8月末で閉園する「としまえん」 私鉄系遊園地はさらに淘汰される時代へ

 8月末をもって、としまえんが閉園する。

 としまえんは、西武鉄道グループ系列が運営する遊園地。としまえんの閉園によって、東京23区内から鉄道系の遊園地が姿を消すことになる。

 東京23区内には、東武鉄道が運営する兎月園、東急電鉄が運営する多摩川園・玉川第一遊園・第二遊園、王子電気軌道(現・東京都交通局)が運営している荒川遊園など、多くの遊園地が乱立していた。

 王子電気軌道は1942年に東京市(現・東京都)へ事業譲渡。鉄道事業が市電に組み込まれると、荒川遊園は閉園を余儀なくされる。しかし、戦後に区立あらかわ遊園として復活。現在も貴重な区立遊園地として主に未就学児童から人気を博している。

 激動の時代を生き抜いた遊園地もいくつかあるが、昨今のテーマパーク界の勢力図は東京ディズニーリゾートとユニバーサル・スタジオ・ジャパンの2強時代に突入している。

 しかし、かつての鉄道と遊園地は切っても切り離せない濃密な関係にあり、鉄道会社が遊園地業界を牽引する時代があった。

 特に私鉄にとって遊園地の経営は入園料を得られる大きな副収入源であり、沿線に遊園地をオープンさせることで遊園地へと足を運ぶ鉄道利用者を生み出せることから、鉄道会社そのものの収入を支える起爆剤でもあった。

 遊園地を沿線につくり、鉄道の収入を増やそうとする誘客戦略は、昭和期には私鉄のビジネスモデルとして定着していた。自社沿線に遊園地をつくるというビジネスモデルを編み出したのは、阪急グループの総帥・小林一三というのがこれまで定説化していた。

 通勤時間帯に都心の大阪方面へと走る電車が満員であるのに対して、逆方向の郊外へと走る電車がガラ空きである光景を見て、小林は効率的に利用者を生み出す方策を検討する。その答えとして、都心とは逆側の郊外に遊園地や動物園といったレジャー施設をつくることを発案した。

 それまでにも浅草花屋敷(現・浅草花やしき)など、日本にも遊園地は存在していた。いまや阪急と同じグループ企業になっている阪神は、長らく大阪-神戸間を阪急と争うライバル鉄道でもあったが、その沿線には酒造で財をなした豪商たちが地域振興を目的とした遊園地をつくっていた。それらは阪神が建設資金の一部を補助したり、後に運営主体が阪神電鉄に切り替わったりしている。

 このほど閉園するとしまえんも、もともとは西武が運営する遊園地ではなかった。としまえんの敷地は実業家の藤田好三郎の邸宅で、整備された庭園が藤田の意向によって一般開放されたことが遊園地としての出発点でもある。

 当時、鉄道会社に遊園地をつくるという発想はなかった。小林が考案した鉄道と遊園地のコラボレーションは宝塚歌劇団を生み出すことにもつながり、そうした成功もあって私鉄のビジネスモデルとして半ば伝説化していった。

 他社も沿線を盛り上げるために小林のアイデアを模倣。こうして、私鉄の沿線には鉄道会社の直営もしくは系列会社によって運営される遊園地が次々にオープンしていった。

 1927年、西武鉄道の前身である武蔵野鉄道が豊島線を開業。としまえんは練馬駅から歩いても15分〜20分の距離だが、豊島園駅が開業したことによって豊島園へのアクセスは飛躍的に向上。これが、来園者を急増させる。

 豊島園は鉄道と遊園地のシナジー効果が発揮されたケースだが、それでも武蔵野鉄道の経営は苦しく、経営権は不動産開発で成長してきた堤康次郎が率いる箱根土地(現・プリンスホテル)の手に渡る。そして、豊島園も箱根土地の系列会社に組み込まれた。

 これを機に、としまえんは相乗効果をさらに発揮。都心から近い遊園地として不動の存在になっていった。

 しかし、1970年代にさしかかると、国内の遊園地を脅かす外資の波が押し寄せてくる。それが、ディズニーランドの日本進出だった。

 ディズニーランドの日本進出は、国内の遊園地事業者にとって黒船襲来ともいうべき出来事だが、実は黒船襲来は国内の遊園地事業者・興行関係者が盛んに誘致した結果でもある。国内の遊園地事業者・興行関係者は戦後間もない頃からディズニーランドの誘致を開始。高度経済成長期の入り口に入る頃には盛んに働きかけるようになっていた。しかし、ウォルト・ディズニー社はクビを縦に振らず、ディズーランドの日本誘致はなかなか実現しなかった。

 京成電鉄の社長・川崎千春は、自社が経営するバラ園のバラを買い付けるために渡米した経験があり、そのときにディズニーランドに魅了された。

 京成を中心とするジョイントベンチャーをつくり、川崎は千葉県の手賀沼周辺にディズニーランドを誘致する計画を立てた。しかし、その計画は失敗に終わる。

 諦めきれなかった川崎は、ジョイントベンチャーの構成会社を一新。体制を仕切り直して、ディズニー誘致に再挑戦した。

 川崎の執念が実り、東京ディズニーランドは1983年に開園。ディズニーランドも、そして2001年に開園した東京ディズニーシーも鉄道会社系列の遊園地とは認識されることはないが、ディズニーランド・シーの運営会社であるオリエンタルランドは京成電鉄が筆頭株主を務める。

 そうした資本関係もあって、舞浜駅からディズニーリゾートを周回するモノレールの舞浜リゾートラインは京成グループに加盟している。

 東京ディズニーランドの開園とその後の躍進は、遊園地の概念を大きく変えた。それと同時に鉄道会社が相乗効果を出すために遊園地を経営するといった私鉄のビジネスモデルも廃れていった。

 としまえんの跡地の一部は、東京都が計画する防災公園になることが決定している。しかし、それは一部であり、残りの部分はいまだ確定していない。現在はハリー・ポッターのテーマパークになると報道されているが、それもまだ未確定な部分が大きい。

 としまえんという遊園地は消えるが、新たな遊園地ができる可能性は残されている。それでも、としまえん跡地が西武鉄道とは関連性のない事業地になることは間違いない。

 遊園地という文化と娯楽は私鉄が生み育ててきた。西鉄いまだ富士急行系の富士急ハイランドや西武系の八景島シーパラダイス、名古屋鉄道系のリトルワールド、京阪電鉄系のひらかたパークなど、いくつかの私鉄系遊園地はいまだ健在だ。

 しかし、私鉄系遊園地が総じてくだり坂であることは否めない。私鉄の経営から離れた後、自治体の管理・運営に切り替わった遊園地も数多い。

 前述した王子電気軌道の荒川遊園が区立のあらかわ遊園に姿を変えたほか、小田急電鉄運営の向ヶ丘遊園は一部が川崎市に管理委託された。京成電鉄運営の谷津遊園は一部が日本住宅公団(現・都市再生機構)の団地になり、残りは習志野が管理するバラ園になった。西日本鉄道が運営していた到津遊園は2000年に閉園し、2002年から北九州市営として再出発。名称は到津の森公園と改められている。

 一時代を築いた私鉄系遊園地は、レジャーの多様化、そして大規模化によって淘汰が進んだ。そして、今般のコロナ禍によって、再編は加速するだろう。

 鉄道会社と遊園地の蜜月関係は、終わりを迎えつつある。

小川裕夫/フリーランスライター

週刊新潮WEB取材班編集

2020年8月4日 掲載

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