「あの地獄の日々に比べれば『在宅』は楽勝」のはずだが……──在宅で妻を介護するということ(第12回)

「自宅で看取ることになるかもしれない」 そんな覚悟もしつつ、68歳で62歳の妻の在宅介護をすることになったライターの平尾俊郎氏。介護も家事もそれなりに楽しみを見いだせたのには、その前段階で味わった「地獄」の体験も関係があるという。

 体験的「在宅介護レポート」の第12回である。

【当時のわが家の状況】
夫婦2人、賃貸マンションに暮らす。夫68歳、妻62歳(要介護5)。千葉県千葉市在住。子どもなし。夫は売れないフリーライターで、終日家にいることが多い。利用中の介護サービス/訪問診療(月1回)、訪問看護(週2回)、訪問リハビリ(週2回)、訪問入浴(週1回)。

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■救急車の赤色灯に1年前がよみがえる


 介護をしているいないにかかわらず、マンション暮らしは息が詰まる瞬間がある。閉所は苦手なので、私は1日に何度か、外の新しい空気が吸いたくて廊下に出る。6階だから見晴らしもいい。特に夜の時間が好きで、風に吹かれながら結構長い時間遠くの空を見ていることがある。

 あれは深夜だった。いつものように廊下に出て階下に目をやると、いつ来たのか救急車がマンションの駐車場に停まって赤色ランプをチカチカと点滅させている。サイレンは聞こえなかったのに、何かあったのだろうか……。途端に1年前の記憶がよみがえってきた。

 一昨年の夏、私たち夫婦はおそらく人生最大のピンチを迎えていた。妻は6月から1カ月余り、船橋にあるアルコール依存症専門病院に入院した。これが2度目である。「最初は失敗したが今度こそは……」という一縷の望みを捨ててはいなかったが、それは治療のための入院というより、酒が手に入らない環境に彼女を移すことが目的だった。

 2017年1月の最初の入院で、病院を出ればもとの木阿弥になることは分かっていた。アルコール依存症はそういう病気だ。どんなに周囲が頑張っても、当人が“心の底から酒をやめたい”という気持にならなければ治らない。案の定、7月に退院したその晩から、退院祝いだと缶ビールを空けた。

 それから連日、日の高いうちから焼酎を飲むようになり、最終的には毎日「いいちこ」を1日7合、ロックで胃に流し込んだ。酒を隠したところで近くにコンビニがあるからムダだ。「酒は違法じゃないから、ある意味覚醒剤よりタチが悪い」と誰かが言ったが、その通りだ。

 財布も隠した。すると、今度は台所の料理酒を飲みだした。料理酒を口にしたことがあるだろうか。塩とこうじを合体させた奇妙な味で、生のままでは一口たりとも飲み込めるしろものではない。その料理酒を1本空けたと知ったとき、私は観念した。本当の酒のほうがまだ身体にいいのだ。

 それからはもう欲しいだけ飲ませた。「いつかは内臓が悲鳴を上げるだろう。その日まで待つしかない」と。実際、その通りになった。胃に孔(あな)が開き緊急入院、脳の一部もアルコールにやられてしまったのである。「ウェルニッケ脳症(ビタミンB1が不足することから引き起こされる神経性の急性疾患)」という病名が付いた。

 救急車を何度も呼んだのはそのころである。酔ってふらつき、頭をテーブルの角にぶつけ何度か血だらけになった。急に息苦しさを訴え意識もうろうとなった。寝ていると思ったら口から泡を吹き……。多いときは月に3回。朝と夕、1日2回呼んでひんしゅくを買ったこともある。

 救急車の到着を待つときのあのジリジリした気持ち、周囲への申し訳ない思い、収容病院が決まらず待機する時間の長さ、ガタピシと信じられないくらい揺れる救急車の寝台……。間違いなく私たちに起きたことだ。今こうして、全く他人事として6階から見下ろしている自分が信じられないくらいだ。

 もう二度とあの日に戻りたくはない。「在宅介護は楽勝だ」と言い切る私の心のどこかに、「あの地獄の日々と比べたら」という思いがあることを打ち明けておかねばなるまい。

■「俊ちゃん」と呼んでくれた


 長いトンネルを抜ける日は、突然という感じでやって来た。9月の初旬のことだった。朝のルーティン作業(バイタルチェック、おむつ交換、栄養剤投入)を終え、仕事部屋でパソコンを叩いていると、「俊ちゃん! 俊ちゃん!」(恥ずかしながら私のことだ)と呼ぶ声が隣室から聞こえてきた。

 ベッドに向かう途中で私はうれしくなった。ついに夫の名前を思い出してくれたのだ。それまで、名前を呼ばれることはなく、話はいきなり要件から始まった。「ところで私は誰?」と、あえて問いかけはしなかった。自然に口をついて出る、この瞬間を待っていたのだ。

 この日、彼女はいきなり長い言葉をしゃべり出した。何を言っているのか半分くらいは聞き取れなかったが、単語ではなく文章になって出てくる。目の表情もこれまでになく感情を含んでいる。医師の指示で、1種類のクスリを増量したのが功を奏したのだろうか。頭の中で何本かの線がつながったのだと、私には感じられた。

 それから数日後、訪問診療にやって来た医師は、妻と二言三言言葉を交わすなりこう言った。

「そろそろ嚥下(えんげ)の訓練を始めましょうか。うまくいけば、次回には経管抜去ができるかもしれません」。

 経管抜去はすなわち、「自分の口から食べる」ことを意味する。健常者には当たり前過ぎて気づかない口から食べるという行為が、人間として自立して生きていくためにどれほど重要なことか、私は妻を通じて初めて知った。そして、管を抜いたはいいが嚥下機能が以前のように戻らず、誤嚥性の肺炎を起こす人が少なくないことも。

 実は、1カ月ほど前に医師に打診したことがあった。経管栄養の期間があまり長くなると、食道をモノが通過しないために嚥下能力が落ちるのではと、素人ながらに心配していたからだ。そのときは「もう少し様子を見ましょう」と言われ、がっかりしたことがあった。

「鼻の管を抜くよ」──妻にその旨を伝えると、満面の笑みで喜びを表してくれた。鼻の穴から胃の中まで、長いチューブが挿入されたままの状態からやっと解放される。喉に、食道に、直に食べ物や水が通っていく。食べるとはそういうことだ。誰よりもこの時を待っていたのは女房に違いなかった。

 翌週から、看護師が来る度に嚥下の訓練を行った。経管が入ったままの状態で、とろみをつけた水をスプーンですくい口に含ませる。食道とチューブのわずかな隙間を通して反応を見るのだ。「ゆっくりゴックンしてね」と言われ、妻は大きく喉を上下させて、いとも簡単に飲み下した。

 案の定、むせることも咳こむこともなかった。彼女の嚥下能力が維持されているだろうことは、チューブ交換時の思いきりのよい管の飲み込みから推測できた。それに、年齢も62歳と若い。介護の情報や知識は一般に75歳以上の後期高齢者を対象にしたものが多いので、それを鵜呑みにするとかえって回復が遅くなると私は考えていた。

「今度、先生が来るときに抜いてもらいましょう」。スプーン7〜8杯を何の問題もなくゴックンできたことで、看護師さんも太鼓判を押してくれた。

 あと3週間の辛抱だ。あくびをするといつも喉の奥に白いチューブが見えたが、そんな不自由ともおさらばだ。少し慣れてきたらプリンを、いや女房の好物の茶碗蒸しを、スプーンで少しずつ食べさせてあげよう。よくある介護の風景である行為が、ようやく私たちにもできるようになるのだ。

 カレンダーの次回の訪問診療の日を大きく赤丸で囲み、私たちは一日千秋の思いでその日を待った。

平尾俊郎:1952(昭和27)年横浜市生まれ。明治大学卒業。企業広報誌等の編集を経てフリーライターとして独立。著書に『二十年後 くらしの未来図』ほか。

2020年11月5日 掲載

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