鬱になった天皇妃 藤原不比等と宮子

 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ〜んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第5回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!


■藤原氏出身で、初めて天皇となる皇子を生んだ宮子の悲劇


 エリオット・レイトンによると、極端な階級移動は、「上昇するにせよ下降するにせよ」大きな不安を生み、差別や虐待につながることが、多くの研究で実証されています(※1)。

 その伝でいくと、奈良時代の藤原氏などは急速な成り上がりを遂げたと言えますが……彼らは「にわか成金」では終わらず、一つ一つ地歩を固め、天皇家の外戚として長く盤石の地位を築くことになります。

 その大きな最初の一歩が、645年の乙巳の変です。この時、歴史上に彗星の如く現れた中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は、中大兄とタッグを組むことで蘇我氏を凋落させ、皇太子の座を射止めた中大兄をバックアップすることで権力の中枢に近づきます。それでもなお、天皇家に娘を入内させるには及ばず、天皇だけが愛せるはずの采女・安見児〈やすみこ〉を賜って妻を通じたつながりを得たに過ぎませんでした。即位した中大兄(天智天皇)の皇后は、蘇我氏を母に持つ古人大兄皇子の娘・倭姫王〈やまとひめのおほきみ〉だったし、後宮で仕える嬪〈みめ〉は蘇我氏や阿倍氏でした。宮人と呼ばれる下位の妻にも藤原氏は食い込むことはできなかったのです。

 ちなみに当時の天皇妃のランクは、上から皇后→妃→夫人〈ぶにん〉→嬪で、宮人はさらに下の位置づけです。

 藤原氏が娘を天皇家に入内させられるようになったのは、天智の弟・天武の代になってから。

 それも『日本書紀』の序列は、(1)皇后のう(へんが盧でつくりが鳥)野讃良皇女〈うののさららのひめみこ〉(のちの持統天皇)、(2)彼女に先立ち妃となっていた姉の大田皇女(天武即位当時、故人)、(3)二人の異母姉妹で妃の大江皇女、(4)彼女らの異母姉妹で妃の新田部皇女。これら4人の天智皇女の下の夫人として(5)に初めて鎌足の娘・氷上娘と、(6)その妹の五百重娘が現れます。(7)は蘇我赤兄の娘・おほぬのいらつめ(漢字は系図1を参照)で、同じく夫人。天智朝の後宮にはおほぬのいらつめの姉妹の常陸娘が入っていたのに、鎌足の娘は入っていなかったのに比べると、天武朝では大いに躍進したと言えます〈系図1〉。

 こうして天武天皇に初めて娘を入内させることができた藤原氏ですが、生まれた皇子(新田部皇子)が即位するまでには至りません。藤原氏腹の皇子が即位するのは、持統の孫の文武の子・聖武天皇に至ってからです〈系図2〉。

 それもかなり無理な綱渡りを経ての即位というか、そもそも即位せぬまま死んでしまった草壁皇子の子の文武が即位することに無理があって、執政をしていた高市皇子の死後、持統(原文は“皇太后”)が王たちを集め、“日嗣”(皇太子)を立てることを相談する。けれど、皆の議論が紛糾し、なかなか意見がまとまらぬ様が、『懐風藻』には記されています。持統は子の草壁死後、皇太子を定めず、高市皇子を太政大臣にして政務を執らせていました。しかも『懐風藻』のこのくだりでは、持統が皇太后と呼ばれていることから、彼女の即位はなく、高市皇子が天皇だったという説もあります。

 この時、大友皇子の子の葛野王が、兄弟相続ではなく、子孫相続を主張したため、文武(当時は軽皇子)が皇太子になることが決まったのですが、天武の遺児もまだ存命中の当時、文武の立太子や即位がすんなりとはいかなかったことを物語っています。

 この文武に、鎌足の息子・不比等の娘・宮子(?〜754)が入内します。

 宮子の母は賀茂比売ですが、道成寺に残る伝説(※2)によると、宮子は紀伊国の漁村の生まれで、髪の美しさが都人の目にとまり、不比等の養女となって、後宮に入ったといいます。

 そのあたりの真偽は不明ですが、彼女の生んだ首皇子〈おびとのみこ〉が藤原氏腹初の皇太子となり、聖武天皇となります。平安中期くらいまでは、天皇家に入内するのすら厭う“ふるめきの族〈ぞう〉”(古い一族)というのがあったようですから(※3)、まして奈良初期には、必ずしも天皇家に入ることが万々歳ではないにしても、新興氏族の藤原氏にとって、そこに食い込み、生まれた皇子を即位させるというのは、権力を得るためのパスポート、悲願だったに違いありません。

 が、入内させられる宮子にしてみれば、戦国時代の朝日姫(豊臣秀吉の妹で、農民出身の夫がいたにもかかわらず、兄に離婚させられ、徳川家康と結婚させられた)のような戸惑いと悲しみを覚えたのではないか。

 というのも宮子は、藤原氏腹初の天皇となる聖武を出産後、鬱状態となって、次に我が子に会うことができたのは、なんと聖武が37歳になってからだったのです。その様を『続日本紀』はこう伝えています。

「皇太夫人(藤原宮子)は鬱状態に沈み、長いあいだ人間らしい活動ができなくなったため、天皇をお生みになって以来、かつて一度もお会いにならなかった」(天平九年十二月二十七日条)

 それが、僧正の玄ぼう(へんが日でつくりが方)法師が一度看病しただけで、目が覚めたように正常になった、というのです。

■親の道具にされた娘


 今も皇室に入るというのは相当なストレスであることは、雅子皇后が長いこと適応障害に苦しまれたのを見ても察することができます。まして1300年もの昔では適切な治療を受けることもできず、36年間も我が子に会うこともままならぬまま、生きざるを得なかった……。宮子はどんな思いで36年という長いあいだ、人生でいちばん輝かしいはずの壮年期を過ごしたのか。宮子にのしかかったストレスの大きさを思うと、目頭が熱くなります(こういう病んだ母をもった聖武天皇も、思えばつらいことだったでしょう)。

 宮子の気持ちも考えず、己の権勢欲のため、政治のコマとして彼女の人生を奪った不比等は、今で言うなら紛れもない毒親です。

 不比等がいかに権勢を意識していたかは、結婚相手を見ても分かることで、最初の正妻は名門・蘇我氏のお嬢様の娼子、次はやり手の県犬養橘三千代です。

 もちろんそこには恋愛感情もあったかもしれない。けれど、とくに橘三千代との結婚は「夫不比等の政治基盤を固め」(※4)たと言われるほど、彼に利益をもたらしました。

 また、系図を作ってみると、蘇我娼子は、持統の母の蘇我遠智娘(や元明の母の蘇我姪娘)のいとこに当たることが分かります〈系図2〉。

 不比等は、持統の母のいとこを妻にしていたわけで、娼子との結婚時期は分からぬものの、長男の武智麻呂の誕生が680年ですから、679年ころでしょうか。このころすでに天武の皇后だった持統に、娼子を通じて近づこうという意図があったのではないか……。一方、県犬養橘三千代との結婚は娼子の死後と言われます。三千代は、持統の異母妹の阿陪皇女(草壁皇子妃。息子の文武死後、即位=元明天皇)に仕えていました。文武はこの阿陪皇女の息子。その後宮に娘の宮子を入れることができたのは「三千代の協力が欠かせなかったはずである」といいます(※4)。

 天智天皇の御落胤説もある不比等ですが(※5)、その真偽はともかく、御落胤が疑われるほどの急速な出世をしたことは確かで、それは功利的な結婚や、娘を犠牲にした政治戦略に負うところが大きかったと私は考えます。

 不比等と共に権勢を目指した妻はともかく、可哀想なのは道具にされた娘です。

 天皇家に入内した娘が、かなりつらい思いをしていたであろうことは、先にも挙げた平安中期の『うつほ物語』が伝えています。

 この物語では、天皇家に入内した“あて宮”が、父をこうなじっている。

「こうも世間から隔たった世界に据えられて、煩わしいことばかり耳にして、聞きたいような素晴らしいことは、誰も彼もお聞きになるのに私は聞けない。悩みがなく、思い通りのことを見聞きしてこそ理想でしょうに」(「楼の上 下」巻)

 彼女には熱心な求婚者たちがいて、その一人に彼女自身も心を寄せていたのです。そのためこんなふうに言って泣いたこともあります。

「つらすぎる。私のことを好きだった人と結婚すべきだったのに」(「国譲 上」巻)

 それもこれも、

「本人が物凄く嫌がったのに、朝廷も親も躍起になって無理強いしたから」(「国譲 上」巻)

 と、父親は言います。

『うつほ物語』はフィクションですが、現実にこうした女性がいたからこそ物語にも描かれているのです。

 この手の娘たちの苦悩については、回を改めて詳しく触れますが、宮子はこのあて宮のように自分の感情をぶつけることもかなわず、病に沈んでいったのでしょう。

※1 エリオット・レイトン『親を殺した子供たち』(木村博江訳、草思社)
※2 『宮子姫伝記』
※3 『うつほ物語』「内侍のかみ」巻
※4 義江明子『県犬養橘三千代』(吉川弘文館)
※5 『大鏡』「藤原氏物語」

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。

2020年6月5日 掲載

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