妻の記憶障害がわかった が、悪いことばかりでもない──在宅で妻を介護するということ(第15回)

「彼女を自宅で看取ることになるかもしれない」 そんな覚悟もしつつ、68歳で62歳の妻の在宅介護をすることになったライターの平尾俊郎氏。

 幸いなことに、少しずつ妻は奇跡的な回復を見せ、簡単な会話もできるようになった。そのおかげで記憶障害もわかったのだが――体験的「在宅介護レポート」の第15回である。

【当時のわが家の状況】
夫婦2人、賃貸マンションに暮らす。夫68歳、妻62歳(要介護5)。千葉県千葉市在住。子どもなし。夫は売れないフリーライターで、終日家にいることが多い。利用中の介護サービス/訪問診療(月1回)、訪問看護(週1回)、訪問リハビリ(週2回)、訪問入浴(週1回)。

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■訪問診療を月1回、看護も週1回に減らす


 年が明け、2020年になった。「在宅」で迎える正月はこれが2度目になる。

 前回は引き取って10日余りで年が変わったせいか、正月感は限りなくゼロに近かった。女房はまだ一日の大半は目を閉じていて、呼びかけに対する反応も薄かった。私も遠のいたはずの死の影にまだ怯えていた。

 今年は全く違う。寝たきりの状態に変わりはないが、新年を告げれば「おめでとう」と返ってくるし、たぶん伊達巻くらいなら一緒に食べられるだろう。

 経管栄養もバルーンカテーテルもとれて迎えたこの年明けを、私は「在宅」の一つの節目と考えていた。もはや「医療」は介在しない。ここから先は「介護」と「リハビリ」中心「在宅」になる。そこで、従来のケアプランを見直してみようと思った。

 ケアプランの組み立てはケアマネジャーの仕事だが、それは介護保険の導入時のこと。1年もサービスを利用した後のプランの見直しは、何が必要か不要かをいちばんよく知る家族(介護者)の仕事だと思う。もちろん、機能回復に必要なリハビリ回数は理学療法士に、サービスの限度基準額はケアマネと相談したうえでだ。

 一度サービスが開始されると、それが一つの生活のリズムとなり、なんとなく惰性で継続してしまうケースが多いと思う。しかし、ケアプランの変更は自由だしいつでも可能だ。新規サービス以外は面倒な手続きもいらない。

 それまで月2回来てもらっていた訪問診療を月1回に、訪問看護も週2回から1回に減らした。身体状況が改善され、医療的措置の必要がなくなったからだ。キリのいい1月から変更。そうすることで介護事業者への支払いを、月1万2千円程度減らすことができた。

 最初にケアプランのひな型をつくるのはケアマネでも、利用者にも家計にもやさしいプランにアレンジしていくのは家族(介護者)の役割だと思う。


■日替わり看護師も、逆に刺激に


「在宅」も1年を超えると、介護事業者との間に信頼関係が築かれ、ハンドルの遊びのようなものが生まれてくる。訪問診療は除き、訪看、リハビリ、入浴の日と仕事が重なった場合、勝手に部屋に入ってサービスをしてもらうようにした。1階の郵便受けにカギを入れ、電話一本するだけでいい。

 介護事業者はみな良くしてくれて、不快な思いをしたりトラブルが発生したことは一度もなかった。一つだけ気になったのは、半年を過ぎたころから、訪問看護の看護師さんが毎回コロコロ変わったことだ。iPadを活用して情報伝達がしっかりできているので問題はないのだが、ちょっと手を抜かれたような気がしたのである。

 それまでは担当が固定され、2人の有能な看護師さんが交代で来てくれていた。「手がかからなくなった証拠、良しとするか」と前向きに考えることにしたが、毎回新顔が現われるので名前をメモしていったらすぐに10人を超えたのには驚いた。世に言われる看護師不足がウソのようである。

 だが、しばらくするとこの“日替わり看護師”も悪くないと思えてきた。人が変われば女房もそれなりの緊張感をもって接するからだ。デイサービスにも行けない彼女が接することのできる他人は、介護スタッフの頭数だけ。それなら、いろんな人が入れ代わり立ち代わり来てくれた方が刺激になる。

 たまに来る人ほど変化の違いが分かる。「平尾さんの声初めて聞いたわ」「こんなに元気になって、私の方がうれしくなっちゃった」
などと言われれば、女房も悪い気はしない。

 それもそうだろう。彼女たちの訪問先は大半が80・90代で、女房のようV字復活事例は滅多にない。わが家に来るのが楽しみと言ってくれる人もいた。

 女房は高知県出身。いわゆる“はちきん(土佐弁で男勝りの女性)”である。
話し方や行動がハッキリしていて負けん気が強い──私と全く正反対の性格で、結婚した当初、二人を知る仲間たちは「1年持つかな」と言っていたらしい。

 女房がこういう仕儀になって意外だったのは、とても素直で聞き分けが良く手のかからない病人でいてくれることである。人間は窮地に陥ると本性が出るものだ。クスリをきちんと飲まないとか、おむつ交換を拒否するとか、わがままを言って困らせるだろうと覚悟していた。

 ところが予想に反してとても優等生なのである。寝たきりでかなりストレスがたまっているだろうに、私に暴言を吐いたり、介護スタッフを困らせたりしたことは一度もない。逆に、テーブルに食事の用意をする度に「おいしそう」といい、おむつ交換の後は「ありがとう」と言ってくれる。

 大病をすると人は変わるというが、そういうのでもなく、生まれつき持っていた素直な性格が出ているような気がする。これはうれしい誤算だった。

■しまむらと100均に感謝


「在宅」を始めてから、衣類・雑貨を購入する機会が増えた。パジャマ、タオル、夏掛けぶとん、シーツ、枕、スリッパの類で、ひいきのお店は自転車で5分ほどのところにある、ファッションセンターの「しまむら」。都心部にはあまり見かけないが、郊外に行くとどこにでもある日常普段着にシフトした大型チェーン店だ。

 しまむらは、“お年寄りの銀座”といわれる巣鴨地蔵通り商店街をほうふつさせる品ぞろえの店である。ターゲットは中高年。センスはお世辞にも最先端とは言えないが、何より値段がとびきり安く、家で普段着使いするには最適な衣料・雑貨がそろっている。

 寝たきりの人間を抱えていると、大事なのは質よりも量。安くて惜しみなく何度も洗濯できるものが一番いい。スーパーの婦人服売り場などにはさすがに入りにくいが、しまむらにはメンズも置いているから恥ずかしくない。

 まさしく介護者御用達の店。ユニクロにはない柄物が豊富にあるのもいい。最近はいい買い物ができると、看護師さんに見せて自慢するほどの“しまラー”になってしまった。

 もう一つ、私たちの生活に深く入り込んできたのが、ご存じ100円均一ショップの「ダイソー」だ。

 食器、文具、カレンダー、ちょっとした生活雑貨など、なんでも100円で入手できて有難いことこの上ない。最近は品質も普及品と遜色なくなってきた。スーパーの2階にあるこの店に私は、感謝を超え畏敬の念すら覚えている。

 そんなわけで、私が“主夫”の役割を担うようになってから、わが家はしまむらと100均グッズに席巻されつつある。若いころブランド志向が強かった女房が元気になったら、ひと悶着起きるのは必至だろう。


■10分前の出来事が思い出せない


 桜の開花予想が行われるころになった。週2回のリハビリ空しく、いまだ女房の両脚に脳の指令は届かない。足指をピクッと動かすのが精一杯で、膝が持ち上がる気配は全くない。足が立たなければトイレは無理だ。全介助状態を脱することはしばらく難しいだろう。

 最低でも週に1度は車いすに乗せ、テレビを見る時間をつくった。座位を長くとることで姿勢を保持する筋肉に力が働くという。しかし、相変わらずベッドに戻ると吐き気を催すため、デイサービスへ連れていく日は延び延びになっていった。

 身体に比べて、頭の方は順調な回復を見せた。このころになると、日常会話レベルの「話す」「聞く」はほとんど問題なくできるようになった。ワイドショーの中身をほぼ理解し、ラジオから流れる昔のヒット曲を一緒に口ずさむことも多くなった。

「スーパーの前にマクドナルドができたよ」

「あらそう、いつから……」

 介護者にとって、何気ない言葉のやりとりができるほどうれしいことはない。それだけで私の介護ストレスは半分近く軽減された。ただ、話ができるようになって初めて分かったこともあった。

 ある日、訪問看護師が帰って1時間ほどして、目が覚めた妻に「とても親身になってくれる看護師さんだね」と話しかけたときのことである。「えっ、今日来たっけ?」と真顔で言う。全く覚えてないらしい。アルツハイマー型認知症の人によく見られる「記憶障害」だ。

 そういえば、お風呂に入ったことを忘れているような日もあった。「やはり脳にダメージを負ったか」と悔しい思いはしたが、薄々感じていたことなので大きなショックはなかった。

 医師に相談したところ、「記憶をつかさどる海馬に近いところをやられているので仕方ないでしょう。ただ、アルツハイマーではないので、今後進行することは考えにくい」と言われ、胸をなでおろした。

 面白いことに記憶があやしくなるのは直近の出来事で、10分くらい前に言ったことをもう忘れている。一方で古い記憶、例えば若いころの旅行先とか、仕事でお世話になった人などはだいたい覚えているのだ。

 それでいいと私は思った。もしもこれが逆で、昔のことをすっかり忘れてしまっていたとしたら、これほど悲しいことはない。夫婦が長く連れ添うことの意味はそこにあると思うからだ。

 お互いの若いころを知っていて、当時の思い出を語りあうことができる。楽しかった日々、苦しかったあの頃のことを、お茶でも飲みながら語れる相手がいるのは素晴らしいことだ。それだけで十分ではないか。

 ただ、過去の記憶でも弱い時期があり、特に3〜5年くらい前の記憶がスッポリ抜けているのが後で分かった。この時期、彼女の両親が他界している。「お母さんどうしてるかしら」と言うので、亡くなったと告げると号泣した。記憶のかけらもないので、闘病の様子や葬儀の話を言って聞かせた。

 2〜3日して、またお母さんはと言うので冗談かと思ったが、同じように答えたところ、初めて訃報に接したかのように驚き、みるみる涙目になったのにはいささか驚いた。記憶障害にはこの先も苦労することになる。

平尾俊郎:1952(昭和27)年横浜市生まれ。明治大学卒業。企業広報誌等の編集を経てフリーライターとして独立。著書に『二十年後 くらしの未来図』ほか。

2020年12月17日 掲載

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