写真で振り返る3・11直後の「ゴーストタウン福島」ルポ 記者の脳裏に蘇る光景

 東日本大震災が発生した翌日、筆者は当時勤務していた別の出版社の記者として被災地に向かった。3月13日早朝、いわきから「浜通り」に入り、南相馬を目指した。道中には、津波で電源を喪失し緊迫した状態にあった福島第一原発があった。ゴーストタウンと化した福島県沿岸の町を車で駆け抜けた当時の記憶を、写真とメモから振り返りたい。

 ***

■川内村を目指したが……


 東京を出たのは、一夜明けた3月12日の午後2時過ぎ。首都圏の道路は完全に麻痺していて、なかなか前に進まなかった。茨城県・大洗に到着した時には午後10時を回っていた。大洗も海岸線沿いは津波の被害がひどかったが、カーラジオからは、東北沿岸部の甚大な被害状況が繰り返し伝えられていた。当時はスマートフォンなどなかったので、ラジオだけが頼りだった。ちょうどその頃、原発周辺の避難民が福島県川内村に押し寄せているというニュースもしきりに流れており、気になっていた。大洗から150キロの距離だった。

 そこで記者は福島県に入る決意をしたのだった。午後11時過ぎのことである。

 茨城県から海岸線沿いに北へとつながる国道6号線は、すでにこのあたりから液状化現象で、ところどころ路面がでこぼこになっていた。ゆっくり慎重に進みながら、県道に乗り換え山へ入っていく。だが、あと10キロというところで悲運に見舞われた。

 いつの間にか雪道に入ってしまい、前に進めなくなってしまったのだ。無理矢理バックを繰り返すうちに、雪の中に後部車輪が埋もれてしまい、いよいよ身動きがとれなくなっった。深夜2時過ぎである。前からも後ろからも車は来ない。幸い、燃料はまだ4分の3ほど残っていたので、すぐ遭難ともならないだろうと我が身を励まし、助けが来るのを待ちながら寝た。

 午前5時頃。川内村のほうから光が見えた。いわき方面に避難する男性の車だった。男性の助けでようやく車を動かせるようになったが、「ここから先は雪がすごいから、ノーマルタイヤでは絶対無理」と言うので、川内村はあきらめ引き返すことにした。

■地割れだらけの国道6号線を北上


 いわきまで戻って考えた。二択だった。このまま引き返すか、浜通りを北上して被災地に向かうか。当然、後者で気になるのは原発だった。既に福島第一原発1号機が水素爆発したというニュースはラジオで流れていた。ただ、まだその頃は、放射能漏れは確認されていないという情報も流れていた。

 思い悩んだが、最後は取材を続行したいという欲が勝った。危険な状況ならばすぐさま引き返し、無理はしないと決めて進むことにした。

 日付が変わって13日の午前7頃、いわき市から国道6号線に入ろうとしたところで、すぐ警官に制止された。避難勧告が出ていた福島第一原発から20キロ圏内の境界を守る岡山県警の警官だった。

「どうしてもこの先に行きたいのですか」

 と警官は聞いてきた。「はい」と答えると、

「わかりました。どうしても行きたい人ならば、行かせていいと言われているので、どうぞ」

 徐々に道の地割れがひどくなってきた。ただ、危険な箇所には赤いコーンが立てられており、注意すれば通ることが出来た。避難区域の中でも、避難せずに残り、道行く人のために地道な作業してくれていた人がいたのである。

 それでも時々、道を塞ぐように地割れしている箇所を強引に通らなければならない。その度、徐行し慎重に渡る。やがて、右手に楢葉町役場が見えてきた。

■楢葉町役場には5人の役人が残っていた


 朝7時半。楢葉町役場の駐車場には車が数十台も駐車しており、スペースがないくらいだった。ただ、役所の中は静まり返っていた。棚が崩れ、書類があふれ出ている。コピー用紙、電話帳、ファイル、書籍などが散乱していた。2階にあがると人気があった。5人の役人が朝食を摂っている最中だった。

 記者と名乗ると、彼らは歓迎してくれた。役場は福島第一原発から10キロ圏内にある。避難しないのかと聞くと、責任者はこう答えた。

「ここが災害対策本部になっています。先に住民たちはいわき市に避難させたが、原発の情報などを収集し、町民に伝えるのが私たちの仕事。危険は承知だが、町民たちを無事帰宅させるため、ここに残らなければならないのです」

 画像が悪いテレビにはNHKが映っていた。責任者は、カップラーメンをすすりながら話を続けてくれた。

「被害状況は正確に調査していないのでわからない。目視で、全戸流失が60から70。行方不明者11人。死亡は2人。避難は7000名。うち4000名がいわき市の学校など、ほかは親類などを頼った自由避難です」

 記者が死者2名について訪ねると、快活に受け答えていた5人の顔は曇った。

「実はまだ遺体を毛布にかけ、安全な高台に移すだけが精一杯で、収容できていないのです。今は避難勧告が出ているので、外で作業もできない。我々もここに籠城ですよ。行方不明者の捜索もできない状況なのです」

 1人は86歳のおばあさんで、もう1人は波倉地区の50代の消防団員だったという。消防団員は救助に向かい、何人か救出した後、津波に襲われたのだという。

 地震の時はどうだったかと聞くと、

「ここは6強。怖いなんてもんじゃないよ。今はざっくり片づけたが、机や棚にあったあらゆるものが落ちてきたから。激しい揺れが1分以上は続いたと思う。体感的には5分以上に感じた」

 そう言ったそばから、また揺れる。記者が屈むと、彼らは笑った。

「3くらいだよ。こんなのは、もう慣れたね」

 後日、東京に戻ってから確認したところ、この直後に彼らも、第一原発の状況が緊迫したため、住民たちを追って避難したという。

■首輪をつけた犬が駆けてきた


 役所を出ると、すぐ側で古い日本家屋が半壊しているのが目に入った。民家のある通りに入ると、人気はまったくない。まさしくゴーストタウン。映画のワンシーンのようだった。

 遠くに何かの気配を感じた。振り向くと、犬が駆けてくる。赤い首輪をつけていた。飼い主に置いて行かれ人恋しいのか、記者の下を離れず、必死にすがりついてくる。お腹が空いているのか。車に積んであったなけなしの食料からプリンを分け与えると、かぶりつきはじめた。

 ここから先は原発と隣接する危険な区域である。だが、楢葉町役場の人も「測定しているが、今のところ危険性はない。行けることは行けるよ。制止する人もいないから」と話していた。時折、ラジオから激しい警報音とともに、地震速報が流れた。その度、車を停め、緊迫して静まるのを待つ。

 町役場を出て3、4キロくらい進んだあたりで、激しく道が寸断されているところに出くわした。頭上の標識を見ると「福島第二原発」。これまで道の凹凸、地割れは数々目撃してきたが、数メート規模で寸断されている道に出くわすのは初めてのことであった。原発がいかに激しい揺れに襲われたかが、ひと目でわかる光景であった。

 第一原発に最接近したのは、午前9時半頃だった。海岸から4キロほど離れた県道35号沿いを走っていたため、視界にはまったく入らなかったが、車のナビに浮かび上がった「福島第一原発」の文字を見て、激しい恐怖に襲われたのを覚えている。車の窓を締め切り、車内でもマスクをして、早く遠ざかろうとアクセルを強めに踏んだ。

 ちょうどその頃、第一原発の中では、吉田昌郎所長とはじめとする所員たちが、海水注水するなどしてメルトダウンを食い止めようと必死に格闘していた。


■千葉県・柏から自転車で走ってきたという男性と遭遇


 双葉町に入ると、リュック一つでママチャリに乗った50代男性に出くわした。車を降りて、「大丈夫ですか。ここは危険区域ですよ」と声をかけた。

「さっきも消防団の人に避難して下さいと言われたんで、あわてて走っているんですよ」

――ラジオは聞いていないんですか。

「ええ。千葉県の柏から夜通し自転車をこいできたんです」

 男性は、宮城県の七ヶ浜をめざしていると話した。柏を前日の午後1時半に出発。1、2時間の仮眠を取る以外は、夜通しかけて自転車でここまでやってきたという。

「家族を残し、単身赴任しているのです。幸い家族は生きていることが確認できたのですが、家族とめちゃくちゃになった家のことが心配で。電車も車もなければ自転車を使うしかないじゃないですか」

 記者が、第一原発が危険な状態にあるようだと告げると、男性は顔を青くして走り去っていった。

 県道から再び6号線に戻り浪江町へ。ここらになると、車の往来が若干増えてきた。といっても、3、4分に1台通るくらいである。

 国道の両脇には、衣料店、ファミリーレストランなどのロードサイド店舗が立ち並んでいるが、人気はまったくない。浪江町の交差点付近で、セルフ式のガソリンスタンドを発見し、慌ててハンドルを切った。

 記者を悩ませていたのは、すでに半分を切ろうとしていたガソリンであった。セルフ式ならば給油できるのではないか。祈るような気持ちで札を入れたが、機械はびくともしなかった。

 やがて、戦場のように荒れ果てた光景が飛び込んできた。道路の半分が水浸しになり、建物や折れ曲がった電信柱がいくつも浮いている。津波で倒壊した家屋の木材が流木とごったになって積み重なっていた。この付近で死者が何人も出ていたことは、たやすく想像できた。そんな中、ブルドーザーで道の整備を黙々と続ける1人の男性がいた。

 午後2時を過ぎていた。記者はさらに6号線を北上しようとしたが、途中、地割れや流木がひどくて進めない。仕方なく他のルートを探そうとするが、そっちも同様で、最後は道に迷ってしまった。すると、地元の消防団の人が乗った消防車と鉢合わせた。

「ここは避難命令が出ている地域です。早く出て下さい」

 記者が道に迷ったことを告げると、「では、誘導しますので付いてきて下さい」。彼らに従い、およそ地元民しかわからないような小道をくぐり抜けていくと、国道に戻ることができた。


■住民でごったかえしていた南相馬市役所


 双葉町を抜けると車の往来が激しくなってきた。午後5時頃、ようやく記者は南相馬市役所に到着した。

 市役所には、たくさんの市民が詰めかけていた。市役所の1階には、壁一面に避難民の名簿が貼られていた。市内の50数カ所に避難所があり、計7173名が避難していると書いてあった。

 青い顔で、駆け足で役所に入ってきて、一つひとつの名簿を丹念に探し出す市民が何人もいた。マスクをつけた女性が深刻そうな顔で2度、3度、同じ作業を繰り返している。意中の人がいなかったのであろう。暗い顔をして、役所を出ていこうとするので、声をかけたが、首を振って走り去ってしまった。そんな人が絶えなかった。1人、上下スウェット姿の40代女性に話かけると、取材に応じてくれた。

「私は危ういところを、近隣の人に救助されたんです。海から1キロくらいの萱浜(かいばま)という地域に住んでいました。地震もすごかったですが、物が倒れた程度で、家が崩れるほどではなかった。津波警報もありましたが、海から距離もあったので、津波のことなど心配していませんでした。で、40分後くらいですかね。ちょうど、玄関に出てはき掃除をしようとした瞬間でした」

 目の前に泥の壁が迫ってきたというのだ。

「慌てて家に戻り、子供たちを連れて2階にあがりました。後のことは覚えていません。家の屋根に登り、家族4人で救助を待ちました。しばらくすると、隣の屋根にいた近所の人が手を差し延べてくれ、何とか脱出することができたのです。夫と子供2人。4人無事だったことがなにより。すべての家財を失って、あるのはたまたまポケットに入っていたコレ(携帯)だけ。もうこれだけでありがたい気持ちです。ただ、連絡が取れない友人たちもいます。彼らのことを思うと……」


■「3号機はどうなっていますか」避難民たちは聞いてきた


 次に、小高(おだか)地区の人々が避難している、南相馬市立石神中学校の避難所を訪れた。体育館には所狭しと、避難民たちが毛布にくるまっていた。2階の通路までもが寝床になっている。原発近辺に退去勧告が出た都合で、昨夜の午後7時頃から移動してきたという。市役所の職員に話を聞いた。

「今は1000人。マックスで15000人いましたが、うち500人はほかに回しました。もう大混乱です。20キロ圏内にあった避難所からさらに避難してここに来た人も多く含まれています。食料は新潟からの援助などがあり、今のところ大丈夫ですが、毛布が若干足らない。あと、歯ブラシなどの日用品も。避難勧告が20キロから30キロになったら、またここも移らなくてはならない。作業に追われ、原発の様子がわかりません。今、どうなっています。水位は下がったのですか。3号機はどうなりましたか」

 緊迫した情報が伝えられていた3号機について不安そうに聞いてくるのは、彼だけではなかった。取材中、避難民たちは口々に「3号機はどうなったんですか」と口々に聞いてきた。ここにはテレビはない。ラジオが流れるだけ。みなが、もっと情報を欲しがっていた。


■「生きていて良かった」と繰り返し訴えた男性


 ある30代男性は、3月12日に消防団の一員として捜索にも加わった時の様子を話してくれた。

「家は海岸から距離はあったので、津波は免れました。ただ、地震と地盤沈下で家屋が傾いてしまい、もうだめですね。昨日、海沿いで救助活動に加わりました。2名の遺体を運びました。1人はおばあさんで、もう1人は年齢不詳の男性です。全身泥まみれで、衣服もわからない状況でした。かわいそうで、顔を拝むことはできなかった」

 男性の顔は真っ黒になっていた。

「人間は生きていると軽いんですね。死後硬直して、4人で運んでもかなり重かった。彼らには申し訳ないが、生きていてよかったと思いました。家はダメになりましたが、幸い、息子2人、妻、家族はみんな無事で、今ここに避難しています。両親も無事は確認しているのですが、今、どこの避難所にいるかわからないので、不安です。初めての経験で、まだ被災したという実感はわきません。ただ……」

 彼は涙をうっすらためて、訴えかけるように繰り返しこう言うのだった。

「生きていて良かったと心底思うのです」

 午後7時過ぎ、避難所の取材を終え、福島市へ移動した。午後10時頃、JR福島駅前の東横インにチェックイン。全身泥まみれになっていたが、断水で風呂もトイレも使えなかったことを覚えている。翌日午前11頃、とうとう3号機も水素爆発を起こし、日本中が絶望で覆いつくされた。記者は福島に避難できたが、避難所の方々は怖い思いで一夜を過ごしていたのだろう。

 改めて取材を振り返ると、復興は3・11直後から始まっていたのだと思った。身の危険を顧みずに、道路にコーンを置いてくれた人、避難するよう呼びかけ続けた消防団員、役所に残って住民たちのために情報収拾にあたっていた役人。名もなき彼らの勇気ある一歩があったからこそ、今日の福島がある。

デイリー新潮取材班

2021年3月11日 掲載

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