子を呪う親――子との主導権争いの果てに、わが子二人に先立たれた後白河院の末路

 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ〜んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第11回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!


■はじめに子棄てと子殺しがあった


『「子供を殺してください」という親たち』という本があります。著者の押川剛は、親の依頼で引きこもりや暴力など、親の手に負えない子ども(患者)を医療につなげる仕事をしている。本書はその体験談で、タイトルからも想像できるように、透けてくるのは依頼者である親の身勝手さです。自分のプライドや世間体を守るため、的確な対応をしないまま、どうにもならなくなったあげく、押川氏に丸投げというケースが目立つのです。果ては「子供が死んでくれれば」「殺してほしい」と頼む親もいる……。

 そんな親は一握りであるにしても、そこに親子関係の一つの真実があるのも確かでしょう。

 子は親を選べません。非力な状態で生まれてきた子を、多かれ少なかれ親は支配しコントロールします。そして思い通りにいかないと、怒りを感じる。それが極端になると、子を棄てたいと思い、場合によっては殺意を抱く。

 そうしたことはレアケースであって親子関係の本質ではないはず、親は子を命よりも大切に思うのが本当だろう……という反論があるかもしれません。しかしならばなぜ、神話には洋の東西を問わず、子棄て・子殺しの話が多いのか。

 ギリシア神話のゼウスの父・クロノスは自分の父の性器を切り取ったあげく追放し、権勢を独り占めするために我が子を呑み込んでしまうし、メディアは夫の裏切りに怒って罪もない我が子を殺してしまう(2020年3月にも、夫に離婚を切り出され、親権を失いそうになったため、我が子二人を殺したタイ国籍の母の事件がありましたっけ)。

 日本神話でも、国土を作ったイザナキ・イザナミは、最初に生まれた子をぐにゃぐにゃの水蛭子〈ひるこ〉だというので葦船に入れて流し棄ててしまうし、イザナミの産道を焼いて生まれた火の神は父のイザナキに斬り殺されてしまいます。

 こうした神話には、親離れ・子離れの寓意もあるのでしょう。だとしても、当時の人が犯罪者のそれとしてでなく、「神や貴人の所業としてあり得ること」として許容できたからこそ、そしてそこに親子関係に関する何らかの真実があると思えばこそ、こういうことが語られるのではないか。

 その意味で、応神天皇の事績が綴られる『古事記』中巻の末尾近くで語られるイヅシヲトメノ神を巡る兄弟の争奪神話は興味深いものがあります。

 イヅシヲトメは、神功皇后の母方の先祖である新羅の王子がもたらした八種の宝がそのまま八柱の神として祀られた、その神の娘なのですが……。

 彼女を巡る婚姻譚が、実はひどい毒母の話なのです。以下、紹介すると……。

■年長の子を呪う母


 イヅシヲトメを多くの神々が得たいと思っていたが果たせずにいた。中にアキヤマノシタヒヲトコとハルヤマノカスミヲトコという兄弟がいて、兄のアキヤマが弟のハルヤマに、

「俺はイヅシヲトメに求婚したがダメだった。お前はあの女を妻にできるか?」

 と言った。弟は、

「簡単だよ」

 と答えたので、兄は、

「もしもお前があの女を妻にできたら、上着も下着も脱いでお前にやって、背丈と同じ深さの酒を甕に造ってやるよ。それに山や川の幸を残らず用意する。賭けようぜ」

 と言った。

 弟が兄のことばをそっくり詳しく母に告げると、母は藤蔓で一晩のあいだに衣と褌〈はかま〉と下沓〈したぐつ〉と沓〈くつ〉を縫い、さらに弓矢を作って、それらをハルヤマに着せて乙女の家に行かせた。すると衣と弓矢はすべて藤の花となり、それをハルヤマが乙女のトイレに懸けたところ、乙女は不思議に思って花を持ち帰った。ハルヤマはそのあとをつけて、部屋に入ってそのまま乙女とセックスした(“婚ひき”)。そして一人の子が生まれた。

 かくて弟・ハルヤマが兄・アキヤマに「俺はイヅシヲトメを得た」と告げると、兄は腹を立てて、賭けた品々を渡そうともしない。

 弟が母に訴えたところ、怒った母は、その地にあるイヅシ川の河島の一節竹を取って目の粗いカゴを作り、その川の石を取って塩に混ぜて、竹の葉に包んで、こう弟に呪詛させた。

「この竹の葉が青いように、この竹の葉が萎〈しお〉れるように、青く萎れてしまえ。また、この潮が満ち干するように、満ちて干からびてしまえ。また、この石が沈むように、沈み臥せってしまえ」(“此の竹の葉の青むが如く、此の竹の葉の萎〈しな〉ゆるが如く、青み萎えよ。又、此の塩の盈〈み〉ち乾〈ふ〉るが如く、盈ち乾〈ひ〉よ。又、此の石の沈むが如く、沈み臥せ”)

 そう呪いをかけさせて、カゴを煙の上に置いた。

 そのため兄は8年ものあいだ、干からび萎えて病み、痩せ衰えた。そこで兄が泣いて母に許しを請うと、母はすぐに呪いに使った品々をもとの場所に返させた。すると兄の体はもとのように健康になった。


■毒親あるある話 きょうだいの仲を裂く


 この『古事記』の話にどんな感想を抱かれたでしょう。

 私は「毒親あるある」と感じました。

 毒親関連本には、親の「呪い」ということばがよく出てきます。最初に知ったのは『母がしんどい』『呪詛抜きダイエット』などの田房永子さんの一連の作品からで、「どうせダメよ」というような母のことばが呪いのように自分の行動や考え方を縛るという、いわば「洗脳」状態になることを意味します。

 親によるこうした洗脳が子に及ぶ過程が、イヅシヲトメへの求婚話では具体的に描かれている。

 母は、同じ腹を痛めた子でも、下の子(弟)には献身的に尽くし、上の子(兄)には虐めとも言える仕打ちをします。

 このように、どちらか一方を猫可愛がりし、どちらか一方に残酷な仕打ちをするというのも「毒親あるある」です。毒親は意識してかしないでか、子が親にだけ依存するように、きょうだい間の分裂を図ります。だから毒親の子どもたちはえてして仲が悪いのです。

 兄が弟に挑発的な賭けを持ちかけたあげく約束を破ったのも、幼いころから母が弟ばかり可愛がるために、憎しみと嫉妬が弱い弟に向けられたのでしょう。

 母の応援を取りつけた弟が、性愛関係で成果を上げるというのもありがちな構図で、可愛がられて育った者は、他人の懐にすっと入っていけるし、他人の好意を受け入れることを恐れない。自分は愛されているという自信があるから、結果的には他人にも受け入れられるのです。

 可哀想なのは兄です。

 弟だけが母に可愛がられ、女を得て子をもうけた。弟ばかり良い目を見て……という怒りのあまり、賭けの約束履行どころでないのは無理もありません。

 結果、またしても母に告げ口されて、黒魔術さながらの母の呪いを受ける。しかも母自らは手を下さず、弟に兄を呪わせる。きょうだい仲を積極的に壊しにかかっているのです。結果、兄は、

“青み萎えよ”

“盈ち乾よ”

“沈み臥せ”

 という母の教えたことば通りに、すっかり衰弱して臥せってしまう。

 毒親育ちは、幼いころから毒親の理不尽な言動に振り回されていて、親にコントロールされやすく(親のみならず他人にもコントロールされやすい。新興宗教などにもはまりがちだし、DVにも遭いがち)、親の言動に異常なまでに影響されます。

 親に電話で否定的なことを言われただけで、1週間くらい気分が低迷して立ち直れなかったりもします。

 兄の症状はそうした反応を指していると私は考えます。

 これは、「母の呪い」に呪縛されて衰弱していく子の物語としても読めるのです。

 そしてここからが肝心なのですが、そんな母の呪いの被害者は兄だけではありません。

 いつでも母に相談しなければ事を運べず、兄に憎まれる弟もまた被害者です。

 母に助けてもらう癖のついた弟は、母が死んだらどうなるのか。

 自分の力で人生を切り拓いていけるのか。

 そもそも彼とイヅシヲトメの結婚は不意打ち過ぎやしないでしょうか。イヅシヲトメの思いも気になります。

 受け手にさまざまな「読み」をゆるす神話は、本当に奥深い。そこには人の世の一つの真実が描かれているのです。

■権力者の下の子びいきが招いた争乱


 イヅシヲトメへの求婚話に登場する親が母だけなのは、古代日本社会では基本的に子は母方で育ち、男が女のもとに通う妻問婚が多いからです。この母は“御祖〈みおや〉”とも呼ばれていますが、『古事記』に出てくる“御祖”は「すべて母の意」です(※1)。

 古代日本では母の影響力が強いわけで、私が母方の血筋を辿った「女系図」を作ったゆえんです。

 それが武士の時代になると、父の存在が目立ってきます。

 武士が台頭したのは平安時代も末。後三条天皇の母が皇女であったことが、きっかけでした。長らく藤原氏に独占されていた天皇の母方による外戚政治から、引退した天皇=太上天皇(上皇、院)が権力を握る院政に移り変わったのです。

 院による政治=院政が本格的に始まるのは、後三条の子の白河院からで、この白河院が、従来の摂関貴族ではなく、中流貴族や武士を重用しました。

 その際、基盤固めのためにしていたことが、近臣に妻を下げ渡すことであるというのが私の考えです。

 歴史には天皇や上皇が妻を臣下に譲るということがあって、有名なのが安見児〈やすみこ〉という名の采女を得た藤原鎌足。本来、天皇だけが関係を結べる采女を、天智が鎌足に与えたのは彼の忠誠心を期待してのことでしょう。

 白河院も愛妾の源師子を摂関家の藤原忠実に下げ渡したり、祇園女御(もしくはその周辺の女房)を新興勢力の平忠盛に与えたり、またお手つきで養女の藤原璋子を藤原忠通に下げ渡そうとしました。もっともこれは忠通の父・忠実の反対にあって、孫の鳥羽に入内させることになったのです(※2)。

 1156年、鳥羽院の死の直後に勃発した保元の乱の関係者たちは、白河院から下げ渡された女を母に持っているのです(忠盛の子の清盛、鳥羽院の子の崇徳は、共に白河院の落胤と伝えられる)〈系図〉。

 そしてこの乱は天台座主の慈円が、「武士の世」(“ムサノ世”)の始まりと称したことで名高い(※3)。

 慈円の分析によれば乱の原因は支配者たちの親子関係です。

「世を治める太上天皇と前関白が、共に兄を憎み、弟をひいきして、こんな世の中の最大事を行った末に起きたのが保元の乱である」と『愚管抄』巻第四にはあります。

 天皇家では鳥羽院が上の子の崇徳院を憎んで下の子の後白河天皇をひいきした。一方、摂関家でも藤原忠実が上の子の忠通を憎み、下の子の頼長をひいきした。

 上流階級での親子関係、親のひいきが、時運に重なり、日本国に戦乱を巻き起こしたわけです。

 毒親ってほんと、争いを生みだしがちですね。

 結果、後白河天皇側が勝利して、崇徳院は流罪、頼長は戦死、頼長に味方した父の忠実は失脚、天皇方についた平清盛は敵となった叔父の忠正を処刑、源義朝も父の為義を処刑せざるを得なくなりました。

 この争いの恨みに、院の近臣の対立が加わって勃発したのが1159年の平治の乱です。

 源義朝と組んだ藤原信頼は信西を殺すものの、平清盛らに敗北して斬死。

 ここで平家の勢力が一気に増します。


■実在したリアル「呪う親」


 この平治の乱後、後白河院と子の二条天皇とのあいだで、政権争いがありました。

 院は息子に対抗するため清盛を重用しましたが、それでも1159年から1162年までは父子で意見の交換をして同じ気持ちで事に当たっていたのです(『愚管抄』巻第五)。

 ところが1162年、院が天皇を呪っているという噂が立つ。それは噂にとどまらず、現実に天皇の似姿を描いて上賀茂神社で呪っていたことが目撃され、「神に仕える男」(“カウナギ男”)を捕らえて調べたところ、院の近習のしわざであることが明らかになったのです。そのため、同年6月、院の近習である源資賢は解任されました。

 その数ヵ月前、平時忠が、妹・滋子腹の院の皇子が産まれた時、失言をしたことなどから解任されていました。

 院にとって大切なこの二人を二条天皇は流罪に処します。時忠の失言というのは「生まれたばかりの皇子の立太子を望んで」のことらしい(※4)。自身の血筋で皇位をつなげていきたい二条天皇としては、異母弟への皇位継承を口走るなど不快なことであったに違いありません。

 以来、院と天皇は対立関係となり、そこを清盛は“アナタコナタ”して(院と天皇の両方に気を配って)、乗り切ったこともまた有名なエピソードです。

 こうして後白河院と二条天皇の父子関係は日を追うごとに悪化。

 1164年、院が蓮華王院を建立し、二条の行幸を望んだ時も、二条は気にも懸けぬどころか、寺役人の行賞に対しても勅許を下さなかったため、院は目に涙を一杯に浮かべ、「いやはや、何が憎くて、何が憎くて……」と仰せになった。

 後白河院と二条天皇の不仲は『平家物語』にも描かれていて、「天皇は院の仰せにいつも反抗していらした」と、あります。

 ここだけ見ると二条のほうが「毒子」ですが、院は息子の二条を呪っていたのです。院が呪わないまでも、院の近臣が呪っていた。院の御所に「二条さえいなければ」という空気がなければ、こうしたことは起こりません。

『古事記』の母神の呪いは神話ですが、こちらは実在の人物によるものであるだけに、恐ろしさもひとしお。

 そんな親の呪いが効いたのか、二条は1165年7月、23歳の若さで崩御してしまいます。

『愚管抄』によれば、二条が「誰とも母の定かではない」皇子(六条天皇)に皇位を譲った直後の死でしたが、この六条は1168年、早くも位を降ろされ、先述した平滋子腹の後白河院の皇子(高倉天皇)が即位します。院はこの高倉天皇の父として院政を開始することになるものの、初めて天皇家の外戚となった平家の栄華は頂点に達し、やがて清盛は目障りとなった院を幽閉、院政を停止させてしまいます。平家の専横と言われるゆえんですが、平家にしてみれば藤原氏にならっただけでしょう。やはり平家腹の幼い皇子(安徳天皇)を皇位につけた清盛は、高倉院の院政をゆるすはずもなく、様ざまなストレスにより、院は21歳の若さで崩御することになります。

 後白河院は、二条、高倉と、子の二人を20代前半で失うわけです。

 高倉院もまた、後白河院という毒父と、平滋子(建春門院)という平家の期待を押しつける毒母に殺された子と見ることができます。

 そして平家こそ、エリオット・レイトンのいう急激な凋落やにわか成金といった極端な階級移動……そこから生じた不安が人種差別や性差別、少年の非行をうむことが数多くの研究で実証されている……をした一族です(連載第3回参照)。

 その周辺に「自分の欲求達成の手段として子供を利用する」(『親を殺した子供たち』)毒親が多いのは思えば当然で、それについては改めてまた。

※1 新編日本古典文学全集『古事記』頭注
※2 大塚ひかり『女系図でみる日本争乱史』(新潮新書)
※3 『愚管抄』巻第四
※4 日本古典文学大系『愚管抄』補注

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。

2020年9月4日 掲載

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