないままなのです。皇后さまのドレスの色と被らぬよう調整するのもままならない状況だったのでしょう」(同)

 宮内庁は今月21日、信子妃が2月上旬にフランスを訪問されると発表した。アンバサダーを務める国際柔道連盟の大会などを観戦されるご予定だ。

 精力的にご活動の幅を広げる信子妃を目にして、彬子女王や瑶子女王のお気持ちが変わる日は来るのだろうか。

週刊新潮WEB取材班

2020年1月30日 掲載

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