「先妻の子」と「後妻業の女とその息子」の間に起きた骨肉の相続争い! 勝ったのは……

 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ〜んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第10回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!


■『十六夜日記』は息子のための訴訟日記


 やり過ぎ感のある母といえば、前回の『蜻蛉日記』道綱母に続き、鎌倉時代の阿仏尼(1222から1224〜1283)もそのひとりです。

 阿仏尼は、紀行文学の『十六夜日記』の作者として有名ですが、実はこの日記、夫・藤原為家(1198〜1275)の死後、自分が生んだ為相(1263〜1328)と継子の為氏(1222〜1286)が土地の相続で争い、その訴訟のために阿仏尼が京からはるばる鎌倉に下った時の旅行記なんです。

 為家はかの有名な藤原定家の嫡子、歌壇の重鎮です。

 彼は、阿仏尼と出会う前、すでに為氏や為教(1227〜1279)といった成人した子がいました。阿仏尼も男女2人の子持ちでした。それが1253年ころ、つまりは阿仏尼が30から32歳のころ、56歳になっていた為家と馴染みになって、定覚(父については異説あり)、為相、為守(1265〜1328)を生みます。そして、為家の子のひとり源承の『和歌口伝』十によれば、阿仏尼は、

「自分に名誉と名声が備わることを狙って」(“みづから名望あらん事を思ひて”)

 為家の家に伝わる和歌文書類をすべて自邸に運び出し、

「為氏は心が狭くて同腹の弟さえ和歌の道から遠ざけている。まして庶腹の末弟たちに見せてやることなどすまい」

 などと称して、為氏の末弟たちを呼び集め、女主人然と振る舞うのを、夫の為家も「狸寝入りして」(“そらねぶりして”)黙認していたといいます。

 しかも為家は、いったん為氏に譲った所領「細川庄〈ほそかわのしょう〉」を、阿仏尼腹の為相に与える譲り状を作成してしまう。当時は「悔い返し」といって、譲った財産も親の都合で取り戻すことができたのです(※1)。

 それで為家死後は、この細川庄の相続を巡り、阿仏尼腹の子の為相と先妻腹の為氏が争うこととなり、1279年、為相の母の阿仏尼が鎌倉幕府に訴えに行ったというわけです(ちなみに為氏の母方祖父の宇都宮頼綱は歌人としても名高く、定家の百人一首は頼綱の依頼により書かれた色紙歌がもとになっていると言われています)。

■後妻業の女(?)を母に持って


 これも凄いですよね。

 1279年と言えば、当事者の息子の為相は17歳。早熟なイメージのある昔の人ですが、前回の道綱を見ても分かるように、母から見ればまだまだ“幼き人”という感じだったのでしょう。

 息子に代わって、母の阿仏尼が乗り出す。

 というより、この過程を見ると、為家がいったんは為氏に譲った土地を、為相に譲ると言い出したのも、阿仏尼にせがまれて……という可能性も有り、です。

 阿仏尼が主導していたからこそ、訴訟も自分で行ったのではないか。

 なかなかの気の強さですが、そんな彼女はその両親の名も知られておらず、どういう出自の人かも分かりません。簗瀬一雄によれば、母が再婚したためか、受領階級の平度繁〈たいらののりしげ〉が養父となったと言います(※2)。若かりしころは高貴な男と恋愛・失恋したらしく、その手記が『うたたね』というタイトルで残されているものの、相手の男が誰かは不明です。

 で、先の『和歌口伝』によると、為家のもとには、阿仏尼だけでなく、“美〈み〉の”という妹も身を寄せて、阿仏尼の生んだ為相の世話をしていた。そして姉妹ともども、病の為家を放置して、

「頼りにならない青侍二人のほかは、為家の病を気にかける者は誰もいない」(“いふがひなき青侍二人の外は、病をかへりみる者なし”)

 というんですから、「後妻業の女」ということばが頭に浮かんでしまいます。

 為家の主要財産である和歌文書類と領地を我が物にしたあげく、当の為家の病も顧みなかったわけですから……。

 しかも『十六夜日記』では、為家の家は歌道の家として「代々、栄誉の名が世間に聞こえている家」(“代々に聞え上げたる家”)で、自分はその家に関わって三人の男子共々、「百千の歌の古い資料」(“百千〈ももち〉の歌の古反古〈ふるほぐ〉ども”)を管理する身となった、為家が「歌道を盛り立て、子を育て、私の供養をせよ」(“道を助けよ、子を育め、後の世をとへ”)と、すべてを任せてくれたのに、“深き契”で譲られた細川庄を取られては歌道も家も維持できない、と主張している。

 貴重な歌道の家を、異腹の長男ではなく、ぜがひでも自分の血を分けた子に継がせたいという強い執念が感じられるのです。

■勝訴の陰に娘あり


 とはいえ、そもそも阿仏尼は25歳近くも年上の男とのあいだに3人も子をなしているので、「後妻業」というのは言い過ぎかもしれない。

 文学的才能のある彼女は、婚家に伝わる膨大な歌の資料をぜがひでも我が物にしたいという思いに加え、腹を痛めた子に財産を残そうと必死だったのでしょう。

 結局、阿仏尼と為氏の存命中には訴訟は解決しないものの、最終的には阿仏尼の言い分が認められ、細川庄は為相のものとなります。

 ここからすると、阿仏尼に正当性があると当時の人は判断したようにも思えるものの、阿仏尼には、後深草院に寵愛されて姫宮を生んだ娘(紀内侍)がいる。この娘に、為相と為守のことを、

「親身に庇護していただきたい旨」(“育み思すべき由”)

 こまごまと書いて依頼していたのです。そして娘からは「弟たちのことは任せて!」とばかりの頼もしい歌(“思ひおく心とどめば故郷の霜にも枯れじ大和撫子”)がきている(『十六夜日記』)。

 勝訴の陰には、院につながる娘のコネなどもあったのではないか。

 確かなことは分かりませんが、鎌倉幕府の八代将軍・久明親王は、娘の生んだ姫宮の異母兄弟ですし、ほかならぬ為相の娘がこの八代将軍の妻のひとりとなって子をもうけています。

 為相には鎌倉方に強いコネがあった。

 こうしたコネにより、細川庄が為相のものになった可能性もあると思うのです。

 結果は阿仏尼の望み通りになったわけで、為相としても母に感謝こそすれ、恨むことはなかったかもしれません。

 そのあたりの為相の気持ちは分かりません。が、一つ言えることは、為相が母の多大な影響を受けていることです。

 阿仏尼は、為氏とは争っていたものの、その弟・為教の子の為子や為兼とは文のやり取りをしており(『十六夜日記』)、為相もまた甥っ子の為兼とは仲良くしています(※3)。手を組んだ、というべきでしょうか。

 色々とやり過ぎる母のせいで、異母兄と敵対することになった為相ではあるものの、のちには彼自身も訴訟には加わっていますし、母に似た頼もしい異父姉といい、娘の縁といい、女に助けられながら、まずまずの人生だった可能性もまた、有り、です〈系図〉。

※1 『御成敗式目』(1232年制定)で認められている。
※2 『校註 阿仏尼全集 増補版』(風間書房)解題
※3 新編日本古典文学全集『中世和歌集』所収「為相百首」作者説明

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。

2020年8月21日 掲載

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