「嫁」「ご主人」「お母さん」「奥さん」 他人をどう呼ぶかはプロすら悩ませてきた問題

 人気の男性俳優が、出演したテレビ番組中で妻である女優のことを「嫁」と語ったことが、一部の人の間で物議を醸したという。

■「嫁」は関西起源?


 脳科学者の茂木健一郎さんは、この呼称について、関西芸人の影響で東京の若者も使うようになったのではないか、という独自の説を示したうえで、「苦手で嫌いな表現」だとツイートした(2月22日)。

 この話題は主にネット上で盛り上がっているだけであって、おそらく多くの人は「別にいいじゃん」という反応だろう。当事者がOKなのに何をガタガタ言っているのか、と。

 ちなみに茂木さんが主張している「関西起源説」はかなり怪しい。たとえば1971年には「気になる嫁さん」(日本テレビ)、1981年には「うちの嫁さんあっちむいてプイ!」(フジテレビ)というホームドラマが放送されている。前者の主演は榊原るみ、後者は市毛良枝で、関西色はない。

 茂木さんの真意はわからないが、「嫁」が嫌いだという人の主張の一つは「旧い家制度を連想させる」といったあたりだろうか。

 先ほども述べた通り、多くの人は意に介さないのだが、気にする人はかなり気にするデリケートな問題のようだ。「嫁」がNGという人は「奥さん」「家内」「ご主人」「旦那様」も気になるだろう。

「女性は家の中にいろというのか」「男性が上位だと決めつけている」といった反発を感じる人が一定数存在するのだ。

 この種の呼称問題は、もうずいぶん前から存在し、言葉を扱うプロすら悩ませてきた。

 元文化放送アナウンサーの梶原しげるさんが2005年に刊行した著書『そんな言い方ないだろう』には「そんな呼び方ないだろう」と題した章が設けられている。そこには、「政治的正しさ」とか「コンプライアンス」といった用語が一般化する前から、しゃべりのプロですら日々、この問題に頭を悩ませていたことがわかるエピソードが綴られている(以下、引用は同書より)。


■プロも頭を悩ませる日本語表現


 そもそも日本では、相手を何と呼ぶかについて日常生活でも困ることが多い、と梶原さんは言う。英語ならば「YOU」の一言で済む二人称が、日本語では数多くあるからだ。「YOU」を英和辞典で引いてみると、「あなた(方)」「きみ(たち)」「おまえ(たち)」「なんじ(ら)」などが並ぶ。

 当然、相手を呼ぶ際には気を使わなくてはならない。「あなた」と「おまえ」では大違いだ。

 梶原さんの場合、会社を辞めたあとは近所で「ルルちゃんのパパ」と呼ばれる機会が増えたという。ルルは彼の愛犬の名前。

 似たような表現として「〇〇ちゃんママ(パパ)」もある。

 ペットや子供を媒介とした呼び名は無難なことが多いのかもしれない。

■「お母さん」「奥さん」 女性をどう呼ぶか


 一方で、難しいのが一定の年齢以上の人、特に女性をどう呼ぶかのようだ。テレビの旅番組ではよく、地元の女性に「お母さん」「奥さん」と呼びかける姿が映される。しかし2005年の時点で、すでに東京など大都会ではこれも結構ナーバスな領域の表現になっていたようだ。

「東京を始めとする大都会ではそう簡単にはいきません。リポーターが気楽に『お母さん』『奥さん』と声をかけた相手が実際には独身で子供もいない確率が、地方よりずっと高いからです。30歳を過ぎた女性は専業主婦で子供の一人もいて、60歳を過ぎれば孫もいるという過去の『標準家族モデル』は通用しません」

 安易にコミュニケーションの手段として「お母さん」などと呼ぶと「いつあなたを産んだのですか」と逆襲されかねないというのだ。

 梶原さんはかつてテレビ番組で経験をしたことをもとに、この件の難しさを吐露している。

「40代主婦と思しき女性に『ご主人様はそのことについてはどうおっしゃっているんですか?』と尋ねたところ『私は奴隷ではないのでご主人様などというものに支配されてはおりません。連れ合いなら一人おりますが』とガツンとやられてしまいました。

 目の前にいる人ならば『〇〇さん』『〇〇先生』と呼べば済むことも多いでしょうが、その人の配偶者となるとまたややこしいわけです。なんと呼ぶのか適当なのかについて考えているのですが、いつでも使える万能な呼称はまだ見つかっていません。『ご主人』に抵抗がある人には『旦那様』だって同じこと。しかし『あなたの連れ合い』というのも変です。『〇〇さんの配偶者』『〇〇さんの夫』、これもしっくりきません。大体、あいまいな言い方をすると、今度は視聴者が『夫なのか同棲相手なのか?』と混乱します。

 個人的な見解でいえば、私が男性であるせいかもしれませんが、女性の呼び方のほうが難しい。かつては『ユーはどこの出身?』と英語の二人称を使って話しかける人もいましたし、『彼女! お茶いれてくれる?』と名前のわからない新入女子社員に三人称で呼びかける人もいました。しかしこのへんの言い方は、すっかり廃(すた)れています」


■女性はみんな“お嬢さん”


 ちなみに、独特の形でこの問題をクリアーしたのが、かつてのみのもんたさん。相手が女性であれば老若問わず「お嬢さん」で押し通すという荒業を発明したのだ。もっとも、これはみのさん以外にはあまり使えるテクニックではなかったので今日まで一般化していない。

 ここで「YOU」は「あなた」なのだから「あなた」で通せばいいのでは、と思われる方もいるだろう。しかし、実用面を考えると「あなたは」は意外に使い勝手が悪いのだそうだ。


■「相手の呼称を省略」で乗り切る


「目上の方にはもちろん、同僚に使うのもはばかられます。『あなたはどう考えているんですか?』なんて言われると何か叱られているような気になりますものね。

 地震で被災した人たちが集まる避難所で話を聞くアナウンサーや記者が『あなたの家の被害の様子を教えてください』と言ったらえらそうに聞こえてしまいます。『お宅はいかがでしたか』のほうが優しい感じです。とはいえ『そちらのお宅は?』『あちらのお宅は』と『お宅』を連発するのも耳障りです。

 そんなときには『今私の目の前で炊き出しのおにぎりを配っている方がいらしゃいます』とごく短くレポート風コメントを口にして、相手の表情を窺い迷惑にならないかどうかをきちんと見極めたうえで、二人称を省略して話しかけます。

『これだけの数を用意するのは大変だったでしょうね』と共感的な問いを発して相手の言葉を待つという、相手の呼称を省略するいかにも日本的方法が有効であると実感したことがしばしばありました」

 梶原さんが指摘しているのは、相手を尊重しているか、「共感」の気持ちを持っているかの大切さだろう。おそらく多くの人が、「嫁」「ご主人」「お母さん」といった表現を気にしないのは、大切なのは言葉そのものではなくて、それを口にする人の姿勢や文脈であることを知っているからだ。

「愚妻」「豚児」が愛情表現になることもあれば、「貴方様」が嫌味に聞こえることもある。「バカ」が褒め言葉になることもあれば、「天才」が皮肉になることもある。

 少なくともよその家の夫婦間の呼び方をあれこれ言うのは、夫婦喧嘩以上に犬も食わない振る舞いなのかもしれない。

デイリー新潮編集部

2021年2月26日 掲載

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