瀕死の夫を尻目に、夫の父親と結婚させられそうに……挙句、わが子を殺された――『平家物語』建礼門院徳子の凄まじい毒親育ち

 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ〜んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第13回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!


■孫を殺した二位の尼


 建礼門院徳子は、清盛と二位の尼時子の娘で、安徳天皇の母という、平家の栄華の要にありながら、『平家物語』でも『吾妻鏡』でも、その他の平家関連書でも、驚くほど影の薄い女です。

 ただし『平家物語』にあとから付け加えられたとされる「灌頂」巻だけは別で、そこでは彼女が主役なのですが、それまでは、父母の意向でいとこの高倉天皇(1161〜1181)に入内したり、夫の心を慰めるため、わざわざ美人女房の小督を差し上げたり、ほとんど感情がないかのような女として描かれていました。

 あげく1185年3月24日、壇ノ浦での合戦を迎えると、二位の尼時子は、建礼門院徳子腹の数え年8歳の安徳天皇(1178〜1185)を抱きながら、

“浪の下にも都のさぶらふぞ”(『平家物語』巻第十一)

 と言って深い海に沈んでしまう。

 聖徳太子や推古天皇の生きていた古代ならいざ知らず、この時代(平安末期)、天皇はどんな罪を犯したとしても、流罪にはなっても死刑になることはありません。まして安徳天皇はまだ8歳。生きていれば浮かぶ瀬もあったでしょう。

 それを時子は、三種の神器ともども道連れにしてしまうのですから……この時、海に沈んだ草薙剣は発見されることはありませんでした……愚かしいことこの上なく、権勢を私物化したと非難されても仕方ありません。

 哀れなのは、母の時子に息子を殺される形となった徳子です。海に飛び込みながらも熊手に髪を絡められ引き上げられた彼女は、どんな気持ちだったか。

 どんなに母を恨んだことか。

 と、思うのですが、その気持ちが綴られることは、少なくとも当座はありませんでした。

 その後の建礼門院の動向としては、1189年に生まれた慶政上人による『閑居友』(1222年)に、1186年、大原の徳子を後白河法皇(1127〜1192)がお忍びで訪れた様(下八)、建礼門院に仕えていた右京大夫が大原を訪ねた際、昔は60人以上の女房たちにかしずかれていた徳子が、別人のように衰えた墨染め姿で、“わづかに三、四人ばかり”の女房が仕えるだけだった様が報告されています(※1)。


■兄と妹の性的な噂


『平家物語』にあとから付け加えられた灌頂巻では、それ以前の無口な建礼門院とは別人のように、2000字ぶっ通しの「六道之沙汰」、仏教でいうところの六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)すべてを自分は経験したと彼女は語っています。が、灌頂巻と同じタネ本に基づくといわれる『閑居友』の先の記事には、そうした話がないことから見ても、六道巡りはのちに仏教者が加えた「お説教」でしょう。

 その「六道之沙汰」でも、安徳天皇を思う気持ちは語られても、母の二位の尼への恨みは語られません。

 ただ、生きて六道の苦しみ……天上界のような栄華とそれを失う天人五衰のような苦しみ、一族別離という人間界の苦しみ、海上戦での飢餓という餓鬼道の苦しみ、戦争という修羅道の苦しみ、二位の尼が安徳天皇を抱いて海に沈んだ時の人々の阿鼻叫喚の地獄道の苦しみ、夢に二位の尼が現れ「今は龍宮城にいるが龍畜経にあるようにここにも苦はある」と言った畜生道の苦しみ……を味わったことが、涙と共に語られるだけです。

 二位の尼が我が子を抱いて海に沈んだことが地獄で表現されているのは、それが徳子にとって最もつらい出来事だった……と、『平家物語』の作者も受け止めていたからでしょう。

 実は、この中の畜生道のくだりは、『平家物語』の異本『源平盛衰記』では、奇怪なことが書かれています。

 徳子には、兄の宗盛や、敵将の義経と性的な噂があり、

「それを畜生道にこじつけられたのです」(“畜生道に言ひなされたり”)

 と、徳子自身が渋々打ち明けているのです(巻第四十八)。

「こじつけられた」とあるように、とくに兄の場合は“一つ船の中”にいたのでこんな噂が立っただけで、事実ではないというスタンスです。

■あたしの子じゃない


 同書はまた、敗戦後、京を引き回される宗盛を見物する“乞者〈かたゐ〉の癩人法師共”のことばとして、

「宗盛内大臣殿のことで忌まわしい噂を聞いているんだよ。清盛がまだ在世中から、宗盛は妹の建礼門院とデキていた。それで生まれた子を、高倉院の皇子と言いつくろって、皇位におつけしたそうだよ」

「そんな忌まわしい血筋だから、帝位を保つことができず、こんな騒ぎも起きたのだろう」

 とまことしやかに語っています(巻第四十四)。

 のみならず、なんと二位の尼時子が、壇ノ浦で「今はこれまで」と一門の最期を覚悟した際、

「実は宗盛は夫の子ではない」

 などと告白するくだりがあるのです。といって不倫の子でもなく、

「私の子でもない」

 と。“弓矢取る身は男子こそ宝よ”と夫・清盛に言われたにもかかわらず、生まれた子が女だったから、清水寺の笠売りの子と交換してもらったのだ、そんな子だからきっと見苦しいこともあるだろう、というのです(巻第四十三)。

 宗盛がどんなことをしてもあたしは知らない、だってあたしの子じゃないから、という宗盛のぶざまな最期を見越しての責任逃れのセリフです。

 ここまでくるとメチャクチャで、100パー作り話に違いありませんが、こんなマヌケな、そして宗盛にとっては残酷な告白をし得るキャラクターとして、二位の尼がとらえられていたことが興味深いのです。

■無能な野心家を母に持つと


 物語や歴史書の伝える二位の尼時子は、無能な野心家という印象で、慈円による歴史書『愚管抄』では、娘の徳子を高倉に入内させた際、皇子を生ませて一族繁栄するように、日吉社に百日祈願したものの効果がなく、夫の清盛が、

「そなたが祈っても効き目がない。見てなさい。俺が祈って効験を出すぞ」

 と厳島神社に祈ったところ、60日後に徳子は懐妊、安徳天皇が誕生したといいます(巻第五)。

 また、九条兼実の日記『玉葉』によれば、高倉院が瀕死の際、朝廷との関係を保つため、舅の後白河院に徳子を入内させたらどうかという案が持ち上がり、清盛も二位の尼も“承諾の気色”があった。けれど徳子が出家すると主張したため、代わりに徳子の異母妹の御子姫君(1164〜?)が入内することになったのでした(※2)〈系図〉。

 徳子にとって後白河は夫の父親。徳子の気持ちを考えれば、こんな案を打診などしないはずなのに、それをした。そして拒まれると、当時、18歳だった、徳子の異母妹の御子姫君を55歳の後白河に入内させたことは歴史的事実です。高倉院が1月14日に崩御し、1月20日に御子姫君が後白河に入内、実際に御所に入ったのは25日とはいえ、高倉院の死からまだ2週間も経っていませんでした。

 ここには、権勢のためには、子の気持ちも、婿の気持ちも、一切考えない、非情な権力の亡者がいる。

 それでいて、時子は愛児の重衡(1157〜1185)が生け捕られた際は、彼とひきかえに三種の神器を渡せという後白河法皇の言い分をのもうとし、長男の宗盛に諫められると、

「二度とつらい思いをしないよう私を殺してください」

 と、“をめきさけび”という醜態を見せます(『平家物語』巻第十)。

 まぁこのあたりは『平家物語』ですから、話半分に受け止めたほうがいいとはいえ、助かるはずの孫の安徳幼帝の命を巻き添えにしたことは動かぬ事実です。

 時子には、やはり「無能な野心家」ということばがふさわしい。

 そんな無能な野心家を母に持ったばっかりに、政争の具にされ、夫がまだ生きているうちにその父への入内を勧められ、あげくの果ては子を巻き添えにされ殺された徳子……。

 今から見れば凄まじい毒親育ちと言えます。

 では、有能な野心家の母なら良いのかというと、孫どころか子ども自身が殺されるような目にあうことを、敵方の北条政子が物語っているんですよね……(以下、次回)。

※1 『建礼門院右京大夫集』(1233年ころ)
※2 『玉葉』治承五年正月十三日条

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。10/7に『くそじじいとくそばばあの日本史』(ポプラ新書)刊行予定。

2020年10月2日 掲載

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