子を使い捨てる親たち その(2) 自分のために命がけで戦ってくれたわが子を見殺しにした後醍醐天皇

 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ〜んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第18回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!


■父に使い捨てられた護良親王


『古事記』の描くヤマトタケルは、父・天皇にたび重なる征討を命じられ、命の炎を燃やし尽くしたわけですが、その話には伝説的な部分も大きく、悲劇性を強調するために、あえて冷酷な父を創出した可能性もないとは言えません。

 その伝でいくと、後醍醐天皇(1288〜1339)はさながらリアル冷酷な毒親と言えるでしょう。

 後醍醐は、皇子の護良親王(1308〜1335)の武勲のおかげで鎌倉幕府を倒し、建武の新政を実現しながら、親王が邪魔になると、捕らえて幽閉。その果てに親王は28歳の若さで死んでしまったのですから。

 直接、手を下したのは父・天皇ではないとはいえ、足利直義(1306〜1352)によって鎌倉の土牢に幽閉されるがままにしたのは天皇です。

 小さいころ、親王が閉じ込められていたと伝えられる、じめじめと暗い土牢(実際には土牢ではないという説もあります)を見た時、悲しく恐ろしかったことが忘れられません。

 護良親王は、なぜこんな目に遭わねばならなかったのか。なぜ、命がけで戦ったにもかかわらず、父・天皇に見殺しにされたのか。

 一般的には、共に幕府を倒した足利尊氏(1305〜1358)との対立が原因であると言われています。

 1333年5月、尊氏が六波羅探題を攻め落とした時(同時期、新田義貞が鎌倉を攻略、鎌倉幕府滅亡)、親王の配下の殿法印良忠〈とののほういんりょうちゅう〉の手の者どもが京中の土蔵から財宝を奪い取った。それを尊氏は召し捕って、二十余人を六条河原で処刑。さらした首の傍らに、

“大塔宮〈おほたふのみや〉の候人〈こうにん〉、殿法印良忠が手の者ども、在々所々において、昼強盗〈ひるがうだう〉をいたすあひだ、誅するところなり”(『太平記』巻第十二)

 と書いた高札〈たかふだ〉を掲げた、ということがありました。大塔宮とは護良親王のこと。

 新井孝重によれば、彼らは「雇い主である護良・良忠らから占領地の財物を略奪する自由を付与され、そうすることによって労働の対価(報酬)を得ていた」(※1)。

 親王の勢力は傭兵的な、ならず者が多く、親王としても皆に所領や褒美を与える財力もなかったのでしょう、それで略奪を以て報酬とすることを黙認していたわけです。

 尊氏は、そうした親王の弱点・問題点を明示して「打撃をくわえるいっぽう、統治行政の主導権を一挙に掌握しようとした」(※1)。

 そんな尊氏の仕打ちに憤った親王は、尊氏を討つべく諸国へ令旨を下し、兵を集めていたのですが、これを察知した尊氏は、親王の“継母の准后”(阿野廉子〈1301〜1359〉、後村上天皇の生母)を通じ、「親王が帝位を奪おうとして諸国の兵を集めている」と、天皇に讒言した。怒った天皇は、

“この宮を流罪に処すべし”(『太平記』巻第十二)

 と言って、音楽会にこと寄せて親王を呼び出し、馬場殿に幽閉。1334年5月、尊氏の弟の直義に引き渡された親王は、11月、鎌倉の二階堂に作られた土牢に閉じ込められることになります。

 そして翌1335年7月、旧幕府方の北条氏の残党が反乱(中先代の乱)を起こすという混乱の中、親王は、直義の配下によって刺し殺されます。

 土牢に長いこと座っていたので、足も思うように立たぬところを襲われて、首を切られたのでした(『太平記』巻第十三)。

■継母幻想と実の親幻想


 こうして見ると、親王側にも問題はあったでしょう。亀田俊和は、父・天皇の「再出家の命令に従わずに勝手に将軍を名乗り、綸旨と矛盾する令旨を発給して政治を混乱させた。何より、最大の功労者である足利尊氏を公然と敵視し、テロ攻撃を企てた」親王は、「粛清されないほうがむしろおかしいのではないだろうか」と指摘しています(※2)。

 そうかもしれません。けれど、もともと親王が出家したのは、寺の大きな軍事力と政治力を支配下に置くために、皇子を送り込むという天皇の政策によるものでした(※3)。親王が延暦寺のトップにのぼりつめたのも父・天皇の意向があってのことです。

 そうして利用してきた親王が、いざ自分の思惑以上の権力を持とうとすると、これを切り捨てた父・天皇……。

『本朝皇胤紹運録』で数えると、後醍醐には32人の皇子女がいる。意に添わぬ者はひとりくらい欠けてもやむなしというか、むしろいなくなってくれたほうが良かったのかもしれません。

 気になるのは、父・天皇が親王を切り捨てる際、大きな影響力を発揮したのが、『太平記』では親王の“継母”、阿野廉子とされていることです。

 悪いことは何でも女のせいにする、差別意識に基づいた歴史の捉え方を、私は「傾城史観」もしくは「悪女史観」と呼んで警戒しています(※4)。応仁の乱の起こりは日野富子のせいだとか、豊臣氏を滅亡させたのは淀殿だといった言説がその例です。

『太平記』の著者がこうした史観で歴史を著述していることは、このエピソードを、

“牝鶏晨〈ひんけいあした〉するは、家の尽くる相なり”(雌鶏が夜明けを告げるのは、家が滅ぶ前兆だ)(巻第十二)

 という中国のことばを引いて締めくくっていることからも明らかです。

 ここにはそれプラス「継母幻想」とでも言うべき毒親観があると私は考えます。

 白雪姫の美貌を妬んで殺そうとした継母は、『グリム童話集』の初版では実の母だったことは、連載の7回目で触れました。

 それが第2版以降では「残酷な場面や性的な事柄が削られ」た(※5)。白雪姫を殺そうとするのが実母というのは残酷すぎるということで、継母に変えられてしまったのです。

 実際には、虐待の加害者は圧倒的に実の親が多く、平成29年のデータによれば実母以外の母つまり継母は0.6%に過ぎません(※6)。

 そもそも子どもは母の実家で過ごすのが基本の母系的な古代日本では、継母と子が同居することはまずない。

 それが武士の世になって、家族が父権的になると、以仁王(1151〜1180、後白河天皇の第三皇子で皇位継承の有力候補だったが帝位につけなかった)の不遇は、継母である建春門院こと平滋子(1142〜1176、高倉天皇の生母)の“そねみ”によるものだ(『平家物語』巻第四)とされるなど、継母は悪役を演じさせられます。

 なぜ悪事が継母のせいにされるかと言えば、「白雪姫」の改変に見るように、実の親が子を不幸に陥れるという事実は、あまりに残酷で、つらすぎるからです。

 実の親は子を愛するものだという「実の親幻想」は社会の隅々に広がっています。そういう価値観に縛られた世間は、「親子なんだから仲良くしなきゃ」「親が寂しがっている」などと言って、親に虐待された子を二重に苦しめます。ヤマトタケルを利用し尽くした父・景行天皇が、その死を悼んだとする『日本書紀』の編者も、天皇の権威付け以上に、こうした「実の親幻想」に冒されていたのかもしれません(前回参照)。

 一方で、文芸作品では、実の親の残酷さが繰り返し語られてきました。『古事記』がイザナキ・イザナミ夫妻の子棄て・子殺しや、景行天皇の皇子への冷酷さを描いたのをはじめ、継子いじめで名高い『落窪物語』も継母の実の子に対する暴言を描き出しています。近現代の例としては、手塚治虫の『どろろ』でも、天下を取ることを条件に、生まれてくる子(百鬼丸)のカラダを48匹の魔物に与えたのは実の父でした。

 実の親の冷酷さが踏まえられたこれらの文芸作品とは異なり、『太平記』は世間並みの価値観に縛られていたのでしょう。山下宏明によれば、「史実としては、親王と天皇、それに足利高(尊)氏がからまる三者の対立があったと考えられる」のに、『太平記』は親王と尊氏の対立ととらえ、さらに尊氏にとって名誉なこととは言えない親王讒言の話を「廉子のとがにすり変えている」と言います(※7)。

 現実は、

“武家よりも君のうらめしく渡らせ給ふ”(『梅松論』上)

 と、流刑先の鎌倉で親王が独りごちたというのが真実に近いのではないか。親王は、尊氏よりも父の後醍醐天皇を恨んだ、というのです。

『梅松論』は足利寄りの歴史書で、尊氏暗殺計画の黒幕は実は後醍醐天皇だったのに、露呈するや天皇はその“御科〈とが〉”を護良親王に押しつけた、それで親王は父を恨んだというのが同書の主張です。

 現実に黒幕が天皇であったかどうかは分かりませんが、自分を利用するだけ利用して、幽閉させるに任せた父・天皇を、親王が最も恨んでいたというのは、リアリティを感じます。

 ちなみに、瀬野精一郎によれば、護良親王と敵対した足利尊氏は、実の子の直冬(1327?〜1400?)とも敵対し、直冬の誅伐を九州の諸豪族に命じ、首実検までして直冬の死を確認しようとしたといいます(※8)。

 そもそも尊氏は直冬を認知せず、法師となった直冬は、父・尊氏が室町幕府を開くと、還俗して父に会いに行くものの、対面はゆるされませんでした。そして叔父・直義の養子となったわけですが〈系図〉、尊氏は「自分の直冬に対する冷酷な仕打ちを忘れ、直冬の自分に対する面当〈つらあ〉てと受け取り、ますます直冬を憎む気持を増幅させていった」のです(※8)。

 こうした尊氏の言動について瀬野氏(実は私の大学時代の恩師です)は、「直冬が本当に自分の子であるということ自体を疑っていたのではないかと思える節がある。そうでなければ尊氏の直冬に対する異常とも思える父子敵対の状況を理解することができない」(※8)としていますが、この点は私は少し意見が違います。直冬は、劣り腹の子、それも『太平記』巻第二十六によれば、尊氏が越前局という女房に“一夜”通ってできた子です。つまりは大して好きでもない女の腹ですから、たとえ我が子でも愛情が持てなかったのではないか。自分のタネと分かってはいても、好きでもない女にうっかり子ができて、「堕ろしてほしい」と告げる男は世にごまんといる。尊氏もこの類いだったのでは……。

 直冬は、可能であれば、堕ろしてしまいたい子だった、それでも共に生活すれば愛情も湧くでしょうが、そうではなかったのだから愛情の湧きようもなかったのだろう……というのが私の考えです。

※1 新井孝重『護良親王』(ミネルヴァ書房)
※2 亀田俊和『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版)
※3 森茂暁『皇子たちの南北朝』(中公文庫)ほか
※4 大塚ひかり『女系図でみる日本争乱史』(新潮新書)
※5 『初版グリム童話集』1 訳者まえがき(白水社)
※6 https://www.mhlw.go.jp/content/11920000/000394627.pdf
※7 新潮日本古典集成『太平記』二 校注 山下宏明
※8 瀬野精一郎『足利直冬』(吉川弘文館)

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。近著に『くそじじいとくそばばあの日本史』(ポプラ新書)がある。

2020年12月18日 掲載

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