一世を風靡した女たちの消息 「榎美沙子」「ケバルト・ローザ」「やまのべもとこ」

■警察署員を名乗る男から「前妻逮捕」の電話


「ウーマンリブ」という言葉が流行語となったのは、大阪万博が開催された昭和45年。「シラケ世代」が台頭し、「未婚の母」も登場。人々は「モーレツからビューティフルへ」を合言葉に歩行者天国を闊歩し、「昭和元禄」と呼ばれた時代を謳歌していた。そんな時代に現れたのが「翔んでる女」たち。「人類の進歩と調和」を目指して、翔んだり跳ねたり……。

(※2001年8月16日号に掲載された記事を編集し、肩書や年齢などは当時のものを使用しています)

 ***

 医師である木内夏生(60)のもとに、熊谷警察署員を名乗る男から電話があったのは、2カ月前のことである。

「前の奥さんを恐喝容疑で逮捕しました。そのことで少しお話を伺いたい」

 男はそう言った。

「いま、そちらにいるのですか」

「男と一緒に捕まって、留置場におります」

 職業柄、警察からの電話に慣れていた木内は、どうもおかしいと直感した。

 離婚後、前妻とは没交渉になっていたが、彼女は語学に堪能で、英語とドイツ語、ロシア語なら翻訳もできるほどだった。その上、薬剤師の資格も持っている。そんな女が金ほしさに恐喝や詐欺を働くとは思えなかった。

「こちらからかけ直しますので番号を教えて下さい」

 木内がそう言うと、電話は一方的に切られた。

 ……とまあ、ミステリーのような書き出しになってしまったが、実際、これはちょっとしたミステリーなのである。

 木内の前妻は、かつての「中ピ連」のリーダー、榎美沙子(56)である。

 昭和33年頃までに物心のついた日本人で、榎美沙子を知らぬ者はあるまい。ピンク色のヘルメットをかぶって男を斬りまくり、マスコミに出ずっぱりだった女性である。

■「女を泣き寝入りさせない会」の「シュプレヒコール!」「全財産をよこせ!」


 その榎美沙子が消息を絶ち、親族によれば、「警察に捜索願を出している」状態だという。あれほどしゃしゃり出るのが好きだった女が、である。やはり、これは一つのミステリーといえよう。

 中絶禁止法に反対し、ピル解禁を要求する。それゆえに「中ピ連」と名乗っていたのだが、それだけなら別にどうということはない。

 だが、ピンクのヘルメット集団の活動はどんどんエスカレートし、榎は「女を泣き寝入りさせない会」なるものを組織。「騙された」という女の訴えを受けて男の職場に押しかけ、「慰謝料を出せ」と騒ぎ立てたりしていたのである。

 思えば、「中ピ連」というのは分りにくい団体であった。

「ウーマンリブ思想にマインドコントロールされた女権真理教」(当時を知る記者)

 と思えば分りやすいかもしれない。何しろ、「中ピ連」に「睨まれた男は、社会的にポアされてしまうのである。

 一例を挙げよう。これは昭和49年8月19日の「中ピ連」の活動である。『ヤングレディ』50年1月13日号を引用してみると、

《事件は夏の通り雨のよう突然やってきた。大挙21人の女性たちが某社の営業所前に押しかけたのである。女性たちはヘルメットをかぶっていた。ヘルメットには、生物学でメスを意味する「♀」の記号が、ペンキで黒くかかれていた》
《竹ざおつきの大きな字幕を営業所の前で広げると、そこには「女を泣き寝入りさせない会」と大書してある。突如、》

《「シュプレヒコール!」
「全財産をよこせ!」
 ハンドマイク片手のリーダーに唱和し、全員が気勢をあげる》

《プラカードを持つ者もいた。
「夫の横暴は許さない」
「恨みはらさでおくものか」》

《営業所長は、当然、何事かと玄関前に飛び出してきた。
「一体全体、何事ですか。あなたたちは何者です?」

 今となってはその名を聞かなくなったが、往時の総会屋よりもタチの悪い連中なのである。


■〈無職(28)。愛人の座を追わる。要求・現金3000万円→妥結・2000万円〉


《リーダーらしき女性は答えた》

《「あなたの部下の××氏は、妻をむりやり離婚させたうえ、財産を一銭も渡さないという。同じ女性として見逃すわけにはいきません。上司であるあなたの責任も追及します」》

《数度の押し問答のあと、営業所前に座り込んだ女性たちは「全財産よこせ」のシュプレヒコールをあげ……》(同)

 恐喝、威力業務妨害、名誉毀損その他、ざっと1ダースほどの法律が適用できそうな無法行為であるが、当の榎は悠然とこう語っていた。

「会の発足以来1年4カ月、これまでに扱ったのは400件。いずれも全面勝利で失敗したのは1件もありません」

「まだまだ未解決の訴えが600件も残っておりますの。順番待ちというところですわね」

 怖いものなしの榎は20人を超す自民党議員のもとへも出かけ、「これも全て解決した」と豪語し、こんなブラフまでかけている。

「もし国会の先生方が、必要な時に協力してくれなかったり、圧力などを加えてきたら“バラすわよ”、ということもありえますわね」

 当時、「中ピ連」が発表した「戦果」は以下の通り。

〈無職(28)。愛人の座を追わる。要求・現金3000万円→妥結・2000万円〉

〈無職(37)。同棲の手切れ。要求・3500万円(生活費等)→妥結・1500万円〉

〈教員(40)。婚約不履行。要求・男の面子丸つぶし→妥結・会社をクビになる〉

「手数料は一切取っていない」という「中ピ連」の活動は、かなりの「戦果」をあげた。おかしな話だが、もちろんこれにはウラがあった。

 榎は女性たちからの訴えを調査会社に回し、成功報酬等は直接調査会社に振り込まれていたのである。

 ママゴトの延長上に過ぎなかった「中ピ連」に、まともな調査など出来るはずもなかったのだ。


■タツノオトシゴをご神体とする「女性復興教」を旗揚げ、参院選出馬


 昭和51年、榎はオスが子育てをするタツノオトシゴをご神体とする「女性復興教」を旗揚げし、自ら教祖となる。

「日本女性党」の党首を名乗り、翌年夏の参院選に10人を出馬させている。

 あやうく出馬しかけた主婦の話を紹介しよう。

「50年に中ピ連へ離婚相談をしたものの、ずっと引き伸ばされていたんです。翌年の暮れには“衆院選が終わるまで待って。いま自民党の大物をとっちめているから”と言われ、それが終わると今度は“参院選があるから”と待たされた」

「年明けに榎が来て、“女性党を作るから立候補して。選挙に出ればダンナへの脅しになる。慰謝料を取ってやる”と口説かれた。そのうち、離婚にケリがつきそうになったので連絡をしたら、今度は“ハシタ金を取ってどうする。出馬すれば3000万円取れる”などと言うんです」

 結局、立候補したのは「会」に相談に来た女性やクラブのママなど、泡沫以下の女性ばかり。

 全員が落選し、1700万円の供託金が没収されたのはもちろん、選挙資金のやり繰りなどで亀裂が生じ、「中ピ連」の活動そのものにもピリオドが打たれた。

「家事労働で夫への借金を返します」

 選挙後、記者会見でそう言い残し、ヘルメットを脱いだ榎は表舞台から姿を消した。

 榎美沙子は昭和20年、徳島県の生まれ。京大薬学部に学んだ才媛で、大学を卒業した44年に医師である木内夏生と結婚、58年に協議離婚している。その木内が言う。

「当時のウーマンリブは、学生運動の従軍慰安婦にされた人の復讐みたいなのが主流だったんです。男に従属させられた女の叛乱ですよ」

「彼女には、怨念とか情念とかはないから、ウーマンリブと相容れなかったのは当然だったんです。家政婦のいる家でお姫様みたいに育ち、学生運動にも参加せずに勉強していた人なんです」

「エリートとしての自負もあったし、そういうのが女同士の中で浮いていたのでしょう。(中ピ連を)解散したのは潮時だと思ったからでしょう。広がりすぎた運動に収拾をつけるのに無理があったんですよ」


■「人間って、ずるいもんでね、徐々に男の本音が出たんです」


――離婚の原因は?

「人間って、ずるいもんでね、徐々に男の本音が出たんです。子供がほしいとか、家庭らしさがほしいとか。朝食を作ってもらったことなんて、何度あったか。生活観も違いました」

「僕はサラリーマン家庭で育ったけれど、彼女の家は商売をしていたから、生活文化が違っていた。それは再婚して初めて分かりました。まあ、僕が悪いんです」

「別れる前には、もうそういう女性がおったということです。生まれ変わってもう一度結婚するとしたら、やっぱりいまの女房ですねえ」

「いまは家庭があって子供が一番だから。彼女には申し訳ないと思っています。だから、(慰謝料として)4年間で1000万渡しました。元気にしているといいのですが」

 そう話す前夫は、家族愛に包まれているせいか、屈託のない笑顔を浮かべたりして、実に幸せそうであった。

 一方、榎の行方は杳として知れない。何しろ、今年1月に亡くなった母親の葬儀にも顔を出していないのである。

「随分探したのですが、母親が亡くなったことを知っているのかどうか……」

 徳島に住む親族はそう嘆く。


■「ローザ・ゲバルテンブルク」「駒場のジャンヌダルク」「チェ・ゲバ子」


 さて、「造反有理」の風が吹き荒れ、東大生までが安田講堂に立てこもったりして暴れたのは昭和44年のこと。

 この東大紛争で勇名を轟かせたのが、「ゲバルト・ローザ」こと柏崎千枝子(58)だ。

 彼女が書いた『ゲバルト・ローザ闘争の手記太陽と風と自由を』の表紙裏には、「著者の横顔」としてこうある。

〈闘いの中で、学生たちは尊敬と愛情をこめて、著者をこう呼んだ。「ゲバルト・ローザ」「ローザ・ゲバルテンブルク」「駒場のジャンヌダルク」「チェ・ゲバ子」。いずれも、行動の最前線に自分を置き、多くの男子女子学生に、勇気と正しさを身をもって示す著者の役割と性格を物語っている〉

 東大大学院の博士課程に在籍していた彼女は、ともかく直情径行の人で、「日に一度はポカリとやらないと気がすまない女」と言われていた。

 で、体制派の教授はもちろん、日和見の学生を見つけてはポカリ、民青を捕まえてはポカリとやっていた。

 先の著書から、44年3月3日の大衆団交のワンシーンを引用する。

《生物学の教授佐藤重平は、学友が真剣に追及しているとき、自分とはいっさい無関係だという顔をして、耳に栓をして本を読んだり、寝たりしていた。そうした不まじめな態度を問い詰めると、ニヤニヤ笑いながら「君たちの質問などに答える必要はない」と返答したのである》


■法廷でも検事や裁判官に食ってかかり、見かねた母親が…


《こんな人間としての誠実さの一かけらも見出せないような人間が、平気で教師づらをして、学生に君臨し、さまざまの犯罪を犯しているのだ!》

《われわれは、この無責任きわまりない教授会のひとりひとりに、大衆的に徹底した自己批判を求めていった》

 この時も、彼女は佐藤の頭をポカリとやって「勇気と正しさ」を示した。教授を殴ったというわりにはゲバルトの度合いは低いが、4月22日、監禁容疑で目黒署に逮捕される。

 もちろん、法廷でもおとなしくしているはずもなく、検事や裁判官に食ってかかる。見かねた母親が、「静かにしなさい」とたしなめると、

「裁判長、あの女を退廷させて下さいっ!」

《この資本主義社会に生きている限り、本当の意味での親子の幸せはない。心から血を噴き出させつつも、私は親に心配をかけるのを承知で、これからも闘争をしていくし、もし子どもが産めたなら、心に痛みを感じつつも、闘わねばならないことを子どもに徹底的に教えるであろう》(同)

 結局、子供には恵まれたが、在学中に結婚した最初の夫とは死別。54年に再婚した相手とも6年後に離婚し、現在は栃木県内で牧師をしている。


■一世を風靡した「やまのべもとこ」は…


 ここは東京・目黒区にある『ハロートゥモロージャパン』という会社である。

 社長の新野(にいの)まりあ(65)は、14年前に乳癌にかかり、右の乳房を全摘出。

 以来、様々にアイデアを凝らし、人肌に近い感触を持つ「人工乳房」の開発に取り組んできた。

 平成10年には温度変化で色が変わる「はにかむおっぱい」を、昨年9月には触るとバラの香りがたちのぼる「香るおっばい」を発表。そしてこのたび、

「遂に理想に近い人工乳房の開発に成功したんです。揉んでも、洗っても落ちないんです。ぜひ触ってみて下さい」

 勧められるままに、50万円から350万円までの人工乳房を愛撫してみた。

 すべてオーダーメイドであり、乳首や血管の浮き具合など実にリアルである。が、やはり何か変な気分だ。

「乳房を失った女性の悩みは深く、離婚に至るケースも稀ではないんですよ。でも、これだとセックスも出来ます。開発に成功した時には、本当に嬉しくて嬉しくて……」

 新野はそう話し、「これこそが究極の人工乳房です」と膨らみを取り戻した胸を張る。

 新野まりあは、これまでにも新製品が出るたびにマスコミに登場していた。

 彼女、これまでずっと黙まりを決め込んでいたのだが、実はかつて「翔んでる女ナンバー1」として一世を風靡した「やまのべもとこ」なのである。


■「ヌード結婚式」「愛情防衛庁長官」「悪女の学校副校長」「幸福を売る女」


「結婚プロデューサー」、「愛情防衛庁長官」、「悪女の学校副校長」、「幸福を売る女」……年齢不詳、まるでハーフのような面立ちのこの女性は、奇想天外なアイデアで時代を駆け抜けたものの、詐欺で訴えられ、いつしか音沙汰がなくなっていた。

 それにしても、別の名前で人工乳房を作っていたとは……やはり、転んでもタダでは起きない女である。

 昭和40年、日本初という触れ込みで「結婚プロデューサー」宣言をした彼女は、43年、「愛の銀行」なるものを設立。

「武道館で231組の合同結婚式を演出した。写真で見る限り、統一教会の合同結婚式にも負けない壮大な式典である。

 入会金5万円で200人の会員を集め、「ロンリー・ハート・クラブ」なる浮気斡旋業に手を染める一方で、「愛情防衛庁」を設立。お粗末な浮気調査で散々な批判を浴びた。

「どのブツにも持ち主の人格が現れているのよ」

 そう言って、魚拓ならぬ「チン拓」を130本もコレクションして雑誌で発表したかと思えば、47年には「未婚の母」宣言をして自らの出産シーンをテレビで公開。

「悪女の学校」や「愛の教会」の設立、「求婚110番」、「離婚式」……やまのべもとこは、話題になることなら何でもやった。自殺未遂も3度している。

 しかし、彼女の悪名を最も高めたのは、やはり「ヌード結婚式」であろう。

 なぜ結婚式でヌードになる必要があるのか。それは参加した人にも分からなかった。

「面白そうな企画だとは思ったのですが、“ヌードになるのはイヤだなあ”と言ったら、水着をつけていいと言うし、費用は全額むこう持ちでグアムにも行けると聞いて決心したんです」

「でも、グアムに着くと、やまのべさんが、“週刊誌にはオールヌードの結婚式と言っているので、どうしてもヌードになってくれ”って。脱がなければ莫大な額を払わなければならなくなると言われ、仕方なく脱ぎました」


■「乳癌で死ぬか生きるかという瀬戸際に立たされるまで…」


 参加者のそんな告発に対し、やまのべは雑誌で強硬に反論。どちらの言い分が正しいのか、いまさら分かったところで仕方がないだろう。

 再び、新野まりあことやまのべの述懐。

「いまでは、やまのべもとこと名乗っていた自分を思い出すだけで恥ずかしいんです。あれは私にとっては、うたかたの時代。思いつきだけでニュースの主役になって、味をしめてしまった」

「最後は近寄ってきた人間に騙されて、海外留学生を集める仕事で1億の借金を抱え、債権者に追われてハワイに逃げたんです。そこでフラダンスと出会い、ダンスを通じて知り合った仲間といまの会社を始めたんです」

「それまでは天狗になっていたし、人間としても小ずるかった。つけ睫を3枚もつけたりして本当に嫌な女でした。ヌード結婚式も、ポリシーといえるほどのものは何もなく、アイデアだけ」

「乳癌で死ぬか生きるかという瀬戸際に立たされるまで、私は自分が何者であるのかさえ分からなかったんです。乳房を失ってから全てが変わり、やっと真人間になれたという気がします」

 イデオロギーというのは厄介な代物で、これに殉じてしまうと、消息を絶つか、牧師にでもなるしかない。

 その点、やまのべもとこはウーマンリブとか、ゲバルトとか、その手の面倒なイデオロギーは最初から持ち合わせていなかった。

 それゆえに彼女はいまも元気一杯であり、会社は従業員27名、年商2億円の企業に成長できたのである。

(敬称略)

2020年10月3日 掲載

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