東日本大震災で死傷者ゼロ、“奇跡の村”はなぜ助かった?  元村長が残した堤防を巡る物語

東日本大震災で死傷者ゼロ、“奇跡の村”はなぜ助かった?  元村長が残した堤防を巡る物語

太田名部地区の集落を守るように設置された全長155メートルの「太田名部防潮堤」

■「奇跡の村」があった


 東日本大震災で津波による大きな被害を受けた三陸沿岸。そんな中で、死者数ゼロという “奇跡の村”があった。村の人々にその理由を聞いてみると、ある村の“重要人物”の姿が浮かび上がってきた――。

(「週刊新潮」別冊「FOCUS」大災害緊急復刊より再掲)

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 想定外の津波に襲われ、日ごとに凄惨な被害状況が報告される三陸沿岸の中で、その村の死傷者数はなんとゼロ(行方不明者は1名。2011年4月7日時点)。住宅への浸水被害も一切なかったという。驚くべき奇跡が起こった場所は岩手県の北部、漁業が盛んな人口約3千人の普代村だ。

 太平洋に注ぐ普代川を挟んで東に漁港を抱える太田名部地区、西に村役場のある普代地区がある。

「助かった理由を村民100人に聞けば、100人全員が“堤防が守ってくれた”と言うに違いありません。村にある二つの大きな堤防が津波を防いで、人と家屋を守ってくれたと……。まだ専門家による分析は出ていませんが、少なくとも村民はそう思っています」

 普代村役場住民課の三船雄三課長は、淡々と言う。


■水門が津波を食い止め…


 村人を千年に一度の大津波から救った二つの堤防。その一つは太田名部地区の集落を守るように設置された全長155メートルの「太田名部防潮堤」で、高さが15・5メートル。そして、もう一つは普代川河口近くに位置する「普代水門」のこと。全長205メートルで、こちらも高さは15・5メートルに達する。

「この防潮堤には陸閘(りっこう・車を通すための通路)が一つ空いてますが、地震後すぐにこれを手動で閉じた。海岸に面した太田名部漁港の船や施設は波にのまれてしまいましたが、津波は堤防を越えることはなく、集落は被害ゼロでした。一方の普代水門には、水門が四門と陸閘が二つあります。地震後、遠隔操作で全ての水門と陸閘一つは閉められたのですが、残りの陸閘が余震で閉まらない。慌てて消防団員が手動で復旧を試みているところに、川を遡った津波が押し寄せてきました。団員は高台に向かって危機一髪で難を逃れましたが、津波は陸閘ばかりか水門も越え、上流に流れこんだ。おそらく高さ20メートルはあったのでは? しかし一度ブロックされたせいか勢いが殺がれ、津波は水門から200メートル程度のところまで流れて止まり、そこから更に約1キロ先の村役場周辺は無傷で済んだのです」(同)


■堤防の建設に尽力した元村長の闘い


 普代村の隣、人口約4千人の田野畑村には高さ8メートルの防潮堤が二つあったが、津波を抑えられず死者・行方不明者39名という惨状を招いてしまった。また約30キロ南に位置する岩手県宮古市田老町には、有名な「スーパー堤防」「万里の長城」の異名を取った総延長2・4キロ、高さ10メートルの防潮堤があったのだが、これも津波に乗り越えられて町は甚大な被害を被っている。

 条件が違うため他の堤防と単純比較はできないものの、「奇跡の村」を生んだ高さ15・5メートルの壁は、なぜ屹立しえたのだろうか? 太田名部防潮堤は昭和42年当時で5837万円の費用がかけられ、普代水門には昭和59年当時の金額で35億6千万円が投じられたという。現在の普代村の予算が22億円程度というから、国・県の助けがあったにしろ村を揺るがす一大事業だったに違いない。

「実際、県からも当初は“田老町の堤防が10メートルなのに、普代村がそれより高い15メートルなのは如何なものか”という声もあったようです」

 そう証言するのは、普代村の元収入役である太田喜一郎氏。そんな内外の反対を押し戻して、15・5メートルを強く主張したのが故和村幸得(わむらこうとく)氏だったという。昭和22年に初当選以来、連続10期、昭和62年までの長きにわたって普代村の村長を務めた人物だ。

「一部の村民からも、“浜のことばかり面倒見ているからワカメ村長だ”なんて批判も受けていましたけどね。でも昭和8年の三陸大津波を経験している和村村長には、“村を壊滅させた明治、昭和の大津波の高さを考えると、10メートルでは次も根こそぎやられてしまう”という強い危機感があった。だから反対する村会議員、県などに足しげく通っては説得を続け、結果、村議会ではほぼ満場一致で防潮堤や水門の建設が決まりました。その当時の判断が、今回の大津波で多くの命を救ったわけです」(同)


■津波で壊滅的な被害を受けた過去


 和村元村長を戦慄させた昭和8年の津波では、太田名部の集落だけで255人中、99人が死亡。家屋58軒中、43軒が流失している。さらに遡って明治29年の津波では267人中、196名が亡くなり、家屋41軒がほぼ全滅した。この時、村を襲った波が、15メートル級の高さだったと伝えられている。「奇跡の村」が形作られていく背景には、重く苦々しい記憶と、最悪の事態を想定するリアリズムがあったのだ。もちろん鈴木善幸元首相と親密だったという和村元村長の政治的手腕も、堤防の実現に大いに寄与したことは、言うまでもない。

 元村長の息子の嫁、つまり義理の娘にあたる和村淑子さんは、

「確かに現役村長の時、おじいちゃん(和村元村長)は役場の仕事以外にも、陳情等でしょっちゅう東京や盛岡に出かけていました。でも自宅では仕事に関する自慢話も苦労話も一切しない。ですから普代の人々の命を救った(水門や堤防を作った)のが、おじいちゃんだったという話も、知ったのは震災の後でした。とにかく、家では私や孫にも気を遣ってくれる人でした」

 とその人柄を語る。和村元村長は昭和62年に村長を辞めて政界引退。以後は政治に関わることなく大好きな海釣りで余生を楽しみ、平成9年10月に89歳で亡くなった。村役場を去る際の挨拶は、

「村民のためと確信を持って始めた仕事は、反対があっても説得してやり遂げてください。最後には理解してもらえる。これが私の置き土産の言葉です」

 とはいえ普代村のケースは、他の町村にも安易に当てはめられるものではない。また今回の結果だけを見て、殊更に英雄視して持ち上げるのも軽薄だろう。

 しかし「奇跡の村」には、いま全国民が心の底から望んでいるのに得られそうもない「強い信念に基づく指導力と実行力」が、15・5メートルの高さで残されていたのは確かなのだ。

2021年3月7日 掲載

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