子を使い捨てる親たち その(1) 父にうとまれた英雄ヤマトタケルの悲劇

 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ〜んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第17回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!


■父に“死ね”と思われたヤマトタケル


『すべての男は消耗品である』という村上龍のエッセイ集がありましたが、我が子を消耗品と見なしている親は、確実にいます。

 今のような少子化社会では少ないでしょうが、それでも、いざ介護が必要になった時、親は最もお気に入りの子ではなく、差別してきた、冷遇してきた子に頼ることが多いといいます。つまり「潰してしまってもいい子」に「ケア期待」が向けられるというのです(※1)。

 このくだりを読んだ時、背筋に寒気を覚えると同時に、「やはり……」という思いになったものです。

 前近代、貧家で跡継ぎ以外の子を口減らしに出したり、娘を借金のカタにして遊郭で働かせるのなどは、ある意味、「潰してしまってもいい子」だからとも言えます。

 まして一夫多妻で、子が何人も何十人もいる支配階級に、親にとってその手の子が出てくるのは当たり前でしょう。

 そしてそういう子というのは、ケア期待を向けられる「潰してしまってもいい子」さながら、利用されるだけ利用され、命をすり減らしていく。

 そんなふうに、我が子を利用した親として思い浮かぶのが、『古事記』に描かれる景行天皇です。

『古事記』(712年)によれば、天皇ははじめ美女二人を召し出すために、皇子のオホウスノ命を遣わしたところ、オホウスは二人を我が物にして、天皇には別の女たちを献上しました。真相を知った天皇は、オホウスの弟のヲウスノ命を呼んで、

「そなたがねんごろに教え諭しなさい」(“専ら汝、ねぎし教へ覚せ”)

 と命じます。母系的な要素が強かった古代社会では、父子と言っても距離があったのに対し、オホウスとヲウスは同じ母の腹から生まれているので、親しい身内だった。それで、オホウスの不始末をいわば尻拭いするよう命じたわけです。

 ところが、5日経ってもオホウスが姿を見せないので、天皇がヲウスに問いただしたところ、

「明け方、兄が厠に入った時に待ち伏せし、捕まえてつかみつぶして、手足をもぎとって薦〈こも〉に包んで投げ棄てました」

 と言うではありませんか。

 それを聞いた天皇は、ヲウスの荒々しい心を恐れ、

「西のほうにクマソタケルが二人いる。服従せずに無礼な者たちだから、討ち取れ」

 と命じます。これによってヲウスの命は危険にさらされますが、彼が戦でエネルギーを消耗した上、敵を一掃できれば一石二鳥、たとえ死んでもまぁ仕方ない、と、天皇は考えたのでしょう。なにしろ『古事記』の伝えるところでは、天皇の子は名が分かっているだけでも21人。計80人もいる。『本朝皇胤紹運録』(1426年ころ)にも67人の皇子女の名が上げられています。ひとりくらい死んでも構わぬという気持ちだったのかもしれません。

 が、この時点では、天皇の真意に関して、ヲウスが疑問を感じた形跡はうかがえません。

 叔母のヤマトヒメノ命の衣裳をもらい受け、少女の姿になったヲウスは、クマソタケル兄弟をだまし討ちします。その際、断末魔のクマソタケルに、

「西方に我ら二人をおいて猛く強い者はいない。けれど大和国には我ら二人にまして強い男がいらした。だから私はあなたにお名前を差し上げよう。今後は“倭建御子〈やまとたけるのみこ〉”と名乗られるがよい」

 と言われたことから、ヲウスはヤマトタケルノ命と名乗るようになります。

 そのまま出雲国に入ったヲウスことヤマトタケルは、イヅモタケルと友情を結ぶふりをして殺害、父・天皇のもとに復命します。

 ところが父は、疲れて帰って来たヤマトタケルに、

「東方に12の国の荒ぶる神と服従しない人々がいるから、平定せよ」

 と、立て続けに命じる。

 事ここに至ってヤマトタケルは、父が自分に“死ね”と思っていることを確信します。

「父・天皇は、確実に私に死ねとお思いになっている。なぜなんだ。西方の悪者どもを討ちに遣わされ、都に帰り着いてまだどれほども経たないのに、軍勢も下さらないで、今また東方の12国の悪者どもを平定しに遣わされた。これは絶対、私など死んでしまえとお考えなのだ」(“天皇の既に吾を死ねと思ふ所以や、何。西の方の悪しき人等を撃ちに遣して、返り参ゐ上り来し間に、未だ幾ばくの時を経ぬに、軍衆を賜はずして、今更に東の方の十二の道の悪しき人等を平げに遣しつ。此に因りて思惟ふに、猶吾を既に死ねと思ほし看すぞ”)

 そんなふうに叔母のヤマトヒメに泣きつきます。

 ヤマトタケルが現代人から見ると卑怯とも思える方法で敵を殺したのは、少ない労力で敵を倒す知恵の持ち主こそ英雄であるという観念が古代にはあってのことでしょうが(⇒連載第1回・「毒母・神功皇后」の章参照)、彼のセリフからすると、父に十分な“軍衆”(軍勢)を持たされなかったからである可能性もあるのではないか……。

 そして、ここでヤマトタケルが、

“既に吾を死ねと”

“吾を既に死ねと”

 と繰り返していることに注目です。“既に”とは「確実に」とか「紛れもなく」の意です。西征で芽生えていたであろう「父はひょっとして討伐がてら私を殺そうとしているのではないか」という思いが、東征を命じられたことで、はっきり確信に変わったことが浮き彫りになります。

 そんなヤマトタケルに、叔母のヤマトヒメが渡したのが草薙剣でした。

 東征でもめざましい戦果を上げた彼は、尾張のミヤズヒメのもとに草薙剣を置いて、さらなる戦に出かけます。そうして大和に戻る途中で息絶えます。

 ヤマトタケルは、父・天皇にうとまれながらも、ヤマト王朝に尽くした悲劇のヒーローとして語られているのです。

■『古事記』の父子のリアリティ、『日本書紀』の「実の親幻想」


 ところが、『古事記』とほぼ同時期に成立した『日本書紀』(720年)では、様相が違う。

 ヤマトタケルの死を知った父・天皇は、寝食もままならぬほど悲しみ、

「髪を上げて結う年にもならぬうちに久しく征討に悩み苦しみ、その後も私を補佐してくれた。けれど、東方も征討する者がいなかったので、いとしさを忍んで賊の地に入らせたのだ」

 そんなふうに嘆いている。

 父・天皇がヤマトタケルの力を殺ぐために、あるいは亡き者にするために、西征東征を命じたという設定の『古事記』とはまるでスタンスが違います。

『古事記』には敗者の視線があるのに対し、『日本書紀』は天皇の権威をより強調する姿勢ですから、景行天皇が皇子の死を望んでいたかのような記述はまずいのかもしれない。あるいは『日本書紀』の編者は「実の親は子を愛するものだ」という「実の親幻想」のようなものに冒されていたのかもしれません(こうした幻想については次回、詳しく追究します)。

 さらに考えると、『古事記』のほうこそ、ヤマトタケルの悲劇性を際立たせるために、あえて非情な父によって死に追いやられた子という「物語」を作った可能性もあるでしょう。だとしたら、『古事記』の編者は、親子関係に潜むむごさというのを、驚くほど理解しています。

 子は親に認めてもらうと嬉しく、頑張るものです。

 けれどもしも、親が、その子を消耗品と見なしていたとしたら……。その子は、「思い通りに動かぬと愛してやらない」という条件付きの親の「愛」に振り回されながら、人生を搾取されたあげく、命の炎を消してしまう。

『古事記』の語るヤマトタケル伝説は、そんな毒親育ちの悲しさを、大和国の勢力拡大の歴史に乗せて、浮き彫りにしていると思うのです。

※1 平山亮・古川雅子『きょうだいリスク』(朝日新書)

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。近著に『くそじじいとくそばばあの日本史』(ポプラ新書)がある。

2020年12月4日 掲載

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