80歳過ぎて息子を勘当した親鸞――浄土真宗にはなぜ親子断絶が多いのか

 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ〜んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第16回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!


■女色、男色に溺れた一休さん、薬として自分の尿を信者に飲ませた一遍


 前回ご紹介しましたが、前近代、とくに戦国時代ころまでの法師というのは、ワケありの子、端的に言えば、誕生を祝福されなかった子がなることが多かったのです。

 とんちで名高い一休宗純(1394〜1481)が後小松天皇(1377〜1433)の子とされながらも、幼時に受戒して法師となったのは、母の身分が低い劣り腹ゆえでしょう。そんな一休さんが女色・男色にふけったあげく、77歳の時、20代後半の森女という盲目の女性と出逢って愛欲に溺れたのもよく知られた話です。

 信西の孫の貞慶などは、幼いころに法師のもとに預けられたまま放置されていたため、出家後、母に手紙を出すと、「そんなこともあった」と母が存在を思い出したとか(※1)、空也上人の左腕が折れていたのは、幼いころ、怒った母に腕をつかまれ投げられたせいだとか(※2)、法師に関してはやばい話が数えきれぬほど伝わっています。

 それで世間の人からも侮られ、

「法師は聖人といっても、とんでもないひねくれた嫉妬心が深くて嫌らしいものだ」(『源氏物語』「薄雲」巻)

「法師ほど欲深い者はない」(『沙石集』巻第十末ノ十一)

 などと言われる。

 捨て鉢になる向きも少なくないのか、盗む犯す放火するといった法師も珍しくなく、武装した僧兵なんてのもいたわけで、今の人が抱きがちな悟ったイメージとは程遠い存在だったのです。

 その根底には、そもそも親に歓迎されない子であったという親子の問題が横たわっている。

 それで元オウム真理教幹部の上祐氏の「カルトの問題は突き詰めると親子問題だ」(⇒連載第15回)という話に戻るんですが、いわゆる「鎌倉仏教」はできた当初は危険な宗教としてとらえられていた、いわばカルト視されていたものも少なくありません。

 新旧仏教界を批判した『天狗草紙』(13世紀末)によれば、踊り念仏で知られる時宗の信者は、開祖の一遍上人(1239〜1289)の尿を薬として飲んでいたようで、

“あれ見よ。尿〈しと〉乞う者の多さよ”

“これは、上人の御尿にて候、万〈よろづ〉の病の薬にて候”

 と記されて、その奇妙な信仰が揶揄されています。

 日蓮宗の日蓮(1222〜1282)が法華経以外の教えは邪教とする過激な論を展開し、佐渡に流罪になったのは有名な話ですし、浄土宗を興した法然(1133〜1212)は元関白九条兼実の信認を得て、その得度の師となったりしたものの、門弟が後鳥羽院の女房たちと夜、逢うなどしたために流罪となっています(問題の門弟らは死罪)。

 兼実の弟で、天台座主の慈円によれば、法然の教えは「愚痴無知の尼入道どもに喜ばれ」、臨終の際も人々は極楽往生の奇瑞を期待して騒いでいたものの、「とくに確かな往生のしるしも表れなかった」と、吐き捨てるような言われ様です(※3)。

 ちなみに、浄土真宗を開いた親鸞(1173〜1262)は、はじめ慈円の弟子となったと伝えられていますが、師の法然と共に流罪にあっています(※4)。

 今でこそ伝統仏教と見なされる鎌倉仏教ですが、できた当初は今のカルトのような扱いをされて、弾圧を経験した向きもあったわけです。

■親鸞だけではない、浄土真宗の父子断絶


 宗教が不安を解消するためのものであるとすると、何かと心の問題を抱えがちな毒親育ち、つまりは親子問題を抱える人間が、宗教に走るのは理の当然とも言えるわけで、カルト・非カルトにかかわらず、法師というのはそもそもが親子関係に問題を孕んでいることが多かったと言えます。

 正真正銘、親子の断絶を経験した宗教家もいます。

 親鸞です。

 親鸞は、1256年、84歳の時、長男の善鸞(慈信房)を勘当しています。

 善鸞が父・親鸞の意図せぬ教えを、常陸や下野といった東国で広めていたからです。門弟への手紙で親鸞は、

“自今以後は慈信におきては、親鸞が子の義、おもひきりて候なり”(『血脈文集』)

 と宣言している。今後、慈信房こと善鸞を子と思うことはやめる、というのです。

 しかも末尾には、

“このふみを、人々にみせさせたまふべし”

 ともあって、広く門弟・信者に、善鸞を義絶したことを告知するよう念押ししています。

 親鸞の名で間違った教えを広められては困るからとはいえ、なにも義絶せずとも、善鸞の教えは違うのでこの手紙を皆に見せるように……と言えば済むのではないか、と思う私は甘いのでしょうか。門弟の手前、仕方なかったという事情があるにしても……。

 親鸞の義絶は、従来は80代半ばの老父の苦悩ということでとらえられていたのが、最近では善鸞の立場になって考察されることが増えてきました。私もその立場です。ここまで体面をつぶされたあげく、「子とは思わぬ」と内外に宣言された善鸞の気持ちを思うと、切ないものがあります。多くの人を救い慕われても、息子を救うことはできなかったのか、結局は見棄ててしまったのか……と、親鸞が薄情にも思えてきます。

 このように、子を勘当しているのはしかし、浄土真宗では親鸞だけではありません。

 親鸞の曾孫の覚如も長男の存覚を二度も義絶しています。これは、

「門弟のとりなしによって、最終的には義絶は解かれたものの、両者の関係は最後まで元には戻らなかった」(※5)

 といいます。さらに、戦国時代の顕如も子の教如を義絶している。

 民俗学者の五來重は、宗教学者の佐藤正英との対談の中で、

「本願寺の歴史は父子義絶の歴史といってよいほど義絶が多い」(※6)

 と言っているほどです。本願寺とはもちろん親鸞の開いた浄土真宗を指します。

 浄土真宗にはなぜこんなに親子断絶が多いのか。

 それは一つには、妻帯を大っぴらに認めているため、おのずと子が出来る、それで父子関係が悪化する確率も高まるということが考えられるかもしれません。

 とはいえ当時は、

“妻持たぬ聖は次第に少く”(『沙石集』巻第四ノ二)

 と言われるほど、法師に妻帯者が多かった時代です。妻子がいるのは浄土真宗だけに限った話ではありません。なのになぜ……と考えるに、開祖・親鸞の不幸な生い立ちがベースにあって、負の連鎖とも言うべき親子関係が、子孫にも続いたのではないか。

 というのも、親鸞は、伯父の日野範綱に伴われ、わずか9歳で出家しているんですが、その時、下の弟たち4人も出家している。

「長男親鸞を含めた兄弟五人の出家という異常事態が何によって引き起こされたのかは定かではない」(※5)

 といい、かつては父・日野有範の早世が理由にあげられていたものの、第二次世界大戦後、親鸞の弟・兼有が律師となるころまで生存していたことを示す史料が出てきて、今では否定されています(※7)。また、母方の援助がまるでないというのも不思議です。

「親鸞聖人の伝記には明瞭でない部分が甚だ多い」(※8)といいますが、親鸞の子孫の一人の大谷暢順は、

「少なくとも、親鸞聖人の父母がひじょうに不遇の生涯を終えたということは間違いない。いわば挫折した人たちです。聖人の兄弟ぜんぶが得度したということは、何か大変な不幸に見舞われたに違いありません。つまり、家族が崩壊するような何かがあった。これはもう、間違いない」(※6)

 と断言しています。

 親鸞の両親がいかなる「不幸」に見舞われたのか、今となっては分かりません。分かっているのは、その後、親鸞を含めた5人の兄弟たちは母方・父方どちらの親族にも養育されることなく、出家の道を選ばされたこと。いわば棄てられたことです。

 親鸞は、「たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄に堕ちても一切後悔しない」(『歎異抄』)、「法然上人のおいでになる所には、人が何と言おうと、たとえ悪道へ行かれるとしても」(『恵信尼消息』)と、師の法然にどこまでもついて行くと言ったことで有名です。

 法然もまた9歳で父を殺され、出家の道に赴かざるを得ない人でした。父の愛を知らない親鸞にとって、40歳年上の法然は偉大な師であると同時に、理想の父親だったのではないか。一方で、親鸞自身は良き父親にはなれなかったのでしょう。

 江戸初期に本願寺は東西に分裂しますが、それはいったん跡を継いだ教如の母・如春尼が、教如の弟の准如に法主の座を譲らせようとはかったのが始まりです。その意を汲んだ豊臣秀吉によって教如は隠退させられ、准如が法主になった。これが西本願寺で、その後、政権をとった徳川家康に教如が請願して寺を建て、それを受け継いだのが東本願寺です〈系図〉。

 同じ腹を痛めた子でも、親は下の子を可愛がるというのはいつの時代も変わらないのでしょう。東本願寺では1969年、大谷光暢法主と長男の光紹新門とのあいだで教団問題が勃発しますが、その渦中の人である光紹新門をそそのかした張本人の吹原弘宣は、毎日新聞記者のインタビューにこう語ったといいます。

「法主と新門は親子でありながら和がない。母親の智子裏方は自分の手元で育てた末っ子の暢道氏ばかりをネコっ可愛がりで、上の三人は“ままっ子”扱いだ――そんな家族の悪口を聞くことから(大塚注・光紹新門とのつきあいが)始まったんです」(※9)

 智子裏方とは光暢夫人のことで、昭和天皇の皇后の妹君でもあります。吹原という詐欺事件でも摘発されていた疑惑の人の発言とはいえ、田原由紀雄によれば長男から三男までの「養育は乳母まかせで自分の乳で育てない。そんな育ちが、母子関係をぎごちないものにさせたであろうことは想像にかたくない」(※9)上、当時、長男の光紹新門は母の決めた女性との結婚を両親に相談もなく破談にしてしまった。縁談のことはすでにマスコミにも大々的に書き立てられており、メンツをつぶされた母は、「非常識な形で踏みにじり破談にした新門に対して、わだかまりを抱くようになった」。

「『親子の間をとりもってほしい』と新門から頼まれたのが、宗政に介入するきっかけだ、という先述の吹原の証言はあながち嘘ではなかった」(※9)のです。

 別の女性と結婚した光紹新門は、子どもの教育を理由に本家から遠ざかったといいます。

 その後、教団問題は、教学や財産を巡る大々的な問題に発展し、東本願寺はさらに分裂して、今に至るのですが、その根には親子問題が横たわっていたわけです。

※1 『古事談』巻第三
※2 『宇治拾遺物語』巻第十二
※3 『愚管抄』巻第六
※4 『善信聖人親鸞伝絵』(1295年)
※5 小山聡子『浄土真宗とは何か』(中公新書)
※6 佐藤正英ほか『徹底討議 親鸞の核心をさぐる』(青土社)
※7 松尾剛次『知られざる親鸞』(平凡社新書)
※8 日本古典文学大系『親鸞集 日蓮集』解説
※9 田原由紀雄『祖師に背いた教団』(白馬社)

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。近著に『くそじじいとくそばばあの日本史』(ポプラ新書)がある。

2020年11月20日 掲載

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