【新型コロナ】多数登場の「専門家」「コメンテーター」の信頼性をどう見分けるか

 新型コロナウイルス関連では、マスメディアに様々な「専門家」が登場して、解説をしてくれている。「コメンテーター」が一言加えることも多い。

 問題は、発信者によってかなり物言いやトーンが異なることだろう。そもそもこの病気自体、「インフルエンザと大差なし」というスタンスの専門家もいた。また、今回一躍有名になったPCR検査についても「どんどんやるべし」という専門家もいれば、「医療崩壊を招くから慎重に」という専門家もいた。

 このような状況は、多くの日本人にとって既視感があるものだろう。2011年、東日本大震災後の原発事故の際にも同じような光景が見られたからだ。ある専門家は「原発は大丈夫」と楽観論を口にし、別の専門家は「日本は終わりだ」とばかりに悲観論を唱えていた。

 結局、事態が刻々と変化する以上、正解がわかるのは時間が経ってからということになるのだが、それでもある程度は発言の真贋を見分けたいと考えるのは人情だろう。誰を信用して、誰を無視すればいいかは、個人の行動を決める際の指針にもなり得る。

 ジャーナリストの烏賀陽弘道氏の著書『フェイクニュースの見分け方』には、ネット登場以降、より多様になった発信者の信用性をどう見分けるか、その具体的なポイントがいくつか挙げられている。以下、同書をもとに見てみよう(引用はすべて同書第6章「発信者を疑うための作法」より)。


■(1)フォロワー数は信用を保証しない


 SNSのフォロワー数はその発信者の人気を示す一つのバロメーターとはなるかもしれない。

「しかし、ごく当たり前の事実として、数字は質を保証しない。ネットでの注目度指数が高い発信者が『質の高い言論』を発しているとは限らない。ネットでの注目度の高い発信者がより『正確な事実』を発信するかというと、両者の間には何の相関関係もない」

 では、どうやって信用できる発信者であるかを見分けるか。これについて烏賀陽氏は次の(2)〜(5)を挙げている。


■(2)引用の正確さで見分ける


「とてもシンプルだが、意外と有効なのは、正確な引用を行っているか否かを見るという方法だろう(略)

 (1)引用が正確かどうかで、その発信者が伝える「事実」の正確さが簡単にわかる。

 (2)発信者が事実の正確さにどの程度注意を払っているかがわかる。

 なぜ引用が手近な測定方法なのかというと、オリジナルを見つけるのが簡単だからである。活字情報(雑誌、書籍、ネット記事など)の引用なら、ネットで検索すればよい」

 往々にして、自分が気に入らない相手、攻撃したい対象について言及する時に、相手の発言を歪めたり、意識的に発言を切り取ったりする人がいる。そういうことを常習的に行っている人はあまり信用できないということになるだろう。


■(3)正確な言葉の定義に忠実か


「当たり前だが、どんな言葉にも『正確な定義』がある。特に社会的な論点にかかわる言葉はまず『何が正確な定義なのか』を確かめないといけない。これは『事実の正確性を守る』という点で重要であることは言うまでもない。(略)

 ネット上の論争を見ていると、論争参加者が『同じ言葉』について論じながら、それぞれ違う定義で主張を繰り返して、議論がすれ違っているのをよく見かける。議論を始める前に、議題となる言葉について論者の定義が一致しているかどうか、確認する作業がまず必要なのだ」

■(4)専門の著作はあるか


 聞いたことがない発信者の名前をウィキペディアで検索する人は多いだろう。しかし、烏賀陽氏はまずアマゾンで名前を検索してみることにしているという。

「アマゾンは、著者のデータベースとしても有用である。過去の著作、その出版社、内容のほか、著者の略歴などが掲示されている。

 日本語版ウィキペディアに関する限り、私はその内容を信用していない。匿名者が嫌がらせやいたずらで書き換えることができるからである(略)

 アマゾンで氏名を検索すると、次のようなことがわかる。

(1)略歴。生年、学歴、職歴など(2)過去の著作の有無。本を書くことの職歴の長さ(3)著作をどれくらいのペースで書いているか(4)どんなジャンル、テーマ、内容の本を書いているのか(5)著作は単著か共著か(6)書き下ろしか、連載のまとめか。対談本か(7)どこの出版社から出しているのか。自費出版か」

 もちろん本を出しているから信用できるという単純な話ではない。ただし、一冊を書くにはそれだけの情報量を持ち、調査、取材、執筆の力を有し、さらには構成を考える設計力も求められる。また、読者を飽きさせないようにする力、個人で作業を完結させる能力、テーマを考える着想力も必要だ。こうした総合的な力を持たないと、まともな本を書けない。それだけに、こうした条件をクリアしている著者には、一定の信頼が置ける、と烏賀陽氏は述べている(ただし、いい加減な作りの本などもある点には要注意)。


■(5)何の「専門」家なのかを確認する


「自分が新聞や週刊誌の記者だったころのことを考えた。科学や法律など、自分が不案内な分野を取材するとき、大学教授など『専門家』『研究者』の話を聞きに行く。記者にとって取材対象は『事件が起きて初めて出会う分野』であることのほうが多い。専門知識どころか基礎知識すら持っていないことのほうが多い。その程度の知識なので、何から取材していいのかもわからない。そういった初歩的なことを間違えないように最初に全体像を頭に入れる意味がある。まずはそういう大きな『方向性』を教えてもらう。最終的には『記者ひとりがそう言っているわけではなく、専門家も是認している』という補強材料として登場してもらう。

 こうした『記者の指南役』を了解している学者も多数いる」

 こうした専門家の存在は記者にとっては心強く、また便利でもある。ただし、気を付けなければいけないのは、彼らが中立だとは限らない点だろう。

「『専門家』がいかなるバックグラウンドの持ち主で、いかなる立場から発言しているのか。それは発言にどういう影響を与えているか。なぜその専門家を登場させたのか。旧メディア・インターネット問わず、読者にそれを提示する記事はほとんどない。本来、読者が情報を理解するためには、この構造は極めて不親切である。原発事故のようなクライシスのときには致命的になりうる。

 専門家たちは、科学や合理に基づいた真実を発言するとは限らない。『利害』や『立場』にそって発言をする。それが日本社会が原発事故で知った大きな教訓である」

 幸いなことに、デマも含め情報が氾濫している中、国民はある程度落ち着いているようにも見える。これもまた、幾多の修羅場と自粛を経験してきたゆえの国民性ということだろうか。

デイリー新潮編集部

2020年4月3日 掲載

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