我が子も孫も、使い終われば抹殺! 最強最悪の北条氏の毒親たち

 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ〜んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第14回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!


■『吾妻鏡』は嘘だらけ


 公文書偽造が問題になったことがありますが、北条氏による歴史書の『吾妻鏡』は、鎌倉時代の基本史料ながら、嘘が多いことで有名です。

 そもそも『吾妻鏡』は公文書というより、

「鎌倉末期幕府政権の中核にあった者が、鎌倉末期の御家人たちに読ませようとして書いたものだと思われる」(奥富敬之『吾妻鏡の謎』)

 北条氏の栄華は、周知のように政子(1157〜1225)と源頼朝(1147〜1199)から始まります。政子は伊豆の流人時代から夫の頼朝を支え、二代将軍頼家(1182〜1204)と三代将軍実朝(1192〜1219)を生み、彼らの死後は尼将軍として御家人たちを束ねた。そんな政子を補佐し、実務を遂行していたのが弟の義時(1163〜1224)で、その子孫である北条得宗家は、有力御家人を粛清し、専制政治を展開します。そんな鎌倉末期、得宗専制の正当性を御家人たちに示すために書かれたのが『吾妻鏡』です。

 そのため源氏三代に関しては批判的で、二代頼家は御家人の愛妾を奪ったり蹴鞠に入れ込んだりするダメ将軍、三代実朝も和歌にかまけるダメ将軍、初代頼朝はさすがにツッコミどころがないので異母弟の義経を利用するだけ利用して殺した「冷酷無惨」な将軍として描かれる。

「『吾妻鏡』は、頼朝、頼家、実朝源氏将軍三代はダメなのだ」(奥富氏前掲書)と主張することで、北条得宗家の専制を正当化したわけです。

 なので、肝心の記事が抜けていたり、巧妙な印象操作がある。

 亡き奥富先生は実は私の恩師でもあったのですが、先生曰く、

「とにかく『吾妻鏡』には嘘が多い。それを見つけるのも、『吾妻鏡』を読む楽しみでもある」(前掲書)

 というほど。

 基本的な史料としては貴重な『吾妻鏡』ですが、北条氏に都合の悪いことは、書かなかったりねじ曲げたりしているため、真相を知るには、政子らと同時代に生きた慈円(1155〜1225)による史論書『愚管抄』、藤原定家(1162〜1241)の日記『明月記』といった京都側の史料が必要になる仕組みです。

 そんなふうにして、政子・義時姉弟、父・時政(1138〜1215)らの事績を見ていくと、源氏を消耗品のように利用しては抹殺していくエグさに震えがきます。『吾妻鏡』には頼朝の死も記されておらず、北条氏による暗殺説もあるほどですが、それを証明するものはありません。

 さし当たって、北条氏の犠牲となったことが確実な最初の一人は、政子腹の源頼家です〈系図〉。

■ふぐりをとられて殺された二代頼家


 頼朝死後、二代将軍となった頼家は、1203年、発病し、弟の千幡(実朝)と、比企氏腹の息子・一幡(1198〜1203)に地頭職などを譲ります。ところが千幡にも地頭職が分けられていることに怒った一幡の祖父・比企能員が北条氏追討を頼家に提案し、頼家は“許諾”した。それを政子が聞きつけ、父・時政に報告。時政は比企能員をおびき寄せて殺害。頼家は出家して、翌年、修善寺で死亡します。

 と、ここまではすべて『吾妻鏡』の記事です(建仁三年八月二十七日条・同九月二日条、元久元年七月十九日条)。

 一方、京都側の『愚管抄』によれば、頼家は北条氏に殺されているのです。

 1203年9月2日、時政の一幡襲撃を知った頼家が驚いて太刀を取ろうとしたものの、病み上がりで力が入らない。それを、母の政子もすがりつくなどして捕らえ、9月10日にそのまま修善寺に幽閉した。同年11月3日、義時が一幡を捕らえ、郎等に殺させ、翌1204年7月18日、修善寺の頼家をも刺し殺させてしまいます。それも激しく抵抗する頼家を、

“頸ニヲヲツケ、フグリヲ取〈とり〉ナドシテコロシテケリ”(頸に紐をつけ、陰嚢を取ったりして殺してしまった)(巻第六)

 という残虐ぶり。

『吾妻鏡』が事件から百年近く経って成立したのに対し、『愚管抄』の著者・慈円は、関白をつとめた九条兼実(1149〜1207)の弟で事情通な上、当時をリアルタイムで生きている。記事の信憑性は高く、頼家は母方の北条氏に殺されたことがはっきり分かります。

 しかも実の母である政子が、そこでは大きな役割を担っていた……。

■生きてるうちから亡き者にされていた頼家・一幡父子


 衝撃的なのは定家の『明月記』の記事で、それによれば、まだ頼家が存命中の1203年9月7日、幕府の使者が上洛し、

「頼家が没し、子の一幡は時政が討った。弟千幡を跡継ぎにするので、許可してほしい」(本郷和人「本巻の政治情勢」〈『現代語訳 吾妻鏡』7所収〉)

 と言ってきた。

 頼家の死は翌年1204年の7月。この時はまだ死んでいないのに、です。

 本郷和人は鎌倉と京都の道程などから、使者が鎌倉を出発した時は、頼家はもちろん、一幡も殺害されていなかったのではないかと言います。頼家の家督相続で緊迫した状況下、武人の比企能員が単身、平服で時政邸にやって来るのも不自然で、「思い切って推測すると、家督相続の話自体が、あとづけの創作だったのではないか」、頼家が重病になったのを好機ととらえた時政が、「これを機に能員を暗殺してしまおう」と考え、不意打ちしたのが真相ではないか、というのです(前掲書)。

 家督相続の話は『愚管抄』にも出てきますから、もしもこの話が北条氏の創作だとすれば、相当巧みな情報操作だなとは思うものの、『愚管抄』には気になることも書かれています。時政が比企氏を襲撃した際、頼家としては、

「自分の出家後は一幡の世になったということで、皆仲良くしていたので、まさかこんなことをされようとは思いも寄らなかった」(“出家ノ後ハ一萬御前ノ世ニ成ヌトテ、皆中ヨクテカクシナサルベシトモヲモハデ有ケル”)(『愚管抄』巻第六)

 頼家にとって、家督が一幡に譲られたことは既成事実で、北条氏の攻撃は不意打ちだったわけです。

 頼朝⇒嫡子・頼家⇒長子・一幡と、順当に父系で受け継がれるはずの将軍職を、頼朝⇒嫡子・頼家⇒弟・実朝とねじ曲げることで、将軍の外戚の地位が比企氏に移るのを阻止すべく、もっと言うとすでにできかかっていた一幡・比企氏体制を転覆すべく、北条氏がクーデターを起こした可能性も考えられ、本郷氏の説もありかと思えてきます。


■毒父・北条時政を更迭する毒子たち


 こうして建仁3(1203)年、頼家と同じく政子腹の千幡(実朝)が三代将軍に就任。政子の父・時政は初代執権となります。

 この時政が若い妻(牧の方)をもうけ、その腹に子がたくさんできていた。中でも“嫡女”(正妻が生んだ最も年長の娘)は平賀朝政(朝雅)の妻となっていました(『愚管抄』巻第六)。と、ここで注目すべきは、再婚した時政にとって嫡女は政子じゃないってことです。牧の方は時政の正妻で、その腹の長女こそが“嫡女”なんです。しかもこの嫡女の婿である平賀朝政は、頼朝の猶子でもあったと『愚管抄』は言います。猶子というのは養子のようなものですが、相続を目的としないで仮に結ぶ親子関係を指します。牧氏腹の嫡女の婿の存在感は大きかったのです。これも『吾妻鏡』には見えないことで、結論から言うと、頼朝の猶子を北条氏が殺しちゃったというのはイメージが悪いので、伏せていたのかもしれません。

 そうなんです。

 この嫡女の婿を、政子や義時らが殺してしまう。

 というのも『愚管抄』によれば、時政と妻の牧の方は、三代将軍実朝を討ち殺して、娘婿の朝政を将軍にしようとたくらんでいた。

 これを知った政子は、有力御家人の三浦義村に相談の末、時政邸にいた実朝を義時邸に連れて行き、

“将軍ノ仰〈おほせ〉ナリ”(巻第六)

 と称して、時政を故郷の伊豆に追いやった。その上で在京の武士に命じ、平賀朝政を討ち殺してしまうんです。

 これが1205年閏7月26日のこと。

 時政失脚後、鎌倉方の最高権力者となったのが娘の政子で、弟の義時が二代執権としてその補佐をする。こうして実朝の世に“ヒシト”(しっかりと)なったと『愚管抄』は言いますから、実朝が将軍に就任したとは言っても、この時まではまだその地位はあやういものだったのでしょう。


■男にとって大事なのは実家より妻方=本家


 いや〜〜北条氏、えげつないです。

 とくに父の時政がえげつない。

 曾孫(一幡)は襲撃するわ、若妻にそそのかされて、孫(実朝)も殺そうとするわ、こんな父の背中を見ていたら、そりゃあ政子や義時といった子どもたちも、権力のためには身内も殺すようになりますよ。むしろ時政は、子に殺されぬだけましだったんじゃないか。

 彼にとって大事なのは将軍ではなく、その外戚となって自分が権力を握ることです。それで一幡の外戚として権勢を振るおうとした比企氏を殺し、さらに実朝政権で自分の存在感が薄くなると、婿を将軍にしようとして実朝を殺そうとした。

 だとしても、なぜ血を分けた孫や曾孫を……と考えた時、時政は牧氏と結婚した時点で、牧氏側の人間になったんじゃないか、と思い至ります。牧氏の婿になったため、牧氏腹の“嫡女”の縁故が大事になって、牧氏の血を引かぬ孫や曾孫はもはや他人同然の感覚になったのではないか……。

 夫が妻の実家に通うなり住むなりしていた婿取り婚が基本の平安貴族は、妻の実家を“本家”と呼んでいたことが『うつほ物語』を読むと分かります(「内侍のかみ」巻)。

 一方、東国武士のあいだでは早くから一夫一婦の嫁取り婚が発達したと言われ、政子が頼朝の愛妾のいる屋敷を打ち壊させたことなどから、政子は都式の一夫多妻(の婿取り婚)に馴れていない、都育ちの頼朝とは違うというふうに、北条氏の東国武士ぶりが強調されるのが普通です。

 確かにそういう要素は大きい。が、一方で、当時はまだ平安貴族的な婿取り婚感覚も、とくに頼朝を盛り立てることで繁栄した北条氏には、残っていたのではないか。

 婿の頼朝を支え、初代鎌倉将軍に祭り上げ、その外戚として権勢を振るった北条氏は、妻方が婿の世話をし盛り立てることで繁栄していた平安貴族とやっていることは同じです。頼朝は名門・源氏の棟梁とはいえ、東国で頼みとなるのは妻方で、北条氏も自分たちこそ“本家”という感覚があっても不思議はありません。

 実は、政子が同じ我が子でも、頼家・実朝といった息子たちには冷たく、娘の大姫(1178〜1197)のことは可愛がって、娘婿の源義高が頼朝の命で殺された時、激怒したことが私はかねがね引っかかっていました。義高は娘婿とは言え、頼朝と敵対して死んだ木曾義仲の子です。頼朝が殺すのは当然なのに、それで大姫が鬱になると政子は、

「たとえ頼朝の仰せを受けたとはいえ、内々子細を大姫のほうに申すべきだったのに、それをしなかった」

 と、義高を手に掛けた郎等を処刑した。その決定を頼朝も止めることはできなかったのです(『吾妻鏡』元暦元年六月二十七日条)。

 娘やその婿に関する政子の発言力が、夫をしのぐのは、平安中期、源雅信の妻の藤原穆子が夫の反対を押し切って道長を娘婿に決定したこと(『栄花物語』巻第三)を彷彿とさせます。東国にあっても、時に娘の結婚相手に関する決定権は、なお母親にあったのではないか。

 政子の激しい態度も、息子たちはよそ様の婿となる存在、娘は“本家”を継ぐ嫡女という平安貴族的な意識があったと考えれば合点がいきます。

 政子にしてみれば義高は大事な嫡女の婿だった。

 一方、息子の頼家は、比企氏を妻にした時点で、“本家”比企氏に庇護される人間になる。頼家は乳母も比企氏ですから、母の政子も愛着が湧きにくかったのかもしれません。

 牧氏と再婚した時政にしても、平安貴族式に言えば“本家”は牧氏になるわけで、若妻とのあいだに生まれた“嫡女”の婿や孫(生まれたとしたら)が今度は大事な身内となり、その外戚としての繁栄を求めるようになるわけです。先妻腹の子や孫たちに対する時政の冷たさの裏にはそんな構造があったのでは? というのが私の考えです。


■実権を振るって殺された三代実朝


 時政や娘の政子が、血を分けた息子や孫や曾孫であっても殺したり見殺しにしていたのは、“本家”=妻方の繁栄を目指してのことだった。そう考えると、北条氏のエグい粛清劇も合点がいきます。

 頼家に代わって三代将軍となった実朝もまた、北条氏によって暗殺された可能性があります。実朝が殺されたのは、将軍権勢が最も高まりを見せた時期でした(※1)。

 この暗殺劇も非常にあやしいものがあって、実朝が鶴岡八幡宮で、甥でもあり猶子でもある公暁に殺された建保7(1219)年正月27日、『吾妻鏡』によれば、北条義時は急に“心神御違例の事”(精神が乱れること)があって、御剣役(付添)を源仲章に譲って帰宅している。源仲章は義時と間違えられて殺されています。

 ところが京都側の『愚管抄』によれば、この時、義時はその場にいたとされている(巻第六)。なぜ『吾妻鏡』は疑われるようなことを書いたのか。奥富先生によれば、

「北条得宗初代の義時が、『中門ニトヾマレ』と命ぜられる程度の存在だったとは、あえて書くことができなかった」(前掲書)

 北条氏の権勢を正当化するために書かれた『吾妻鏡』に、義時の権威が落ちるようなことは書けなかった、というのです。

 おかげで義時が黒幕であると後世思われてしまったわけですが……では誰が黒幕だったのか?

『愚管抄』によると、実朝を殺した公暁は、

“今ハ我コソハ大将軍ヨ”

 と三浦義村に言ってきており、それを義村は義時に報告。公暁は、実朝の首を持って義村のもとに向かう途中で、義村の手の者に討たれます(巻第六)。

 ここからすると結局、黒幕は北条義時でしょう。将軍権力を拡大させた実朝の力をくじくため、北条氏が三浦氏を味方に引き入れて、「刃」をむけたのだという五味文彦の説に同感です(※1)。

 北条氏は将軍独裁に走る実朝を廃し、宮将軍を朝廷から下してもらうことで(後鳥羽上皇に拒否され、最初は摂家将軍ですが)、政治を思いのままにしたかったのです。


■唐船で国内脱出しようとした実朝の詠んだ親子の歌


 こうして見ると、北条政子は毒親というのもさることながら、“本家”=北条氏の繁栄にこだわるあまり、息子たちが結婚すると、彼らを妻方の人間として容赦なく切り捨てた権勢欲の塊と思えてくる。

 そんな政子を子どもたちはどう見ていたのかは知る由もないものの、『吾妻鏡』によれば、実朝は、死の3年前の1216年、唐船で日本を脱出しようとしていました。宋人の陳和卿を引見し、自分の前世は中国の医王山の長老であったと聞いたため、前世に住んでいたという医王山を拝もうと目論んだのです(建保四年六月十五日条・同十一月二十四日条)。

 計画は失敗するとはいえ、将軍の身で日本を捨てて中国に渡ろうとは、しかもその理由が前世に住んでいた医王山を拝むためとは、立場をわきまえぬ無責任さで、執権北条義時や大江広元といった大人たちが諫めたのは言うまでもありません。が、それは「源氏将軍三代はダメ」と主張することで、北条得宗家の権勢を正当化しようとする『吾妻鏡』の言い分であることを忘れてはいけません。

 実朝は、家集の『金槐和歌集』を見る限り、歌才あふれる優しく聡明な若者でした。

“世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐあまの小舟のつなでかなしも”(『金槐和歌集』雑部)

 は、実朝に和歌の指南をしたことでも名高い藤原定家の「小倉百人一首」にも入っていますし、

“おほうみの磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも”(同前)

 は教科書でもおなじみです。

 中でも心惹かれるのは「慈悲の心を」という題のある歌です。

“ものいはぬよものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ”(同前)

「物言わぬ四方の獣すらも、心打たれるなぁ、親が子を愛する心は」の意で、「まして人は」と解釈するのが普通でしょうけれど……。

 北条氏の粛清劇を見ていると、「なのに人は」という含意があったように思えてなりません。

※1 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法』(吉川弘文館)

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。近著に『くそじじいとくそばばあの日本史』(ポプラ新書)がある。

2020年10月16日 掲載

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