わが子を売る毒母、孫を売る毒祖母たち――『平家物語』静御前が抱えていた毒母

 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ〜んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第12回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!


■ステージママの毒


『汐の声』という山岸凉子の漫画があります。「17歳の霊感少女サワ」は世間からはインチキと思われながら、「ママ」の意向で仕事を続けさせられたあげく、幽霊屋敷のテレビ番組のゲストの一人として参加するものの、昔、そこで母を殺したもと子役スターの霊とシンクロして、取り憑かれて死んでしまうという話です。その、もと子役スターが「やり手のステージママ」であった母親を殺した理由というのが凄まじく、興味のある方はぜひ購入してお読みになることをお勧めします。

 このステージママのどこが怖いって、己が欲望のためには子の人生をぶち壊しにしてしまうところですが、それでもなお子は母にすがり、母を頼みにしていたことが悲しくも恐ろしいのです。私自身、子ども並みかそれ以下の体格(身長147センチ)しかないこともあって(ちょっとこれネタバレ的ですが)、しばらくひとりでは眠れないほど恐ろしく、史上最恐の毒親漫画と思っています。

 こうした怖いステージママがけっこう出てくるのが『平家物語』です。

 その一人が巻第一の祇王、祇女という名高い白拍子姉妹の母である“とぢ”。白拍子というのは男の格好をして舞い踊る遊女、と言っても当時の遊女の地位は高く、今で言うなら芸能人です。とぢも娘らと同じく白拍子でしたが、祇王が清盛(1118〜1181)に寵愛されたため、妹の祇女ももてはやされ、母のとぢにもいい屋敷が与えられ、毎月米百石(15000s)と銭百貫が贈られたので、家中富み栄えて豊かなことこの上ありませんでした。実は清盛は「積極的に中国貿易を行い、銭を輸入」(※1)、政権の支えとしたことが知られています。中世の一貫を現代の金に換算するのは難しいものの、「10万円から20万円」(※2)とすると1000万円から2000万円ということになります。毎月それだけの金額が贈られたら、そりゃあ豊かに決まってます。

 そんな成り金暮らしが3年続いたころ、またしても都に白拍子のスターが現れたのです。

 地の神を表す、祇という文字を名に持つ祇王に対抗したのでしょう、ニューフェイスは仏という名の16歳。

 今も昔も芸能界は浮き沈みが激しいんですね、次々といい若い子が出てくる。この仏が、

「私は天下で名が上がったが、今をときめく平家太政の入道殿からお召しがないのは残念だ。芸能人だもの、不都合はない、自分から押しかけてやろう」

 と考える。

 遊行して芸を見せる白拍子の彼女は、清盛のもとに芸を見せに押しかけたのです。


■若い娘に奪われた愛妾の座


 清盛は「なんで呼びもしないのに。しかも祇王もいるのに」と追い払ったものの、祇王の取りなしで、仏が舞ったところ、すっかり心移りした清盛は、祇王を追い出し、やがて毎月の米と銭の支給も止めてしまいます。清盛に捨てられた祇王のもとには、ここぞとばかり、文を寄越して言い寄る者もいましたが、それにつけても祇王は悲しくて涙に沈んでばかりいた。

 そんな祇王のもとに、明くる春、清盛から久しぶりに使者がありました。

「仏御前が退屈そうなので、今様でも歌って舞って、慰めに来い」

 と。清盛の勝手な言い分に、祇王が返事もしないでいると、

「なぜ参らぬのか。こちらにも考えがある」

 と清盛が怒りだします。それを聞いた祇王の母・とぢは、

「ねぇ祇王御前、とにかくお返事だけでもしなさいよ」

 と優しくさとしますが、娘は、

「行くつもりはないから返事のしようがない」

 とつっぱねます。すると、とぢは打って変わって強い口調で、

「お天道様の下に住もうとする限り、入道殿の仰せに背いてはならぬぞ」

「それにあなたは3年間も入道殿のご寵愛を受けたじゃないの。ありがたいお情けではないか。参上しないからといって命まで取られることはあるまい。ただ都の外に追放されるのだろう。追放されてもあなたたちは若いからどんな岩木の狭間でも生きていけようが、“年老い衰へたる母”が都の外に出されたら、馴れぬ田舎住まいなど想像するだけでも悲しい。ただ私に都の中で一生を過ごさせておくれ。それこそが現世はもとより来世につながる“孝養”(親孝行)だろう?」

 と、懇願する。

 それで祇王は泣く泣く清盛のもとに参上し、はるか下座で屈辱的な扱いを受け、果ては出家に至るのです。


■子に罪悪感を抱かせながら支配する


 脅しすかしの駆け引きは、やはり踊り子に対するマネージャーの趣。

 そして今で言う毒親です。

 とぢは自身も白拍子だったとはいえ、娘・祇王の評判には及ばなかったでしょう。それが娘は同じ道で大成し、権力者の庇護を受けることになった。とぢとしては、娘で自己実現したわけで、さぞ誇らしかったに違いありません。そうしていい暮らしをしてきたところが、娘はパトロンに捨てられ、家まで追い出されそうになった。それで娘の気持ちも顧みず、清盛のもとに行かせたわけですが、結局、祇王は嫌な目を見させられ、母をこう言って恨みました。

「親の命には背くまいと、つらい道に赴いて、またしても嫌な目に遭った。もう嫌だ。こうして生きていればまた嫌な目に遭う。もう身投げする」

 それを聞いたとぢは、

「本当にあなたが恨むのも当然ね。そんなことが待ち受けているとも知らず、説教までして行けと勧めた自分が情けない」

 と娘の気持ちに寄り添うそぶりを見せながらも、

「あなたが身投げするなら妹の祇女も身投げすると言う。二人の娘に死なれたら、“年老い衰へたる母”は、生きていても仕方ない。私も一緒に身を投げよう。まだ死期も迎えぬ親に身を投げさせることは、“五逆罪”に当たるんじゃないの? この世は仮の宿。恥をかいても何でもない。ただ死後の世界の長い闇がつらい。この世はともかく、あの世でさえ、あなたが親殺しの罪で“悪道”に赴くと思うと悲しいよ」

 と、妙な理屈を展開する。

 このへん語り物なので、ことばの綾もあるとはいえ、娘が身投げしたら自分も死ぬ、それは親殺しも同然、親殺しは仏教では最も重い五逆罪に当たる、あなたは無間地獄に墜ちてしまうだろう、それが悲しい……とは、何とも巧妙な話法というか、娘に「親不孝の罪悪感」と「堕地獄の恐怖感」を抱かせつつ、死ぬのを思いとどまらせようとしている。しかも“年老い衰へたる母”と哀れっぽく繰り返すことで、自分が被害者の位置につこうとしているのです(もちろん本当の被害者は娘ですよね)。

 娘に死んでほしくないからとはいえ、子に罪悪感を抱かせながら支配するという典型的な毒親の手法が、ここにあります。

■孫を敵に差し出した祖母


 かくて祇王一家は出家の道を選び、嵯峨の山里で庵を結びます。そこへ、諸行無常を悟った仏御前が訪れ、女4人、往生の素懐を遂げたということで話は締めくくられます。

 4人が住んでいた庵は「祇王寺」として今も嵯峨野にあるとはいえ、伝説的要素も強い白拍子たちです。

 一方、間違いなく実在した白拍子といえば静御前。

『平家物語』ではただ“静”と呼ばれる、源義経(1159〜1189)の愛妾です。

 彼女は『平家物語』では巻第十二の「土佐房被斬」でちょっと出てくるだけ。有名な、

“よし野山みねのしら雪ふみ分けていりにし人のあとぞこひしき”

“しつやしつしつのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな”

 という歌は、北条氏側の歴史書『吾妻鏡』(1300年ころ)に出てきます(文治二年四月八日条)。

 この静にもステージママ的な母がいました。

 といっても、“磯禅師”と呼ばれるその母自身、有名人で、『徒然草』には、娘の静共々、白拍子のパイオニアとして登場します。

 藤原通憲入道(信西。1106〜1159)が磯禅師に教えた男舞を、静が受け継いだのが“白拍子の根元(由来)”というのです。

 義経は当時、最先端の芸能人とつき合っていたのですから、さぞ鼻が高かったでしょう。

 ところが義経が平家を打倒したあと、異母兄の頼朝(1147〜1199)に追われる身となって、愛妾の静は頼朝の配下にとらわれます。

 すると頼朝や妻の北条政子(1157〜1225)は、せっかく天下の名人がここにいるのだからと、拒む静を召して、鎌倉の鶴岡八幡宮で舞わせる。その時、義経を恋うる歌をうたったので、頼朝は激怒、政子の取りなしで事無きを得た、と『吾妻鏡』は言うのですが、北条側の記録ですから、政子が美化されたふしもないとは言えないでしょう。

 そして、ここからが肝心なのですが、静はこの時、妊娠6ヶ月でした。

 生まれた子が女なら生かし、男ならその場で殺してしまおうという算段で、頼朝は静を抑留し続けていました。

 生まれたのは男の子でした。

「赤子をこちらへ寄越しなさい」

 頼朝の命を受けた使者が言うと、静は赤ん坊を布にくるんで抱いたまま突っ伏し、

“叫喚数刻”

 泣き叫ぶこと数時間に及んだ。使者がしきりに静を叱り責めたところ、

“磯禅師殊に恐れ申し”

 母の磯禅師がとくに恐縮し、

“赤子を押し取りて御使に与ふ”

 赤子を静から無理やり奪い取って、頼朝の使者に与えたのです。こうして赤子は由比ヶ浜に捨てられたのでした(『吾妻鏡』文治二年閏七月二十九日条)。


■腹を痛めた我が子を、自分の母に殺される


 それから2ヶ月近く経って、静母子はいとまをもらって京都に帰ります。政子と姫君(大姫)がえらく同情し、多くの“重宝”を賜りました(『吾妻鏡』文治二年九月十六日条)。それ以降、二人の消息は歴史から途絶えています。

 その後、静はどんな思いで、我が子を“押し取”った母の磯禅師と過ごしたのか。

 孫を見殺しにした磯禅師は、政子がくれた財宝をどんな思いで受け取ったのか。

 物語も歴史書も黙して語りません。

 が、その答は、先の祇王ととぢ母娘のやり取りにあるのではないか。

「親の命には背くまいと、つらい道に赴いて、またしても嫌な目に遭った!」という祇王の嘆き、「本当にあなたが恨むのも当然だ」という母の悔恨……「死ぬ」「死なない」という言い争いもあったかもしれない。「お前が死ぬなら母も死ぬ。けれど、母が死んだら、お前は母殺しの罪を負うことになる。それが悲しい」というとぢのセリフなども、むしろ磯禅師のそれと考えたほうが、しっくりきます。

 娘の静にしてみれば、母に赤子を奪い取られて敵に渡されたという事実は、一生苦しみのもとになったでしょう。母は私の成功にしか興味がなかったのか、私の気持ちはお構いなしなのか、と。

 祇王ととぢの物語は、描かれなかった静御前と磯禅師母子の嘆きに重なっている、と私は考えています。

 けれど、子を殺された静の悲しみに比べれば、祇王の屈辱感など、ものの数ではありません。

 静に匹敵するほどの悲痛な思いを経験したのは……と、思いを巡らせてみると、実はほかならぬ平家側にいました。

 その名は、清盛の娘・建礼門院徳子(『平家物語』によれば1157〜1191年だが諸説あり)。

 彼女もまた、ステージママのような母や父に人生を奪われたあげく、腹を痛めた我が子を、母に殺された娘です。

 それも静御前のように間接的にではなく、直接的に殺された娘だったのです。

※1 高木久史『通貨の日本史』(中公新書)
※2 本郷恵子『中世人の経済感覚』(NHKブックス)

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。10/7に『くそじじいとくそばばあの日本史』(ポプラ新書)刊行予定。

2020年9月18日 掲載

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