「中尾山古墳」が文武天皇陵と確実に 宮内庁はいつまで“ねじれ構造”を放置するのか

 奈良県明日香村の中尾山古墳が、日本が統一国家の様をなしてゆく7世紀末から8世紀初頭に君臨しながら夭逝した文武天皇(683〜707年)の陵墓であることが確実となった。

 11月28、29日だけ一般公開され、ぽかぽか陽気の29日に訪れた。明日香村の教育委員会と関西大学が「再調査結果」として発表したもので、発掘調査は1974年(昭和49年)以来という。

 中尾山古墳は近鉄・飛鳥駅から歩いて15分ほどの丘にある。文武天皇陵と認められたことを祝うように、古墳の周囲だけまだ紅葉が美しかった。

 集まった見学者を前に明日香村教育委員会の西光慎治調整委員が「天皇中心の律令国家で作られた新しい形態のお墓。舒明天皇以来の八角形は天皇にしか許されない形のお墓の形態なんです。でもこの八角形は中尾山古墳で終わってしまった。唯一無二の重要な古墳です」などと説明していた。巨大な前方後円墳の時代はとうに去り、規模も縮小されたこうした天皇陵が主流になったが、その最後のもので「終末期古墳」とされる。

 墳丘は三段構造。下段と中段には石が敷き詰められている。上段は土だけを固めている。(版築という)。石室は10個の大きな石材を組んで作られた「横口式石槨」構造。

 側壁、奥壁、隅石(石柱)は加工しやすい兵庫県高砂市産の「竜山石」(凝灰岩の一種)が使われる。石敷きの石は560トンも使われ、八角形の「対辺長」(円でいう直径)は32・5メートルもある。

 石室には子供か痩身の人ならやっと入れる幅25センチほどの隙間がある。鎌倉時代に盗賊が重い隅石を押しのけて作った隙間だ。入口に鏡が置かれて中が少し覗けるようになっていたが「次のグループが来ていますのでお進みください」と言われよく見られなかった。天井石は花崗岩、内部はかつて水銀朱で真っ赤に塗られており、天井に片鱗があるという。中央には火葬骨を収めた銀壺を置く台があったと見られる。

 「文武天皇陵であることをさらに強く裏付ける発見」(白石太一郎・国立歴史民俗博物館名誉教授)(11月27日付け読売新聞朝刊)、「八角墳の最終段階を象徴するような古墳。『文武をもって古墳は終わる』といわれているが、火葬骨をおさめた石槨(せっかく)の石はピカピカに磨かれ、本当に精緻な造り。最高峰の人物にふさわしい墓だ。中尾山古墳の被葬者は文武天皇の可能性が極めて高い」(岡林孝作・奈良県立橿原考古学研究所副所長)(同日付け産経新聞朝刊)など、中尾山古墳に文武天皇が埋葬されていることは確実視されている。

 文武天皇は祖父が天武天皇、祖母が妻の持統天皇。父親(草壁皇子)が若くして死亡し、持統天皇が後見人となって697年に15歳で即位した。孫の即位に邪魔になる大津皇子を処刑した祖母の庇護で文武天皇は「大宝律令」を作り、法と官僚が支配する中央集権の律令国家を完成させた。唐の女帝、則天武后に遣いを送り、新国家が「日本」という名であることを知らせたが、710年の平城京への遷都が間近だった707年に25歳で病没した。

 文武天皇から物語が始まる『続日本紀』では、文武天皇の亡骸は飛鳥の山で火葬され遺骨は檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)に埋葬された、と記録される。

■名前が書かれた石などもなく、文武天皇陵との確証はない


 さて、この長い名前の埋葬場所は実際にはどこなのか。

 実は宮内庁が指定(治定(じじょう)という)している文武天皇陵は、極彩色の壁画で有名な高松塚古墳を挟んで500メートルほど南の栗原塚穴古墳なのだ。行ってみた。中尾山古墳よりはるかに大きく、鉄門で閉ざされて入れない奥に立派な鳥居がある。立札には「文武天皇 檜隈安古岡上陵」としっかり書かれている。訪れていた年配の男性は「宮内庁は文武さんの墓はここや言うて、今度も絶対変えへんのやろなあ」と笑っていた。

 『天皇陵古墳を歩く』(朝日新聞出版社)などの著書がある今尾文昭氏(関西大学非常講勤師 元橿原考古学研究所調査課長)によれば、文武天皇の墓は江戸時代、中尾山古墳の少し北にある「野口王墓」とされていたが、明治時代に見つかった「阿不幾(あおき)乃山稜記」により、ここが天武、持統天皇夫妻の合葬墓と判明。明治14年(1881年)に明治政府は治定を変更した。「その結果、文武天皇陵を新たに栗原塚穴古墳に決めてしまったのです。江戸時代は文武天皇陵が高松塚古墳だったこともありました。中尾山古墳は近代初めの陵墓からは漏れていたのです」と話す。

 この明治14年を最後に宮内庁は一切、天皇陵を変更していない。最近では2010年に、7世紀に活躍した斉明天皇(女帝・皇極天皇が復位して改名した)の墓が明日香村の牽牛子(けんごし)塚古墳と判明、大ニュースになったが、宮内庁は隣町の高取町の越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)を斉明天皇陵としたままだ。頑として変更しない理由を宮内庁は「神聖な祭祀が行われてきた」(陵墓課)などとする。6世紀に君臨した継体天皇陵も宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を陵墓としているが、学術研究から大阪府高槻市の今城塚古墳であることが確実。これも変更しない。前述の男性の「今度も」はこれらを念頭にしている。宮内庁は祭祀の伝統とともに「墓誌などが見つかっていない」も変更拒否の理由とし、今回も「名前が書かれた石などもなく、文武天皇陵との確証はない」などとする。

■「真実性」


 では栗原塚穴古墳には文武天皇の名前が書かれた石があるのだろうか。宮内庁は研究者も一切立ち入らせない。今尾氏は「今の学者で中尾山古墳が文武天皇陵であることを否定する人はいない」と見ており、宮内庁の姿勢は屁理屈をこねて歴史をねじ曲げているとしか思えない。

 明治政府は天皇国家として天皇家の権威づけのため実在も疑わしい神武天皇以来の「万世一系」を「可視化」するために慌てて天皇陵墓を「治定」してゆく。幕末から明治にかけて、文献や地域の伝承などに基づいての指定だったが「根拠薄弱」が多いことは指摘されている。その一方で指定した天皇陵の学術的な実地調査をほとんど拒否している。

 さて今回、半世紀ぶりに中尾山古墳が発掘調査されたのには理由がある。明日香村と橿原市は「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」として、石舞台や天皇陵などの遺跡の世界遺産登録を目指している。中尾山古墳を構成資産にしてもらうには、古墳の正確な寸法のなどが必要だった。明日香村は今回の調査結果について「世界遺産の登録に向けて大きな一歩となる」(教育委員会)と期待している。

 だが、世界遺産登録の要件に「真実性」がある。「嘘の埋葬場所」を世界に向けて具体名を挙げた天皇の墓だなどと喧伝していいのだろうか。昨年、大阪府堺市や藤井寺市などの「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されたが、目玉の「大山陵」に埋葬されているとされる仁徳天皇は実在さえ疑わしい。前述の今尾文昭氏は「百舌鳥・古市古墳群を構成する5世紀後半ごろまでの前方後円墳などの被葬者は不確かなことが多い。しかし今回の中尾山古墳は時代が8世紀に入っており、『続日本紀』などの正確な史料がある。それなのに事実と違うことを世界に向けて発信するのは問題です」と指摘する。さらに「宮内庁は祭祀を強調するが、一般の人は陵墓祭祀など知らない。違う場所を税金で祭っていることもおかしいのでは」と話す。

 宮内庁は墓誌や墓碑がないとするが、そもそも日本の墓には墓誌を入れる風習はない。今尾氏は「律令には墓碑を立てよとの規定はあるが、天皇陵、皇后陵は規定の外にある。学術研究の成果と国家の指定の『ねじれ構造』を正していくべきです。ただ、現状では正しい場所に変えるための法律が存在しない。国会議員なども動いてほしいですね」と訴える。

 仮に秦の始皇帝の墓と信じて中国の西安市を訪れて、真っ赤な嘘であれば世界の人は黙っていないだろう。自国の歴史を正しく伝えない国は世界の信用も得られまい。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年12月30日 掲載

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