仏教界は要らない子の巣窟だった?!――実父に殺されそうになった弁慶、堕胎失敗で産まれた高僧たち

 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ〜んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第15回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!


■「カルトの問題は突き詰めると親子問題」


 事故物件サイトで有名な大島てると、もとオウム真理教幹部の上祐史浩のイベントに行ってきました。上祐氏は服役後、宗教団体アーレフの代表となるも脱会、今は哲学サークルひかりの輪の代表をつとめています。その上祐氏が「カルトの問題は突き詰めると親子問題だ」と言っていたのが印象的でした。

 カルトと伝統仏教を一緒にしてはお叱りを受けることを承知で言うと、前近代の仏教界もまた、親子関係に問題のある人たちが多く集まっていました。

 法師になることの意味は、時代によって異なり、平安中期には藤原定子のように尼になってからも夫・一条天皇に愛されて皇子女を生んだり、平安末期には後白河法皇のように出家後も院政を行って平氏打倒を目論む人もいました。

 けれど一般的には、出家は一種の自殺行為であり、それがゆえに延命行為でもあって、ここに親子関係が絡むと、親子の断絶や子棄てという意味合いにつながる、ということがありました。

『落窪物語』には、母と口論になって「法師になります」と脅す息子や、親の手前、我が身のふがいなさが恥ずかしくてならず、「尼にでもなろうか」と嘆く娘が登場します。

 現実にも、藤原道長の子の顕信が10代の若さで出家すると、母の源明子は頭が真っ白になる(“ものもおぼえたまはず”)ほどの衝撃を受け、父の道長も泣く泣く顕信に会いに行き、

「この私を恨めしく思うことでもあったのか」

 と問いつめています(『栄花物語』巻第十)。

 出家が自殺の代替行為であるために、親はここまでうろたえたのです。

 顕信の出家は世をはかなんでのことですが、一方で父の道長は、病になると出家しています。その際、導師の僧都が、

「現世ではご寿命が延び、来世では極楽の最高位に生まれ変わるでしょう」(“現世は御寿命延び、後生は極楽の上品上生に上らせたまふべきなり”)(『栄花物語』巻第十五)

 と言っていることからしても、当時の人が出家に延命効果を期待していたことが分かります。

 社会的な死と、だからこその延命効果を合わせもつ出家は、しばしば弱者や敗者の生き残り手段としても使われています。乙巳の変で蘇我氏が滅びたあと、蘇我氏の奉じていた古人大兄皇子が出家して吉野に入ったのはその代表例です。

 鎌倉初期の宇都宮頼綱は北条氏に対して謀叛の意志がないことを示すため出家した上、会おうとしない北条義時への“陳謝”として髻〈もとどり〉を献じています(『吾妻鏡』元久二年八月十六日条・同十九日条)。

 今も芸能人などが、社会に対するお詫びのしるしに頭を丸めて坊主にするのなども、こうした出家の持つ意味合いと関係があるかもしれません。

■要らない子は法師にする


 このように、古代から中世にかけての出家は、建前としては「社会的な死」を意味していました(後白河法皇など、出家後に政治活動を盛んに行った人たちはいるにしても、です)。

 その出家の道を、意志とは関わりなく選ばされた人たちがいました。

 棄てられるはずの子どもたちです。

 そもそも前近代には棄て子はとんでもなく多く、犬公方で名高い五代徳川将軍綱吉が1687年、棄て牛馬、棄て病人と共に禁止するまでは、罪になりませんでした。しかも禁止後も依然として棄て子が多かったことは、沢山美果子の『江戸の捨て子たち』(吉川弘文館)の紹介する『日本帝国統計年鑑』のグラフを見れば分かります。明治12(1879)年でも棄て子は5000人以上いました。当時の人口は3500万人ですから、人口当たりで計算すると2003年の棄て子の277倍もいた計算になります。

 まして棄て子が罪にならなかった江戸時代以前は寺や長者の門前に棄て子がいるのは珍しいことではなく、古典文学でもイザナキ・イザナミ夫婦が最初に生まれた子は脚の立たないぐにゃぐにゃな子だからと流し棄てたのをはじめ、枚挙にいとまがないほど棄て子が登場します(※1)。

 親にとって要らない子、親が育てられない子、親のない子など、養育を放棄された子は、まずは棄てられていたわけですが、そこまでいかずとも、親にとってワケありの子に待ち受ける運命が、出家だったのです。

 実は私、前近代の法師のイメージや、法師になったいきさつに興味がありまして、昔からファイリングしていたんですが、これがほんとにひどいんです。

 弁慶は、生まれた時から髪も歯もたくさん生えていたので“鬼神”と見なされ、父に殺されそうになったのを、哀れんだ叔母がもらい受け、

「出来が良ければ元服させて夫の三位殿に差し上げましょう。悪ければ“法師”にして、経の一巻でも読ませれば、親の供養にもなるでしょうよ」

 と、叔母の手元で育てられます。けれど6歳の折、天然痘にかかってますます色黒で容貌魁偉になったので、結局、法師にさせられたと伝えられています(『義経記』巻第三)。

 弁慶は平安末期の人。『義経記』は室町時代に作られたフィクションですから信憑性はあまりないものの、当時、要らない子は法師にされていたことをこの話は浮き彫りにしています。

 現実にも、親に不要の子と見なされ、殺されそうになったあげく、法師になったと伝えられる高僧はかなりいる。

 和泉式部の導師としても知られる性空上人(910〜1007)は、母が“堕胎之術”を求め、“毒薬”を服したものの効果がなく、生まれた子といいます(『性空上人伝』)。母はそれまでのお産がいずれも難産だったため、ひそかに中絶しようとしたのです。性空上人の場合、幼時に出家を志したのに父母は許さなかったと言いますから、これが事実なら無理に法師にされたわけではないのでしょう。が、子ども時代から衆に交わらず、10歳で師について法華経を学んだというのは、母から要らない子とされた過去が関係しているのではないか。

 ほかにも後三条天皇の信任厚かった成尊僧都(1012〜1074)は、仁海僧正とある女房が密通してできた子だったのですが、「この子が大きくなれば、密通が世間にばれる」と恐れた母親が、水銀を嬰児に飲ませ、命は助かったものの、その後遺症として“其の陰全からず”つまり性器が未発達となった。それで“男女において一生不犯の人”、男も女も生涯、犯したことのない人となった、と言います(『古事談』巻第三)。

“男女において”不犯というあたり、男色オッケーの当時の日本の仏教界の実態をも物語っています。

 高僧には奇瑞譚がつきもので、反権力で名高い増賀上人(917〜1003)も、乳母が居眠りをしていたために馬上から落下したと伝えられ(『大日本国法華経験記』巻下)、先の説話も話半分くらいに受け止めたほうがいいとは思うものの、法師なら親に殺されかけた過去があっても納得だ、親に殺されかけたからこそ法師になったのだ、という共通認識があったからこそ、これらの説話が説得力を帯びたのであろう、と私は考えています。

※1 大塚ひかり『本当はひどかった昔の日本』(新潮文庫)

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。近著に『くそじじいとくそばばあの日本史』(ポプラ新書)がある。

2020年11月6日 掲載

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