「命の選別」という「出生前診断」を巡る悲劇の結末 そして母親は死を選んだ

〈出てこないとやばい。警察とか大事になっちゃうよ〉

 21歳の長男がこうして幾度LINEを送っても音沙汰がなかった母親からようやく返事が来たのは、最後に〈寂しい〉という一言だけのメッセージを送った時だった。

 45歳の母親は殺人未遂の罪により、執行猶予中であった。1週間前、間借りしていた親類の家を何も言わずに飛び出し、執行猶予の条件として月2度あった保護司との面会を初めてすっぽかしていた。「今月中なら待ちます」と保護司は言ってくれたが、それを過ぎると保護観察所に連絡せざるを得なくなるという。もしかすると執行猶予を取り消されるかもしれないと長男は心配していた。

 LINEに対しての母親からの返事には〈会おう〉と書いてあった。その日すぐに、母親は長男の職場近くのサイゼリヤまで会いに来てくれた。

「死ぬとか絶対に考えないでね。がんばって働いて僕がアパート借りるから、早くみんなで一緒に暮らせるようにしよう」

 長男がそう言うと、母親は「“今は”練炭もないし、大丈夫だよ」と返した。

 あとで振り返れば、いつもすぐに泣く母親がこの日はまったく泣かなかったし、嘘が下手なのに、結果的にこの日だけは上手に嘘をついた。

「大丈夫だよ」……。

 翌々日に会って一緒に保護司に連絡しようと約束をした。「今日はネットカフェに泊まりたい」と母親は言い、長男はまたすぐに会えると考えて承諾した。

 それぞれの車に乗って駐車場を出たが、長男が帰る家と母親が目指すネットカフェは方向が逆のはずなのに、なぜか母親は彼の車の後ろをしばらくついて来ていた。赤信号ではぐれた姿が、長男が母親を目にした最後になった――。

■出生前診断を受けられず…


 男の子ばかり3人の子どもを産んだ母親は、難病を患う1歳になったばかりの三男の口と鼻を塞いだとして、2016年11月17日、殺人未遂で宮城県警に逮捕された。三男は厚生労働省の指定難病を患っていた。3歳までの死亡例が多く、視覚や聴覚の障害を伴い、飲み込む力もなくなっていく症状を呈し、根本的な治療法は未だない。

 事件より10年ほど前に、母親は同じ病気により次男を4歳で亡くしていた。3時間毎の痰の吸引が必要で、ある日母親が介護の疲れから寝てしまった間に、痰が詰まって窒息死していたのだ。

 この病気は、父親と母親から同じ病気の原因遺伝子を受け継いだ場合にのみ子どもに発現する常染色体劣性遺伝によるもので、子は4分の1の確率で発病する。残りの4分の1は何もなく、その他2分の1は原因遺伝子を持つが発病しない「保因者」となる。

 罹患者は日本で10万人に1人と言われているが、保因者は150人に1人ほどいると推定されている。ほとんどの人がこのような病気を発症する遺伝子をいくつか持っているが、常染色体劣性遺伝では両親ともに同じ原因遺伝子を持っている場合のみ、子に遺伝子が受け継がれる。つまりこの母親、そして彼女の夫はともに自身は発病しなかったものの保因者で、次男と三男にそれが受け継がれ発症したことになる。

 逮捕された母親の公判では、子どもの難病と彼女の看病の困苦に同情してか、傍聴席に涙ぐむ声が響いたという。このような事情を鑑みて、17年仙台地方裁判所は、懲役3年保護観察付き執行猶予5年という判決を言い渡した。

 私は昨年、本誌(「週刊新潮」)12月5日号で〈「命の選別」という「出生前診断」に母親の懊悩〉と題したルポを書き、この母親が抱えていた心の葛藤と出生前診断の問題点を描いた。

 母親は次男の死に対する自責の念に苦しみ、引きこもりになっていた。それでも少しずつ心を癒やし、ようやく社会復帰できるかもしれないと思った矢先に、三男を妊娠した。三男が、次男が患っていたのと同じ病気を発症する確率は、先に説明したように4分の1であった。

「またこの子が同じ病気だったらどうしよう。幼くして、苦しんで死んでいくのではないか」

 そう心配になった母親は、出生前診断を受けようと産科クリニックに相談に行った。しかし、「ダウン症などしか調べられない」、つまりは問題の難病は出生前には診断できないと、現実とは異なる否定的な答えをされたという。それはクリニックの単なる無知だったのか、それともそこにはできるだけ出生前診断は避けるべきだとの医療者としての信念があったのか。母親はなす術もないまま出産し、結局、しばらくしてから三男も同じ遺伝性難病であることが判明した……。

 出生前診断をめぐる議論は遅々として進まない。厚生労働省はこの8月、新型出生前診断(NIPT)のあり方につき、近く新たな検討部会を設けると発表したが、日本産科婦人科学会がNIPTを受けられる施設の要件を緩和する方針を打ち出したのは昨年3月のことだ。

「命の選別」に関わるため慎重に議論を進めるべきだと繰り返し言われてきたが、命にまつわる大切なことだからこそ、丁寧にかつ迅速に、そしてタブーを設けずにさまざまな立場から議論すべきではないだろうか。科学技術の発達と人々の倫理の乖離はますます大きくなっていく。今を生きる命は結論を待ってはくれない。

 難病と分かった三男が入院している時、看護師に痰を吸引され体を真っ赤にして苦しみ泣く姿を母親は目にする。彼女は次男の苦しんで死んだ顔を思い浮かべた。

「この子もどんなに生きられても4歳まで。苦しむだけで死んでいくのか。今のうちに亡くなった方が幸せなんだ」

 母親はそう思い、咄嗟に我が子の鼻と口を塞いでしまったという。だが、すぐに我に返り、ナースコールを自ら押して、助けを求めた。三男はなんとか一命をとりとめた。

 私はこの母親に断続的に取材をし、LINEのやり取りをした。最初、私は彼女のことをどこか稀有な境遇を生きる「特別な人」だと思っていたのかもしれない。しかし、実際に会って話してみると、幼さの残る顔立ちにいつも穏やかな笑みを浮かべ、気遣いに満ちた優しい人のように思えた。

 辛い思いをしたにもかかわらず、取材に応じてくれた理由を母親に問うた時は、このようなLINEが返ってきた。

〈少しでも世の中が変わってくれたら嬉しいです〉

 この母親が変わってほしいと願った世の中とは、どんな社会だったのだろうか――。


■「楽になりたかった」


 以前同居していた母親の叔父が、仙台北署から電話を受けたのは、今年の4月29日の昼過ぎのことだった。

「定義山(じょうぎさん)の山中の道のない場所に、目張りがしてある不審な車が止まっていた。朝、散歩している人がおかしいと気づいて通報した」

 警察の人はそう言って、車のナンバーを照会したら、こちらの電話番号だったと話を継ぐ。

 慌てた叔父は、母親の長男や姉に連絡し、皆で仙台北署に駆けつけた。後から、事件後に離婚した夫もやってきた。

 警察署では医師による確認が必要だと言われ、しばらく待たされた。その後、ようやく会うことができた母親は病衣を纏い、きれいに笑っているような顔をしていたと長男には映った。

 前日の夜、長男とサイゼリヤから出て別れた後、母親は三角油揚げが名物として知られる仙台市の定義山に行き、睡眠薬10錠とストロング系と呼ばれるアルコール度数の高いチューハイを飲んで、練炭自殺をしていた。

 車の中には、携帯電話料金などの引き落とし分だけが残された預金通帳と、手書きの遺書が残されていた。実母や姉、義兄や姪などに対して、これまでお世話になったお礼などが几帳面な文字で綴られており、遺書は以前から準備されていたものであることを窺わせた。だが、最後のページだけ異様に乱れた文字でなぐり書きされていた。長男宛に便箋一面、〈ごめんなさいごめんなさい〉という文字で埋められていた。

 そして遺書には次のような内容も書かれていたという。

〈私はもう楽になりたかった。がまんできなかった〉

 何から楽になりたかったのだろう、そして何にがまんできなかったのだろうか。この言葉の真意について、長男はこう考えている。

「母は普段から楽になりたい、死にたいと言っていました。いつも一番苦しんでいたのは、弟を手にかけようとしてしまったことです」

「苦しむだけの生なら、楽にしてあげたい」と考えての犯行だった。しかし三男は命は助かったものの、母親が口を塞いだ後遺症のために口から食事がとれなくなった。より苦しい生を余儀なくさせてしまったのだと母親は罪悪感に苛まれていった。


■「心の準備がほしかった」


 三男は事件後、自宅から高速道路で片道2時間以上かかる別の県の長期療養できる病院に転院することになった。面会も月に1度程度で、あとは家族にも会えずに暮らしていた。そして、新型コロナウイルスによって、そのような面会も難しくなった。

 出生前診断を受けられなかった不安や不満、難病の子どもを育てる困難、そして次男を失い三男を手にかけようとしたトラウマ――。

 母親には気晴らしをしたり、笑うことができる時間もなくはなかった。だが、いつも「あの子(三男)が苦しんでいるのに私が楽しんじゃいけない」と話していたという。

「息子のことを手にかけようとした私が幸せになっちゃいけない。死んでお詫びする」

 母親がそう言うと、長男はいつもこう返事をした。

「死んでもお詫びにならないよ」

 それでも母親は訴えた。

「でも、こんなに苦しいのは嫌だ。お願いだから楽になりたい」

 長男によれば、母はこうも言っていたという。

「結局あの子の命が助かったことが良かったかどうかわからない」

 長男も複雑な思いを抱えている。

「たった一人で必死に生きようとしている弟は、家族にも会えずに寂しいだろう。少しでも幸せな時間を過ごしてほしいと願っています」

 けれども、一方でこんな思いも抱いている。

「母があの時、出生前診断を受けられていたらどうだっただろうとも考えるんです。現実にどうしていたかはわかりませんが、難病の子どもだとわかっていたら、産まない選択をする母親も世の中にはいるかもしれない。少なくとも、母は産む前に覚悟ができていたと思うんです」

 実際、母親は以前、私にこう心情を明かしていた。

「やっぱり(出生前診断を受けて)、難病を患った子が生まれてくるという心の準備がほしかったんだと思います」

 長男が続ける。

「そうしたら今、母は死んでいなかったかもしれない。以前勤めていたクリーニング店で今も笑って働いていたかもしれない。でも、出生前診断を受けていた時の“選択肢”のことを考えてしまう自分を責める気持ちもあります。難病だろうとなんだろうと、小さな体で生きようと戦っている弟なのですから」

 母親は毎日「死ぬ死ぬ」と長男に訴え、今年3月にも練炭を用意したことがあった。この時は親族がそれを取り上げ、事なきを得たのだが……。

 長男の複雑な想いは、答えを探してループのようにぐるぐると回り続ける。

「親族や周囲の人は、『そういう運命だったんだ』と言うけれど、絶対にそういうことはないと思います。母の命は、救うことができたはずだった。なんでこんなに不幸にならないといけないんだろう。どこまで不幸になればいいんだろう」

 彼は独身だが、病気の遺伝子を引き継いでいたとしても、相手も同じ遺伝子異常を持っている確率は非常に低く、そうでなければ、生まれる子が遺伝性難病を罹患することはない。

「だけど、僕は子どもは作りたくないです。病気が遺伝するかどうかよりもむしろ、自分の子ども時代がとてもつらかったからです。母のことは大好きですし、弟たちはとても可愛かったし、愛おしい。でも、母が難病の弟たちのことで苦しんでいるのを見るのはつらかった。母はいつも心配を抱えていて、100%楽しんでいるところを見たことはなかったし、僕も4歳からは甘えることができずにいつも寂しかった」

 母親は若くして長男を産んだこともあり、二人で並んでいると「恋人みたい」と叔父はよく言った。だが、長男は対等な人間としてではなく、子どもとして思い切り甘えることのできる母親との時間がほしかったと振りかえる。

 三男入院中の事件の舞台となった宮城県立こども病院産科科長の室月淳医師は言う。

「こういう痛ましいことを繰り返してはいけません。あらゆる出生前診断が命の選別だと批判されることに違和感を覚えます。どうしても育てるのは難しい人たちもいる。最後に子どもを育てていくのはその家族なのです。本人の決定を支援できる態勢が必要ではないでしょうか」


■「社会的な問題が背景に」


 遺体が発見された翌日、僧侶に枕経を1時間ほど読んでもらった後、5月1日に母親は荼毘に付された。

 だが、車は定義山に置かれたままだったため、「遺族が取りに行ってください」と警察に言われた。救出のためか窓ガラスが割られたその車を、長男は自分で運転して帰ったという。昼間は人目が気になるため、深夜に車を取りに行った。

「明かりがまったくない、こんな真っ暗な闇の中で、母は死んだんだと思いました。ハンドルがベタベタしていて、ひとりでずっと泣いたのかもしれない。お酒も半分残っていて、あけてないワインもあった。車は練炭の燃えた匂いと、酸味がかった匂いがしていました。母が残した吸いかけのタバコを吸って、泣きながら車を運転しました」

 車の窓には、内側からも外側からも練炭の燃焼ガスを逃がさないためにガムテープで目張りがされていた。

 母にとって、目張りは初めてのことではなかった。

 生後間もなく、まだ難病の診断がままならない頃、三男がよく泣くと、「この子も遺伝性難病かもしれない」と心配になった。そうではないようにと願いつつ、だがすぐに泣く敏感な様子に母親は思い悩んでいた。病気を疑いながらも、はっきりと知ることができない苦しみは大きかったという。その時に藁にもすがる気持ちで、部屋中の窓に目張りをした。音に敏感だった三男が少しでも安心していられるよう、外からの音を遮断しようとしたのだ。三男を守ろうとした目張りを、今度は自分の命を絶つために使ってしまった……。

 先ほど私はこう問うた。この母親が望んでいた社会はどういうものだったのか。あるいはそれはこうも言い換えられる。どうしたら彼女は死なずにすんだのか。

 私が生前に彼女から聞いた思いのあらましは次のようなものだった。

 我が子を手にかけようとするほどに母親が追い詰められるのはどうしてかを知ってほしかった。重い遺伝性疾患の可能性をもつ家族が出生前診断を望むことは本当に命の選別なのか。心の準備がどれだけ精神の緊張を和らげ、情報がないことがどれだけ不安であるかを知ってほしかった。そして重い病気の子を家族だけでは抱えきれない時、可能な支援をもっと知りたかった。

 けれども、彼女はそのことを訴え続けるのを諦め、死を選んだ。もちろん同じ難病の子どもを立派に育てている家族がいることも知っていた。それでも、自分のミスで幼い次男を亡くし、また次の子も長くは生きられないという恐怖、子どもへの申し訳なさは消せなかったのだろう。

 長男は言う。

「だけど、弟の病気だけが死の原因だと思ってほしくはありません。もっと大きな社会的な問題が背景にあったのだと思います」

 社会的な問題とは、きれいごとを唱えて現実を直視しない社会のことを指しているように私には思えた。命は大切だという言葉に誰が反論できよう。それは自明のことであるが、その上でもなお、どうしようもない苦しみをもつことだってある。この母親は、その苦しみを背負いきれなかったのかもしれない。

 母は40代半ばで生を閉じたが、三男は寿命と言われていた年を過ぎても生き延び、8月、5歳の誕生日を迎えた。

河合香織(かわいかおり)
ノンフィクション・ライター。 1974年生まれ。障害者の性の問題を扱った 『セックスボランティア』(新潮文庫)がベストセラーに。近著『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』(文藝春秋)で、第50回大宅壮一ノンフィクション賞と第18回新潮ドキュメント賞をダブル受賞した。

「週刊新潮」2020年9月10日号 掲載

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