新幹線殺人で無期懲役「小島一朗」からの年賀状 彼が望む“一生刑務所暮らし”の意味

新幹線殺人で無期懲役「小島一朗」からの年賀状 彼が望む“一生刑務所暮らし”の意味

小島一朗被告

 2018年6月の新幹線殺傷事件では、小島一朗被告によって1名が命を落とし、2人が重傷を負った。昨年、横浜地裁が下した無期懲役という判決に、彼は何を思うのか――。接見を重ねてきたインベカヲリ★氏がレポートする。

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 去年12月26日、面会室での小島一朗は穏やかだった。取材を始めて約1年、会うのは13回目。12月18日に無期懲役の判決が出て以降、初めての接見である。けれど小島は、これまでのどの日より落ち着いて見えた。

「無期懲役になって、今はどういう気持ち?」

 私が聞くと、

「よかったなぁ」

 小島は即答した。

 無期懲役囚となる人物との会話とは思えない軽いやりとり。それは雑談というしかない時間だった。世間の反応を知りたがる小島に、私は判決当日のことを話した。

 判決の日、裁判所の外には『殺人鬼は処刑せよ』というプラカードを持った男性が立っていた。被告人の望み通り「無期懲役」の求刑をした検事への抗議である。裁判長から求刑通りの判決が下されると、男性は裁判所にある立て看板を蹴り飛ばし怒鳴っていた。

「被害者の関係者ですか?」

 小島は冷静に聞いてきた。

「いや、違うと思うけど」

「裁判員でも『死刑にしろ』という人は2〜3人いたみたいです。左に座ってた人も死刑にしたがってたし」

「そんなことわかるの?」

「いや、わからないけど。質問も多かったし、『永山基準は絶対ですか?』って聞いてたから、死刑にしたがってたと思う」

 自分を死刑にしたい人たちの話をしているのに、小島の表情は驚くほど自然だ。私はあらためて事件を思い起こし、彼が人を殺していることが、信じられない気持ちになった。

 2020年元旦、小島から年賀状が届いた。色鉛筆とペンで書かれた、一富士二鷹三茄子。若い世代では年賀状のやり取りも珍しくなった昨今、これほど気合の入った手書きの年賀状を貰うのは何十年ぶりである。受け取った私も、心がポカポカした。でもやはり、この朗らかな展開はどう考えてもおかしい。


■ハンガーストライキ


 去年末、私は「週刊新潮」に、小島一朗による手記と、解説を載せた。手記には、刑務所に入るのが子どもの頃からの夢であったこと、「裏寝覚」(長野県木曽郡)でのホームレス生活の最中に、警察から暴行を受けたことが犯行のきっかけになったと記されている。また、刑務所は自身が育つはずだった「岡崎の家」の代償で、そこに「理想の家庭」を求めているということを解説した。

 私はこれまでの対話の中で、彼が何か言葉にならないものを抱えていると感じていた。手紙は何十通と貰ったし、どれも長々と自分の考えを綴っている。しかし、書いてある言葉を頭で理解することはできても、腑に落ちることはなかった。「なぜ刑務所なのか」「どうして人を殺したのか」、結局いつも振り出しに戻る気分だった。

 その心の片鱗にようやく触れたように思えたのは、公判を終え、あとは求刑を待つのみという時期の面会でのことだった。

 小島は、刑務所に入ったら模範囚になり「優遇区分においては第一類に、制限区分においては第一種に、労務作業においては第一等工になりたい」と言っていた。

 しかし、それ以外の生活として、この時は「一生反則行為をやり続けて、保護室、観察室に行き続けること」も考えており、この2つは「同じくらい良い生活」だと言ったのだ。

 実は彼は、小田原拘置支所にいたとき、2週間に及ぶハンガーストライキを行っている。それは、私に手記を託す際、手紙が枚数超過したため、その許可を出させるという些細な理由からだった(拘置所から送る手紙には枚数制限がある)。小島は、食事を完全に拒否したため保護室に入れられ、そこで毎日、結跏趺坐(けっかふざ)を組み瞑想していたという。あげく点滴が必要になり、より設備のよい横浜拘置支所に移送されてきたという経緯があった。

 同じように、彼は刑務所でも法律を試すことを画策しているようだった。何かをやり、それによって懲罰を受ける、ということに特別な意味を見出しているのだ。

「私が刑務所でご飯を食べなかったら、点滴だけを受ける生活になって、骨と皮だけになって老衰のように死に至ります」

「骨と皮になることで、私には生きる権利があるということを、法によって証明したいんです。『裏寝覚』で私は、警察から『生存権はない』と言われました。本当に生存権が人間にあるのか、法律が本当に正しいのかを証明したいんです」

 私は面会の最中に、その言葉を理解することはできなかった。しかし、これまで貰った手紙を読み返し、よくよく考えているうちにハッとした。彼が本当に求めているのは「生きる権利」、ただそれだけなのではないか。いや、何かの行為を起こし、その反応が返ってくることで、自分に「生きる権利」があることを確認したいのではないか。


■彼が望むもの


 小島一朗を語る上で、重要なのは「岡崎の家」だ。これは大工だった母方の祖父が、「一朗が生まれた記念」として、岡崎市にある母の実家の敷地内に建てた家である。共働きの両親の都合で、彼は3歳までをそこで過ごし、母と祖父母によって育てられた。その後、父親の家である一宮市の家に移り、一家全員が一緒に暮らすことになるのだが、それを快く思わなかったのが、同居する父方の祖母だった。「お前は岡崎の子だ。岡崎に帰れ」「お前は私に3年も顔を見せなかった」、これが彼にとって物心ついていからの最初の記憶である。一方の姉は、生まれてからずっと一宮市の家にいるため、月々の小遣い、服、お菓子など、あらゆるものに違いがあったという。

 いつしか彼は、少年院に「食わせてもらう」ことを考えるようになった。この一宮の家では、「生きる権利」を感じることができなかったのだろう。それは決して大きな要求ではなかったはずだ。

 ある日の手紙には、こう書いてある。

〈生存し続けたいというのは、私のワガママであり、人並みの生活がしたいというのはゼイタクです。食事がしたい、風呂に入りたい、服がほしい、ということは、私は求めてはならず、それが手に入らないということはササイナコトなのです。私はそれが当然であり、当たり前であり、常識であることを受け入れております。だから当時は少年院に行くことにしました。こんな家族、相手にするだけ時間の無駄なので。少年院に入ったほうが早いでしょう。そこでは、生存したいということはワガママではなく、食事をしたい、風呂に入りたい、服がほしい、ということはゼイタクではありません〉
(2019年6月5日の手紙)

〈これがササイナコトだと判断したのは児童相談所と精神科医です。そうです。確かにササイナコトでした。刑務所に入れば、すべての問題が解決するのに、どうして入らないのか。これがササイナコトなのは、当時なら少年院に入ればよいからなのです。そういう解決手段があるのに、そうしないのはワガママであり、そういう解決手段に与るために罪を犯して、自分の手を汚したくないというのはゼイタクなことです。私はこれを子どもの頃から分かっておりました。少年院に入れたらよかったのに、とつくづく思います〉
(同上)

 彼が望んでいるのは、最小限の「生きる権利」でしかない。そして、それを国に託したのだ。

〈私は明らかに刑務所に家庭を求めている。刑務所すら代償行為に過ぎないのだ。保護室はその究極である。というか、私にとって家庭とは、そういう原風景があり、一番それに近いのだ。少年院が一時的に入る場所だった、と当時の私が位置付けていたのは、まさに家庭の代わりだ。そして無期刑になりたいのは、つまり家庭に引きこもるということだ。国家とは神であり、神とは岡崎(私が遣うある特殊な意味における)であり、岡崎(私が遣うある特殊な意味における)とは私の理想の家庭のことであり、人格神ではなく、空間であり、力そのもの。刑務所は岡崎だ〉
(2019年5月13日の手紙)

「岡崎の家」は、彼にとって「理想の家庭」だった。しかしそれは、現実の「岡崎の家」とは違う。幼い頃より父方の祖母に言われた「お前は岡崎の子だ。岡崎に帰れ」から生まれた、幻想としての「岡崎」である。彼は、3歳以前のことを覚えていないために、自分の命が守られる場所として「岡崎」を想像したのだろう。そして「岡崎」の代償として、国家に家庭を求めた。

〈刑務所が岡崎であるには、その空間に力そのものがなければなりません。その力とは、法律のことです。だから私は刑事施設被収容者法第62条を主張する訳で、これが守られない場合、私は死んでしまう訳ですが、だとすればこの世に岡崎という空間はどこにもない訳だから『いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし』という発言が飛び出て、『たとえ全世界を儲けても、己が魂を損じればいったいなんになろう』という行動にでるのです〉
(2019年5月21日の手紙)

 彼は、法律によって自分の命が守られるかを確認し続けようとしている。それはイコール、国家が家庭になりうるかを確認することでもある。

 考えてみれば、小島はホームレス生活で警察から暴行を受けているときも、執拗に「人権」や「生存権」を主張している。しかし警察は、それを無視した。

 一方、刑務所には、被収容者を死なせてはいけないという法律がある。例え食事を拒否しても、点滴を打たれて無理やりに生かされる、関係が切れることもない、それが刑務所だ。彼はそれを逆手にとって、自分に「生きる権利」があるのかを試そうとしている。そうすることで、子どもの頃より求めていた安心感や充足感を得ようとしているのだとしたら、そのために人を殺すしかなかったのだとしたら、あまりにも絶望的な話だ。

 最後の面会の日、私は小島に聞いた。

「これは基本的人権をめぐる戦いなの?」

 すると小島はやんわりと否定した。

「いや、私は基本的人権にそこまで詳しくないですよ。今、岩波書店から出てる人権に関する本を買って読み始めたところで。裁判を通して法律の面白さに気づいて、私もこっちの道に行けばよかったなと思いました」

 彼は言葉通り「基本的人権」について答えた。今考えると、私は「生存権」と言うべきだったのだと思う。それなら答えもかわってきただろう。

「弁護士になればよかったのに」

 この時、私は思わず言ってしまった。小島は地頭が良く真面目な人間であることは、この1年の取材を通してよくわかっていた。手紙には、聖書や仏教書、古典や哲学書からの引用が多々あった。事件さえ起こさなければ、いろいろな可能性があったはずだ。しかし、そんなこと今更言っても何の意味もない。

「貧困者シェルターにいた頃、行政書士の勉強をしようとしてたことはあったんですよ」

「でも、もう30年は確実に出てこれないよ」

 私は挑発するつもりで言ってみたが、小島はいたって穏やかなままだった。

「30年どころか、私は仮釈放もよしとしませんので」

 後悔は微塵も感じられなかった。

インベカヲリ★
1980年東京生まれ。編集プロダクションを経て、写真家兼文筆家に。写真集に『理想の猫じゃない』『ふあふあの隙間』『やっぱ月帰るわ、私。』、著作に『のらねこ風俗嬢―なぜ彼女は旅して全国の風俗店で働くのか?』(忌部カヲリ名義)など。

週刊新潮WEB取材班

2020年2月6日 掲載

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